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第2章


 僕の18の冬から美里が消えてからあっという間に7年が経った。

 僕は大学進学のタイミングで実家を出て上京した。大学を出て新卒入社をした会社はとても良いところで、大手企業の営業。新卒の頃から残業は多いし大変だったけれど、先輩もいい人だし同期とも打ち解けられていて、今も関係は良好。でもどこか本腰が入らない。僕は美里の背中を見送ってから今日まで、なんとなく生きている感が否めなかった。


 あれから栞は美里に話を聞いたのか、咲人に話を聞いたのか、美里が引っ越した週末、一人で飛行機に乗り突然帰国した。その時の栞は何かに焦っているようだった。咲人と話す姿も妙に親しげで、僕だけ何も知らない邪魔者のような感覚になった。僕は何度も美里の事を二人に尋ねたが、結局真実を聞くことはできなかった。


 「私たちだけでは碧に話せない」


 そう突き放された。あまりに二人が何も話してくれなかったからか、僕も徐々に二人と距離を置いた。今思うとそれはただの嫉妬で、美里の事なのに自分より知っている人がいるという事実にむかついていたんだと思う。

 とは言っても自分から動くこともできなかった。それは美里との連絡手段がなかったからだ。携帯も変えたみたいで繋がらず、栞も新しい番号は知らないと言っていた。完全に僕の人生から美里は消えた。裏掲示板での書き込みも、美里が引っ越してからは段々となくなっていき、卒業を迎える頃にはすっかりなくなっていた。あんなに騒ぎ立てていた人たちも、「今何してんだろうね〜」と軽い気持ちで呟くだけで、そこまで興味がなさそうだった。


 大学に進学しそこでもやはり僕は何かと人気者だった。でも好きになる人はおらず、同じ大学に進学した春樹に


 「いいなと思った子と付き合っちゃえよ、人生なんでも経験あるのみって言うだろ?」


 と、前にも言われていたように念を押され、告白してくれた子と数回付き合った。でもどれも長くは続かず、「そっけない」「私のこと好きなの?」と、どの人にもそう言われた。そんな大学生活は男友達といる方が楽しくて楽だった。栞とも相変わらず親戚付き合いが続いていたものの、互いに気を遣っていたのか月日が流れていく程、美里の話をすることはなくなっていった。

 そして僕は思い切ってフットサルのサークルに入った。体を動かしているときは何も考えなくていいから楽だった。サークルで柏木徹という少し変わった奴と仲良くなった。彼は自由奔放で、考えていることが行動と言動に全て出てしまう感情型。このタイプの人間は一緒にいて楽でいい。相手が何を考えて、何を思っているのかいちいち読み取らなくて済む。僕は大学のほとんどを徹と過ごした。


 華金と呼ばれる金曜日。徹から店の名前と地図が送られてきた。いきなりの誘いに呆れたが、僕も今日は飲みたい気分だったから仕方なく、『行く』とだけ返事をした。

 夏の暑さが21時になってもまだ街に残り、蒸し暑かった。仕事を早く終わらせる予定だったのに、やはり今日も残業だった。徹との約束から一時間も遅れてお店についた。居酒屋とイタリアンという正反対のお店が並んでいる。当たり前のように居酒屋の前で徹に連絡をしようとしたら、隣のお店から聞き覚えのある声が聞こえた。


 「碧!こっち」


 声の主は徹だった。


 「は?待て、お前と二人でこんな店とか俺無理なんだけど」


 そういう僕に対して徹は笑いながら応えた。


 「バカか、それはこっちも願い下げだ。いいからまあ来いよ」


 そして肩を組まれ店に連れ込まれた。僕を向かい入れたのは二人の女性だった。一人は徹の二年前から付き合っている彼女だ。学年は一つ上だが、僕とも大学が一緒で面識がある。でももう一人は誰だ。華奢な体に淡い配色のノースリーブのワンピースが体のラインを嫌でも伝えてくる。茶色い髪にまんまるな目、背筋を伸ばし真っ直ぐ佇む姿からいかにも育ちがいい匂いがした。


 「この子、私の友人の速水咲良」

 「あ…どうも…」


 僕は徹の腕を引っ張り、睨みつけた。帰ろうとする僕の腕を引っ張り


 「だってお前どんだけ彼女いねーんだよ、ちょっとは恋愛をしろ」


と、徹は小声で言った。


 「余計なお世話だよ」


 そう言いながら僕はとりあえず席に座った。

 いくら前を向こうとしても、僕の中にいる美里という存在があの頃に何度も引き戻す。そうならないように、美里はあの別れ方を選んだのだろうけれど、僕にとっては難しいことだった。忘れたいと思うよりも、同じように美里も自分を思い出してほしいと願った。そして、美里が思い出す自分は、ちゃんと美里のことを守れていますようにと願っていた。

 ふと気がつくと、咲良が僕にサラダを取り分けてくれていた。


 「ありがとうございます」

 「いえ、とんでもないです」


 ぎこちない距離感の二人は、お互いの目を見ずに初めての会話をした。それから、主に徹とその彼女が場を盛り上げてくれた。話していくと、咲良は速水建設という大手建設会社の娘と言うことが分かった。どおりでいかにも育ちがいい雰囲気を感じたものだと僕は最初に抱いた印象に納得した。どうせ親は優しくて、欲しいものはなんでも手に入って、恵まれていたんだろうなと思った。


 「何か飲まれますか?」


 僕のグラスが空いたことに気が付き、咲良が気を利かせて聞いてくれた。


 「あ、じゃあハイボールで」


 了解ですと話す咲良はよく出来た世話係みたいだった。お互いのことを話していくうちに、年齢は一個上で、育ちは東京、徹の彼女とは高校の友達だということがわかった。女子校に通っていたらしく、僕や徹が知らない女子校の話をたくさん聞いた。なかなか面白かった。


 「碧くんはどんな学生だったの?」


 いきなり話を振られて驚いた。どんな学生だったかなんて、僕にはこれと言って答えられるものはなかった。


 「どんなって、普通でしたよ」

 「恋とかしてた?」


 いきなりタメ口になったし、会話の内容も少し距離が近い感じがした。


 「まあ、人並みにですかね」


 そう言った僕に徹がすかさず突っ込んだ。


 「こいつ、全然恋愛興味ないの、なんとかしてやってよ咲良ちゃん」


 その言葉でくすくすと笑っていた咲良の顔は、意外にも昔の美里の笑顔に少し似ていた。

 終電が近づき、店を出て、駅まで歩いた。僕は隣を歩く咲良に少しだけ緊張していた。


 「そういえば、速水さんは恋してたんですか?」


 気まずい空気から脱却するべく、僕から話しかけた。


 「名前で呼んで欲しいな」

 「あ、じゃあ咲良さんって呼びますね」

 「敬語もやめて欲しいな〜ほら、徹くんもタメ口だし」

 「わかりました。あ、わかった」


 僕の質問は結局流されてそのままになった。

 それから連絡先の交換をした二人は、一週間後一緒に出かけることになった。とは言っても、これは徹が無理矢理作ったダブルデート。待ち合わせ場所に行くと、咲良だけが待っていて、あのバカップルはいなかった。


 「二人は二人でデートするみたい」


 少し照れ臭そうに咲良は僕の目を上目遣いでじっと見つめた。くそ。徹の奴…次会ったら…と頭で思っていると、咲良に袖を引っ張られた。


 「ねえ、行こ?」

 「あ、うん」


 咲良の行動はあざといとはこういうことなんだろうと、思わざるを得ない。大丈夫、こんなのに引っかかったりしない。そう心で思った。

 二人で映画館に行き、流行りの映画を見た。映画の中の二人のリアルな恋愛模様が描かれていた。少し頼りなさそうなのに現実を見つめていて、いつの間にか「じゃあ」が口癖になってしまった男の子と、小さな体で精一杯理想を求めて例え違う道に進むことになったとしてもそれを選択できる芯の強い女の子。とても素敵な二人だった。一粒のお米を沢山集めておにぎりを作るように、二人の隙間も少しずつ大きくなっていき、それはもう取り返しのつかないくらい大きかった。大きすぎていた。


 僕と美里の間に出来た隙間は、この映画のように大きすぎてしまったのだろうか。この映画みたいに時間をかけてじっくりとできた隙間ではなかったけど、あの時にできた隙間は、あまりにも大きすぎたのだろうか。

 それからと言うもの、映画が終わってご飯を食べに行っても、夜道を二人で歩いていても、触れる距離にいる咲良ではなく、僕の頭の中はどこに居るかもわからない、美里が支配していた。

 二人で映画を見に行った半年後、僕らは付き合うことになった。告白は咲良がしてくれた。三回遊びに行っても何もなかった僕らは、このまま友達になっていくんだろうと思っていたところで、四回目のデートで咲良から付き合おうという言葉が出た。笑った顔が似ていると言う理由で、咲良にあの頃の美里を重ねていて、告白を受けたのも、正直それが決め手になってしまっていた。失礼なことをしていると分かっていたけど、それでも咲良のことは僕の中で「好き」というか、特別にはなっていた。


 時間とか新しい誰かの存在というものは、自然と過去を楽にしてくれる。咲良と過ごしていくうちに、間違いなく美里との時間は過去の出来事になっていき、完全には忘れることはできなくても、少なくとも僕をあの頃に縛り付ける存在ではなくなっていった。

 

 運命の分かれ道というのは、突然襲ってくるものなのだろうか。安定した生活をしている人ほど、苦しめる設定にでもなっているのか。それとも、自分のことが神様は嫌いなのだろうか。僕がそう思ってしまうほど、美里との再会は突然だった。


 「和泉様ですね。ご案内致します」


 その日は僕と咲良が付き合って一年の記念日だった。レストランのディナーを食べに行ってテーブルに案内をされた先に、美里はいた。僕達が案内された隣のテーブルに男性と二人で座っていた。きっともうディナーの終盤なのだろう。テーブルにはコーヒーが二つ、置いてあるだけだった。

 僕と目が合った美里は、ひどく驚いた顔をしている。僕は衝撃を覚えた。昔と変わらず百合の花のような純粋な雰囲気に黒く長い髪、一段と白く綺麗な肌が輝いて見えた。あの頃と変わっていたのは、化粧をしていて色っぽくなっていた事くらいだった。

 目の前にいる美里は確かに本人だ。どういうことだと、頭で考える。食事していても、少し目線をずらすと美里が視界に入って意識が全て持っていかれた。聞きたいことが山ほどあるのに、声をかけるどころか僕はまた身動きすら取れない。美里と一緒にいる男性は、しっかりとスーツを着て髪もセットしていて、いかにも大人な男だった。そいつは誰なのか。今までどうしていたのか。気になって仕方がなかった。


 デザートが届き、コース料理も終盤。チラッと美里の方に視線を向けると、相変わらず凛とした表情でコーヒーを飲んでいた。あの頃はカフェオレを好んで飲んでいたのに、となんだか不貞腐れた気分になる。二人の雰囲気が妙に落ち着いていて、僕の心は反対に乱れて仕方なかった。

コーヒーが飲み終わりそのまま帰ろうとする美里の姿に、居ても立っても居られなくなり、僕は席を立ち美里の腕を掴んだ。


「え、碧くん何してんの?!」


 慌てた咲良が声を出したが、僕の耳にはあまり届いていなかった。腕を掴まれ振り返った美里は、意外にもあまり驚いてなさそうな表情を浮かべていた。優しく僕の手をどかし、一緒にいた男性に向かって言った。


 「秀一さん、この人地元の同級生なの。少し話がしたいから先に車行っててくれる?」


 僕達の雰囲気を察した秀一と言う男性は、


 「分かった。車で待ってる」


 そう言って大人な落ち着いた対応で僕に一礼をし、歩いて行った。咲良も僕の慌てた姿を初めて見て、驚いた表情を浮かべていた。


 「え、碧くんこの人と知り合いなの?」

 「うん、そう地元のね」

 

僕は美里の手を引っ張っり、お店の前の公園に行った。美里は僕の方に振り返り口を開く。


 「久しぶりだね、和泉くん」


 八年の月日は、僕を苗字で呼んでしまうくらい長く、あの頃を遠い過去にするほどだった。


 「あ、ああ。何から話していいのか分かんないわ。ごめん、俺が引き止めたのに」


 情けないくらい。何も出てこない。


 「元気してた?」


 美里が僕に向かってそう言葉にした。聞き覚えのあるその言葉に、8年前の美術室を思い出した。


 「まあ、それなりに。そっちも元気そうだね」


 僕はなぜが不貞腐れたような言い方で美里に言った。


 「栞ちゃんは?元気?」

 「ああ、栞今年から日本帰ってきてる」

 「え、そうなんだ!懐かしいなあ」


 美里は微笑みながらそう言い、


 「うん。ごめん驚いたよね」


 僕の顔色を伺いながら口にした。僕は咄嗟にさっきから聞きたかった事を思わず勢いで聞いてしまった。

 「あの人誰?」


 すると美里は少し驚いた顔をして答えた。


 「同僚が紹介してくれた方で、断れなくて食事だけ…」


 僕らは大人になった。もうあの頃とは違う。でも僕の中の美里はあの時から何も変わっていないのに、美里の中の自分はもうどこかへいってしまったのだろうかと、そう思った。あの時繋がった二人の想いが消えて無くなってしまうくらい、月日というものは経ってしまったのだろうか。


 「俺は今でも…」


 そう言いかけたところで、美里が口を開いた。


 「碧くん今何してるの?仕事」

 「俺はただのサラリーマン…そっちは?」

「私は、保健教員してる」

「え!そうなの?すげーじゃん」

「なんにも凄くないよ?平凡な生活してるだけ」

「いやいや、すごいよ」

「和泉くんは昔言ってた夢―……」


 美里が何かを話そうとした時、


 「碧くん…!」


 後ろから咲良が僕の名前を呼んだ。振り返ると少し急いだかのように息を切らした咲良がいた。


 「お料理、冷めちゃうよ…」


 美里とは正反対の見た目に、心配そうに掠れた声。そんな咲良を見た美里は、


 「じゃあ、そろそろ行くね。会えてよかった和泉くん」


 そう言葉にして、また僕の横をすり抜けた。僕は思わず美里の腕を掴んだ。もう二度と、同じことを繰り返したくなかったからだ。そんな僕の姿を見て、驚いているのは美里だけではなく、咲良も同じだった。


 「あ、今度同窓会開きたいから、連絡先教えてよ」


 口実はなんだってよかった。これで美里と別れたら、もう二度と会えない気がしたから。


 「……うん」


美里は少し考えてから携帯を取り出した。連絡先を交換して、


 「じゃあまた」


 また次も会おうという言葉を口にして二手に別れた。

 美里のことで頭がいっぱいになった僕に、咲良は質問ばかりしてきた。どういう関係だったのか、いつの同級生か。答えられるところは全て答えた。別に怪しい関係では無い。ただ、僕にとって美里は『初恋の相手』というだけだ。でもそれは、咲良には言わなかった。わざわざ彼女に言うことでもないと思ったから。隠したい訳では無い、と言い聞かせてる自分がいた。

 その日の夜、僕は咲良と体を重ねながら、美里のことを考えていた。あの凜とした雰囲気、白くて綺麗な肌、艶やかな長い髪、思い出すだけで苦しくなった。僕は咲良と付き合って初めて、目を瞑り美里に触れるように咲良に触れた。男は想う相手でなくても対応できると、何かで読んだ事がある。まさか自分もその男に該当していたなんて。そんな事思いながら嘘で固められた行動で咲良に触れた。

 そして、咲良が寝た後、僕は美里にメールを送った。


––––ちゃんと話がしたい


 深夜にも関わらず既読がつくのが早かった。そして美里からも


––––うん。話そう


 そう返信が返ってきた。美里が何を考えているのか分からない。連絡先を聞いた時に少し考えこむ姿を見せたから、てっきり断られると思っていた。

そして僕らは一週間後に会う約束をした。

 



「お待たせ」


 しなやかな声でタイトなワンピース姿で現れた美里は『大人な女性』そのものだった。そんな彼女の姿に動揺しつつも僕は平常心を必死に保っている振りをした。

 お互いのドリンクが届き、一息ついてから美里から話し始めた。


「和泉くんにまた会えるなんて思ってなかった」


––––俺はいつかまた会えると思ってたよ


 なんて言葉は喉を通らなかった。


「ああ、俺もだよ。あと、七瀬が先生になるなんて、ちょっと意外だった」


 僕の言葉に少し笑みを浮かべて美里は話し始めた。


「そうだよね、あの頃の私からしたらね、ぽくない、よね……」

「ううん、悪い意味じゃなくてさ、先生って生徒と常に関わる仕事だろ?あの頃の七瀬は、人と関わらないって感じだったから意外って言うか…でもなんか、ぽいなーとも思うんだよ。矛盾してるけど」



 僕はそれから美里があの日以降何をしていたのか話を聞いた。

 それで分かったことは、転校先でなかなか馴染めずあまり学校に行けなくなったこと。大学には進学をしずに家を出て、アルバイトをしながらギリギリの生活をしていたこと。保健事務員の免許を自力でとって、知り合いのつてで学校へ就職できたこと。そして先日、高野秀一という大手食品会社の社長を同僚から紹介されたらしい。いつもお世話になっている同僚からの紹介だから、断れなかったと言っていた。


「いかにも、社長!って感じだったもんな」

「確かに、しっかりした人だったよ」

「付き合う、のか?」

「え?や、まだわかんないよ…それに彼も、私のことそう言う感じかわかんないし」



『彼』というワードにいちいち胸がチクッとする。美里に彼と言われる相手が自分ではないこの事実に、僕は今後耐えられるか不安になった。


 「先生って、教育者だから保護者とかうるさいイメージだけど……大丈夫?」


 仕事として教育者を選んだ美里が誇らしい反面、僕は美里の過去を含め心配だった。


 「うん。今のところ。もう何年も前だから、表向きは事故に巻き込まれてるってだけだし大丈夫だと思う。それに今、すごく楽しいんだよね。私と同じ境遇の子の助けになりたいなって思ってる」


 その言葉を聞いて、あの山の頂上で美里に将来なりたいものはあるかと聞かれた日の事を思い出した。あの頃はただ平凡に生きたいと言っていた彼女が、こんなにも楽しそうに話している。あの頃よりも楽しそうな雰囲気を感じるくらいに明るい。あの作文を読んでいた人間と思えないくらい、穏やかな空気を纏っていた。


 

 今までの美里の人生は壮絶という言葉が似合う人生だった。そんな中、巡り合った世界で夢を見つけた彼女が、僕には眩しすぎるくらい輝いて見えた。僕は自分が手放したあの頃の彼女が、自分よりも先に大人になっているんだと自分が惨めに思えるくらい、羽ばたいているように感じた。

 どこかで笑っていてほしい。そんな風に思って生きてきた僕自身も、自分の想いが報われたような気持ちになった。どこでどんな形で騒がれるか分からない世界。噂が好きな人々は、いつか彼女を悪者にして苦しめる日が来るかもしれない。

 でも、美里には後悔しない選択をして欲しかった。後悔というものはいつまで経っても自分を離してくれない。僕が美里の背中をただ見送ったあの日のように、忘れられないものになってしまう。今目の前で笑っている美里にはそんな人生を歩んで欲しくない、素直にそう思った。美里が今幸せで、それが彼女のやりたい事ならば、応援したいそう思った。そして今度こそは、彼女のその幸せを自分が守らないとそう思った。


それから、僕らは何度か食事に行った。あの頃聞いた事実の話は一切しない。世間話や昔の話をした。

美里はどう言うつもりなのだろうと、何度も思った。このまま昔みたいに遊んだり、話したりする気だろうか。何事もなかったかのように笑う彼女に、会うたびに惹かれていく。『初恋の人』と言うだけで、美化しているのかもしれない。あのまま行方が分からなくなって、もう会えないと思った。それなのに、こうやってまた再会して…。

物凄い速さで美里に惹かれていく自分に驚く。咲良という彼女がおりながら、美里のことばかり気にしている。咲良は何も悪くない。このままじゃダメだと、美里と距離を取らないとと思うようになった。

 栞にも連絡をしたが既読無視。美里のことになると栞は敏感になる。昔はあんなに仲がよかったのに、どうしてこうなってしまったんだと思うと、いつもあの事件を思いださざるを得なかった。「私たちだけでは碧に話せない」そう言って突き放したあの事件の事が気になってない訳ではない。でもむしろ、美里も栞も二人が話したくない事ならば、無理して聞いてその真実を処理する自信が僕にはなかった。だからこそ、あれ以上は聞けずにいた。


 「ねえ、最近私と一緒にいるの楽しくない?」


 僕が考え事をしていると急に咲良がそう話し出した。


 「何急に。そんな事ないよ」

 「そう?なんか心ここに在らずだなって感じるんだけど」


 いつもあざとくて可愛い印象の咲良だけど、こういう話になるとしっかり歳上の落ち着きを見せてくる。


 「そんな事ないって、ほら食べよ」


 咲良が作ってくれたハンバーグを食べる。


 「うま!」

 「本当〜良かった〜!」


 確かに美味しい。けど、僕はもっと味が濃いのが好きだ。そんな些細な事自分が我慢すればいいとそう考える事が、咲良に対していつからか多くなっていた。

 そもそも、金持ちの娘ということもあってか、毎回デートは高級なレストラン。僕は昔ながらの喫茶店とか、居酒屋とかそっちの方が居心地がいいのにも関わらず、毎回咲良の要望に応えていた。初めはそれで良かった。新しい世界が開かれているように思えて楽しかった。でもどんどんと窮屈に感じるようになっていた矢先に、美里との再会。これは運命の道標なのか、それとも美里と再会したから余計に自分の我慢が目についてしまうのか。きっと後者だろうと僕は感じるようになっていた。


 咲良との違いは他にもある。それは泊まりのデートをすると露わになる事。まずは朝食。僕はご飯派で咲良はパン派。僕は起きてすぐベットメイキングをしたいタイプで、咲良は後からするタイプ。使い終わった食器も僕はすぐ洗いたいタイプで、咲良は後回しにするタイプ。育ちがいい割に意外とガサツで、そんなところも初めは愛くるしく感じていたけど今では僕の我慢が溜まる瞬間になっていた。そんな違い、好きが勝っていれば大丈夫。僕は付き合い始めた頃そう思っていた。タイプが違うカップルなんて山ほどいるし、それでも上手くいっている人たちも当たり前にいる。そうなれればいい。そうなればいいと、思ってきた僕に気持ちに、明らかに変化をもたらせたのは、美里との再会だった。


 

 次の日、栞が久々に僕の家に訪れた。栞は出版社に就職をして大忙しでなかなか会えないけれど、久しぶりの休みで顔を出してくれた。咲良とも顔見知りで、いつの間にか二人は仲良くなっていて、咲良がいると言ったら、「行く」と即答だった。


 「咲良ちゃん久々〜!はい、これこの前取材で海外行った時に買ったやつ!」

 「わーい!ありがとう!」

 「え、俺のは?」

 「碧のは無いよ当たり前じゃん」


 そう言って咲良にだけお土産を渡すくらい仲良くなっていた。


 「んで、何しに来たんだよ、ただ会いにきたってわけじゃ無いだろ?」

 「あ〜、美里、元気だった?」


 栞はそう言いながら咲良の様子を伺うように話し始めた。その姿はなんだかわざと聞かせている様にも見えた。


 「うん、元気だったよ」

 「久しぶりすぎるね、なんか、こんな再会あるんだってちょっと運命も感じちゃうくらい」

 「おい、なんだよお前」


 咲良の顔を見ると分かりやすく固まっている。僕は小さい声で栞に言った。


 「栞どういうつもりだ。咲良いるんだぞ、考えろ」

 「えー、感謝されると思ったのに」

 「は?」

 「碧の気持ち分かってるから私。だから、碧ちょっとコンビニ行ってくれない?はい、これ財布!私の奢り!なんでも買っていいから行っておいで!」


 中学生への釣り文句を言われて、強制的に僕は家を追い出された。


 「いや、ここ俺んちだし…」


 そう一言ドアの前で呟いたが、栞の考えが読めたからか、黙って従うことにした。そんな自分が最低で、咲良に対して失礼なことをしているのも分かっていた。でも栞のその行動に助けられたようにも思えた。

 コンビニに行って帰ってくると、すでに咲良はいなかった。


 「栞、何話したんだよ」 

「別に〜」

「そんなことないだろ、ほら電話にもでない」


僕の電話に咲良が出ないなんてこと滅多にない。栞に何か言われて傷付いたに決まっている。


「じゃあ聞くけどさ、碧は美里と再会したのに、このまま咲良ちゃんと付き合っていけるの?」

「別に、今美里関係ないだろ」

「あるよ、大アリだよ。私が知ってる間でも、碧はずーっと美里が好きじゃん。そんな相手と再会して、他の子興味あるわけ?」

 「なんだよその言い方…」

 「図星でしょうが……もう帰る」

 「おいちょっと、もう帰るの?」

 「咲良ちゃんに用があっただけだから〜」


 栞はそう言って一度も振り返らずに部屋を出て行った。栞には全てを見透かされている気がした。

あれから咲良と何を話したのかメールで聞いても無視をされるし、咲良に聞いても特に何も言われない。ただ、逆に咲良からの連絡の頻度が明らかに増えて、束縛のようなメッセージも送られて来るようになった。いきなり「両親に会わせたい」と送ってきたり、「外でデートがしたい」そう言ってきた時には、咲良の友達も含めて食事をする羽目になった。「私のものだ」そうみんなに示しているみたいに、僕のことを紹介する。


「ちゃんと話がしたい」そう言ってもはぐらかされて、結局なんの進展もないままだった。その月日が更に碧から咲良への気持ちを冷ましていく一方だった。

 久しぶりに咲良の家に行ったのは、あの栞の告白から一ヶ月が経った時だった。季節はすでに冬で、寒さが痛いほど肌に突き刺さる。

 

 「いらっしゃーい〜!」


 思ったより元気に出迎えてくれた咲良はエプロン姿だった。


 「ちょっと話がしたかっただけなんだけど…」


 そう言って部屋に入ると、二人分の食事が用意されていた。


 「いや、話してすぐ帰ろうと…」


 そう言いかけた時に咲良は会話を被せながら言った。


 「いや〜今日は張り切っちゃって、作りすぎちゃったよ!ほら食べてくでしょ?」


 キラキラした眼差しの咲良の雰囲気に飲まれ、


 「う、うん」


 僕は返事をしてしまった。

 一通り食事を終えてから、一息ついた時に僕は言った。


 「あのさ…」


 そう言葉にすると、咲良は言った。


 「今日ね、終わらせる日なの」


 思いもしなかった言葉だった。


 「終わらせる日?」


 僕の質問を無視しながら咲良は言った。


 「彼女の事、好きなんでしょ?」


 咲良が言う彼女が美里の事だと、僕の中ではすぐに理解する事ができた。


 「…」


 僕は咲良のなんとも言えない表情を目の前に、何も言えなくなった。そんな僕を見て咲良は悲しげな表情で笑った。


 「なーんか、疲れちゃった。まさか、バレてないと思ってた?彼女に再会してからの碧、全然違う人だった。私気づいてて、繋ぎ止めようとか頑張ったりしちゃってさ。バカみたいじゃん」

 「バカみたいとか思ってないよ」

 「バカみたいだよ!私ばっかり好きで、二人で会ってたりしてたでしょ?!それで今日、碧別れ話しに来たんでしょ?!私、フラれるのは嫌、だから私が今日終わらせたいの」


 何も言葉が出てこなかった。大人しい咲良からは想像つかない話し方で僕は圧倒されていた。


 「ほら、フラれたら私のプライド傷つく。私、それ耐えられないの」


 涙を流しながら話す咲良はいつものあざとい可愛らしい印象とは真逆だった。


 「ごめん」


 僕はそう言いながら、机の上にあったティッシュ差し伸べたけれど、咲良は受け取らなかった。僕の手をどかしながら、


 「あーあ、ずるいなー。本当、私ばっかり好きだったんだね」


 ソファーに座りながらそう言った。


 「それはないよ。ちゃんと俺も好きだったよ」

 「あはは、好きだった、か。もう過去か」

 「…ごめん」

 「嘘うそ…じゃあ、もう出てって?今日私頑張ったから疲れちゃった」

 「…」

 「ほら、帰りなって。別れの時まで優しくすると、相手に期待させちゃうんだってさ。ほらほら」

 「分かった。じゃあ帰るよ。ありがとう咲良」

 「はーい、元気でね」


 僕は咲良に背中を押されて家を出た。あんな強気な咲良を初めてみた。感謝をすると同時に、申し訳なさが自分の肩を沈めるくらい襲ってきた。栞に何を聞いたんだろう。明らかにあの日から咲良の態度が違った。そう気になったけれど、とりあえず一旦落ち着くことが自分には必要だと感じた僕は、そのまま真っ直ぐ自分の家に帰った。


 三日後、栞と会う約束をした。栞は、仕事帰りに家を訪れた僕を、少し気まずそうに迎え入れた。


 「私、話すことないんだけど」


 下を向いて話す栞に僕は言った。


 「咲良と別れた」

「あっそ」

「なんだよ、栞が咲良にふっかけたんだろ、だから俺フラれたわけで…なんの話したかくらい聞く権利あるだろ」

「今は、それどころじゃないのよ…」

「それどころって…首突っ込んできたのは栞のほうだろ」

「うっさいな…考えることが多くて頭痛いの帰ってよ」

「お前ほんと自分勝手だな、昔からなんも変わってない…」


 その僕の言葉を聞いて気に障ったのか、栞は少し怒った声で言った。


 「うるさいな。何も知らないくせに私に説教しないでよ、碧のそう言うところほんっと嫌い」

 「そういう所ってなんだよ」

 「そういう所はそういう所だよ」

「だから、それを何だってー…」

「何かした事に、いちいち理由がいるところ!碧は昔からそう、衝動的には絶対動かない…こう思うからああ思うから、こうした方がいいって、テンプレートの上ばっか歩いてる…そんな碧に、私の気持ちなんて分かんない…だからイライラする」

 「…」


 栞は少し黙って見せた。


 「なんだよ、なんかあったんだろ…言えよ聞くから」


 僕がそう言うと栞は小さく口を開いて言った。


 「私は自分勝手なんかじゃない…常に美里と碧のこと考えてる。だから、あの時…」


 栞はそう言ってハッとした表情を見せた。僕はすかさずその言葉を繋いだ。


 「あの時ってなんだ。あれから聞かないようにしてきたけど、栞、美里のことになるとすぐ熱くなる。それは親友だからかって思ってたけど、他にあるのか?」

 「いや違う今のは別に気にしないで、何言ってるんだろ私…」


 また上手く逃げようとする栞に腕を掴み、


 「なんで俺には言ってくれないんだ。相田だって知ってることなんだろ?そんなに俺は頼りないか、いとこってだけで関係ないって事か?」


 今まで、栞に向かって声を荒げたことはない。流石に、話してくれるだろうと、答え合わせがやっとできる気になった僕を栞は簡単に裏切る。


 「……離して。碧聞いたじゃん、美里から直接。学校の屋上で」

 「ああ、聞いたよ、でも詳しくは…」

 「詳しく聞く必要なんてあるの?詳しく聞いたら、美里の気持ち半分こできるとか思ってる?イライラするんだよね、その正義感だけが前に出てる碧の姿…昔からすっごく嫌いだった」

 「お前…何言ってんだよ…これは俺らが喧嘩することじゃないだろ」

 「碧は今まで何もしなかったじゃん。あの時も、『嘘』つけなかったんでしょ。聞いたよ美里から。碧は純粋すぎるんだよ、私たちが抱えてる真実を、嘘をついてでも突き通せる自信はある?!…無いから、何もしなかったんでしょ…美里が碧の前から消えたのは2回。その時何した?顔が見たいって、探し回ったことはある?電話に出ないって、泣いた事は?」

 「……」

 「無いんでしょ。所詮、碧は『初恋の相手』だった美里しか見てない。本当の美里を見ようとしてない。だからいつも、気がついたら事件が起きてるんだよ。そこが甘いんだよ…」

 「……」

「秘密にすること抱えすぎて、おかしくなったりした事ないでしょ」


 栞は今にも泣き出しそうな顔をしていた。



「ないよ。おかしくなってんなら、話してくれよ……」

「……話せない。秘密を抱えすぎて何を話していいのか分からない。私だって楽になりたい。けどダメなの。こんなことすらも、碧に言いたくなかった」

 「……」

「美里を、助けなきゃいけないのに…」

 「……」


 微かに聞こえる声で呟いた栞に対し、何も言えなくなった僕を、栞は冷酷な眼差しで見つめた。そして何も言わずに寝室へと歩いて行った。

 一気に静まり返った栞の家が、妙に冷たく感じて、僕は膝の力が抜けた。

 何が、起こっているんだ。美里の人生に、何が…。

 そして、栞は何を抱えているんだ……。

 蚊帳の外にいる自分に、心底腹が立った。



 「だからいつも、気がついたら事件が起きてるんだよ」


 栞が言っていた事は悔しいくらいに図星だった。あの火事の日も、勝手にもう大丈夫だと思った矢先に起こった。そしてあの屋上でもそうだ。秘密を守るだけの嘘を考えていなかった為に、美里をまた一人にした。いつまで経っても、僕は美里を『初恋の相手』と美化してしまっていたのかも知れない。栞が言っていた事は何も間違っていなかった。



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