第1章
ー現在
「それでは登場していただきましょう。芥川賞を受賞されました、立花桜先生です。おめでとうございます!」
司会者の言葉で、会場に居合わせる記者や、ファンのボルテージが一気に上昇する。
桜という名前から、世の中は勝手に女性だと想像する。実際に見ていない、会っていないのにも関わらず、「10年に一度の美人作家」なんて肩書きまでついた。誰が言い始めたのかわからない。僕は今日まで一切公の場に顔を出していない。僕の素顔を知っていたのは、立花桜の専属編集者で僕の従兄妹ただ一人だけだった。
そうとは知らず誰かが「桜先生と遭遇した」という書き込みをした。「美しかった」「握手をした手が綺麗だった」と言う内容が一気に広まっていき、その書き込みには沢山の『いいね』がついた。何処の馬の骨かも分からない人たちが、他にも沢山の噂を流し騒ぎ立て、立花桜の理想像が出来上がった。そして今回の「作家・立花桜初顔出しの日・生中継」を日本中が注目することになった。
一切顔を出さない事に不満を覚え、注目を浴びている立花桜に嫉妬をした人たちが、誹謗中傷の書き込みをした。
「顔を出さないのはブサイクだからじゃね?」
「10年に一度とかしょーもな」
「あいつの小説マジで嫌い」
「どうせすぐ消える」
きっとこれが彼らにとってストレスの発散の仕方なのだろう。
そこで僕は当事者になって改めて思った。日常の不満を誰かにぶつけることでしか楽になれない人たちが世界にはあまりにも多すぎる。そして、自分が楽になることで、誰かが苦しむと言うことを、想像できない人があまりにも多すぎる。
裏で一緒に待機をしていた従兄妹の栞と目を合わせ互いに頷く。『大丈夫』と言われている気がして自然と緊張が解れた感覚になった。
いざ登壇の時。僕の姿を見るなり、一気に会場が静寂に包まれた。僕は深く深呼吸をして、動悸を抑え込んだ。
「初めまして、立花桜です。こんな素晴らしい賞をありがとうございます。表舞台は初めてなのでとても緊張しています。
まず、皆様を驚かせてしまったことは深くお詫び申し上げます。立花桜と言う名前は僕のペンネームで、素性を明かさずに今日まで活動してきました。立花桜とい言う人物に対し、あらゆる憶測が飛び交う中、僕は今日、ある人の人生を借りて、世界に訴えに参りました。
いきなりですが、今作品に関係する話を始めましょう。この世界には越えてはいけない一線が存在します。社会的・法律的にダメなこと。例えば不倫。既婚者と関係を持つことは社会的に認められていません。薬物・万引き・強盗、そして殺人。法律的にも社会的にも認められず、日本では特に厳しく罰せられます。このような踏み止まるべき範囲を外れてしまうと、世間の目は一変するんです。
世間からの評判はとても大切です。悪い噂は人生を生きづらくします。例えば名の知られている人が浮気や犯罪を犯せば、分かりやすくSNSが荒れます。世間様はとてもご立派で、散々上から物をいい、その人の関係ない事情まで暴露し、彼らを表の世界から抹消します。もちろん、踏み止まれなかったその人が悪人で、どんな事情があろうとも足を踏み入れてしまった人が悪いです。
しかし、その人に会ったことも話したこともない人が、有る事無い事ものを言い、実際に自分がやられたわけではないけれど、なんとなく便乗して悪口を書いてみたり、誹謗中傷を浴びせることで快楽を覚え、責め立てる人は悪人ではないのでしょうか。「キモい・うざい・死ね」例えばですけど、この三つはネット上禁句ワードにした方がいいと思うんです。表舞台の人ではなくても、会社・学校・住んでいる地域、それらで悪い噂やそれに関する誹謗中傷の標的になれば、とてもじゃないですけど普通には生きられません。実際に見たわけではないけれど、噂というものは信じてしまうのが人間だからです。
僕は聞きたいです。事実かわからない状態で、いろんな憶測をわざわざ書き込むのはどうしてでしょうか。会ったこともない人の人柄などを自分の中で勝手に解釈するのはなぜでしょうか。実際に手を加えていなくても、言葉で人を追い込んだ人はどうして罰を受けないのでしょうか。
きっと今、僕に関する内容がたくさん書き込まれていると思います。例えば「男かよ」「こいつ話長い」「うざい」「騙された」そんなところでしょか。でも一つ言わせてください。僕はそこのあなたに「こいつ」などと呼ばれる覚えはありません。僕は自分の素性は一切明かしていませんでした。皆様が勝手に立花桜と言う人物はこうだと理想を詰め込んだんです。見たことも、会ったことも、話したこともないのに、ネット上のどこの誰が書いたかわからない言葉を、簡単に鵜呑みにして僕をここまで大きくしたんです。
僕はすごいなと感心しました。人のことを簡単に信じやすい人たちの集まりで、気楽でいいなと思いました。同時に、その自分の発信した言葉が、相手を苦しめていることにすら気づけない愚かな人達だなと思いました。同じ人間として、人間を辞めたくなりました。
「人間辞めたいなら、死ねよ」「こいつうざすぎ、死ねばいいのに」
今書き込んだ人いるんじゃないですか?何を言っても自分が悪いと認めない頑固さは人間の特徴でもあります。だから怒るなら、人間を作った神様に怒るべきなのかもしれませんね。はは、何が言いたいのか分からないですよね。すみません」
数多くのフラッシュを浴びながら、僕は深呼吸をした。
「突然ですが、もし大切な人が暗闇に落ちていきそうになったら、貴方はどうしますか?もし大切な人が踏みとどまるべき範囲を超えていたら、それを半分背負う覚悟はできますか?もしくは、背負いたいと思える人が貴方の近くにいますか?…僕にはいます。勿論救い上げる気持ちで、落ちるところまで一緒に落ちていける人。
これから話す話を、貴方なりにその人を思い浮かべながら聞いてください。まだまだ長くなりますので、どうか腰を下ろして、興味がある人だけ残ってください。僕はこの思いが、全ての人に届いて欲しいなんて思っていません。ただ、世界中に一人でも、今自分がしている言動や行動を見つめ直してくれる人がいたら、そんな嬉しいことはありません。僕の人生を賭けて、あなたに届けます…」
ー12年前
僕には昔から好きな人がいた。習字教室に一緒に通っていた七瀬美里。美里はまるで百合の花のようで、肌の色が白く綺麗な長い黒髪が魅力的な子だった。気さくな性格は女子からはもちろん、男子からも人気な子で、男子特有の「好きな子には意地悪をしてしまう」みたいな事の標的によくなっていた。
僕と美里と、僕のいとこの神崎栞は同い年で、よく三人で遊んでいた。男一人と女二人。僕はいつも女の子の遊びを仕方なく一緒にやった。お絵描きとか折り紙とか。本当は外でサッカーとかしたかった。けど、美里が好きな遊びだったから、仕方なく一緒にやっていた。栞は母親同士が姉妹で家も近く、自然と僕らは一緒に育ってきた。何かと手がかかる栞は僕とっては妹みたいな存在だった。
美里はとても笑顔が可愛くて、僕を一瞬で虜にさせた。小学一年生の頃に出会い、一目惚れをした。僕の初恋だ。どうにかきっかけを作りたくて、お母さんに頼み込んで美里が通っている習字教室に通わせてもらった。いつも栞が隣にいる当時の僕にとっては、その習字教室が唯一、美里と二人になれる時間だった。
お父さんがお母さんにしているみたいに、美里と二人で歩く時は車道側を歩いた。帰りは絶対に家の前まで送った。たまにだけど、習字教室をサボって山に登ったり公園で遊んだ。「小学生だけで山に登るのはいけません」と、お母さんにたくさん怒られたけど、山から見れる景色をどうしても美里に見せたかった。自分は周りの男の子たちと違って年齢の割にませていると、大いに自覚していた。美里の笑顔を見ていたい。あの頃の僕の行動はただそれだけのこと故だった。
小学二年生から通い始めた習字教室。四年目に差し掛かったくらいから、美里は突然習字教室に来なくなった。小学校にもあまり姿を見せなくなった。栞と二人で何度もお家に行ったけど、母親が出てくるだけで美里とは会えなかった。この時から美里の家族のよくない噂が町中と飛び交うようになった。
どこから始まったのか分からない。誰が言い出したのか分からない。美里が学校にあまり来なくなってから色んなありもしない噂が流れた。
「七瀬さんとこの旦那さん、浮気してるみたいよ」
「奥さんあれはかなり精神やられてるわね」
ゴミ出しで見かけた美里のお母さんの様子が変だったとかで噂は一気に広まっていった。人間は他人の不幸が大好物なんだと、その時学び、自分もいつかそうなるのかもしれないと思うと、幼かった僕はこれから大人になっていくのが少し怖く思った。
それからたまに学校に来る美里は夏でも長袖を着るようになった。これまたおばさんたちが、
「日曜日になると子供の泣き声がする」
そう噂をしていたのを耳にした事があった。初めて聞いた時は、またどうせ噂だと思っていたけれど、蒸し暑い日に長袖を着ていて、プールがある日に学校を休むようになった美里を見て、噂ではなく真実だと思った。
「美里、栞と一緒に放課後僕の家で遊ぼ」
いつもなら喜んだ顔をして「いく!」と即答するはずなのに、
「お母さんに真っ直ぐおうちに帰ってきなさいって言われてるからごめんね」
美里は名残惜しそうな顔をして帰って行った。その時には変な噂が回って、前までちょっかいをかけていた男の子や仲良くしていた女の子達は美里の周りにいなくなっていた。きっとみんなも、親から関わるなとか言われていたんだと思う。
僕は美里が家庭内暴力を受けていると疑った。それもきっと日曜日だけ。日曜日には美里のお父さんはゴルフに出かける。きっとその隙を狙っているんだろうと思った。
その日のうちに僕はお母さんに相談をした。そうしたら、
「よそのお家の事情に口を出すんじゃありません」
と怒った。
「お父さんに迷惑をかけるんじゃないわよ」
と念を押すように言った。これはお母さんの口癖だった。刑事課長を務めているお父さんには、守らなければならない地位と名誉があった。それを陰で支えるのがお母さんの仕事。口癖を言葉にしているお母さんはいつも怖かった。僕に語りかけているはずなのにどこか目が合っていないようにも思えた。刑事なら尚更、相談すれば助けてくれるのではないかと思っていたのに、お母さんのその言葉でなんだか言う気力を無くしてしまった。
最初は心配をしていた栞も、
「あまり関わらない方がいいんじゃないか」
そう言うようになった。
「私達には何もできないでしょ」
そう言われて、確かに何もできていない自分に虚しさを覚えたのに、それから僕は結局何もできなかった。
小6の2月、たまたま僕の家の前にいる美里を見かけた。その日も美里は学校に来ていなかったのにどうしてこんなところにいるんだろうと思った。
「美里?」
「あ、和泉くん…」
僕の声に振り返った美里の顔は少しだけ痩せこけて見えた。もしかして助けを求めに来たんじゃないかと咄嗟に思った。
「美里…あのさ」
「ごめん!帰る!またね」
「え、ちょっと!」
何かを隠すように洋服のポケットに手を入れて足早に行ってしまった。この時、『何もできない』と言う言葉が僕の頭を巡り、小さな背中を追いかける事ができなかった。
中学生になると、美里が普通に学校に来るようになった。『これで一安心だ、もう平気だ』と思い、いつも通りの昔のような日常が戻った。思い切って昔みたいに、
「一緒に帰ろう!」
と話しかけたら、
「いいよ」
と返事をもらえた。その帰り道の途中で、僕らは一緒に菜の花畑を見た。色々口実をつけて遠回りした甲斐があった日だった。
「こんな近くにこんなところあったんだな〜!」
「だね!ちょっと遠回りして正解だったかも!目に焼き付けとこっと」
「なんだよそれ、また来たら良いじゃん!ほら栞とかとさ!」
「そうだね…!近いもんね!」
「そうそう、いや〜にしても綺麗だな〜」
「ほんと、綺麗―…」
名残惜しさをグッと堪えて、次に一緒にここへ来た時は、告白をしよう、なんて考えた。この日は絶好の告白スポットを知れた日にもなった。
それから益々美里たちが恋愛の話をしている時は物凄く気になって、男友達の会話なんて何一つ頭に入ってこなかった。美里は好きな人とかいるんだろうか。「告白」と言うものを意識し始めてから、僕の心はずっと、そわそわしていた気がする。
女子同士でキャッキャと声を出してはしゃいでいる美里を見れて嬉しかった。掃除の時間に一緒にサボって先生に怒られたけど、それも昔みたいで楽しかった。体育だってあんなに楽しそうにしている。プールだって、長袖を着ているけれど、今はもう休んでいない。よかったと心から思っていたのに、あの事件が起きた。その日は秋なのに一段と寒くてよく覚えている。
『十月八日 午後八時四十分頃。岐阜県○○市のアパートの一室が燃えていると通報がありました。火は消し止められましたが、現場にいた夫婦と思われる女性と男性はすでに死亡が確認されており、娘と思われる女子中学生は未だ意識がない状態です。警察は現場の状況から見て事故、または自殺と見て捜査を続けています』
その日は美里が体調不良で学校を休んでいて、つまらない1日だった。学校から帰って、体育でたくさん動いた僕は疲れて眠ってしまい、そしてパトカーの音で目が覚めた。嫌な目覚めだった。なんとも言えない胸騒ぎがした。リビングに行くと両親がニュースを真剣な眼差しで見ていた。
「碧、美里ちゃんとこ、火事だって。美里ちゃん、意識がないってさ」
頭が真っ白になった。何がどうなっているのか分からなかった。美里がなんだって…?と数秒程立ち止まってしまったが、僕は意外と直ぐに今起きている出来事を理解した。そしてあんなに関わるなと言っていたお母さんが、手のひらを返し心配している表情を目の前にし、無性に腹が立った。急いで家を出ようとすると、お父さんが声を荒らげた。
「碧!どこに行くんだ」
「決まってんじゃん!美里のとこだよ」
「やめておけ。お前が行っても何もできない。父さんたち大人に任せておけばいいんだ」
確かに13歳だった僕はまだまだ子供だった。好きな子が助けを求めていても、何もしてやることはできない。時間を戻して火事をなかった事にも出来ないし、意識がない美里を助けることもできない。美里の身に起こっている事を知っていたのに勝手に安心していた自分に腹が立った。声を荒らげる両親を差し置いて僕は勢いよく玄関を飛び出した。
美里の部屋であろう一室から煙が出ているのが見えた。パトカーや消防車がアパートの前に止まっていて、その前には街の人が集まっていた。あの時色んな噂を楽しそうに話していた人達もその中にいた。心配そうな顔をしていて、思わず拳に力が入った。
「碧…!」
後ろから栞の声が聞こえた。栞も慌てて走ってきたんだろう。僕の隣で足を止めた栞の息遣いが荒く、肩で息を吸っているのが分かった。栞は僕の握っている拳をそっと包んでくれた。気がついたら涙が流れていて、何もできない自分に、僕は一番の怒りを覚えていた。けれどその時の僕らは、二人でただ立ち尽くすことしか出来なかった。
次の日から美里は全く姿を現さなくなった。意識は戻ったと先生から伝えられ、てっきりすぐ学校に来ると思っていたのに、美里は来なかった。美里のマンションに行っても、警察のテープが貼られていて近づくこともできなかった。別にそこに美里がいるわけでもないのに、どうしてか何度も栞とそこを訪れた。
「ここに住んでた女の子は今どこにいるんですか」
すれ違った警察に聞いても、
「個人情報だからあまり話せないのごめんね、お友達だった?」
そう子供相手に話すような口調であしらわれた。
そして次の年から、名簿に美里の名前が載ることはなかった。先生に何度もしつこく問い詰め、転校したと聞いたときは流石に腰が抜けた。生きてさえくれれば、どこかで笑っていてくれれば、それでいいと思った。自分で何かしてあげるにはまだ幼かった僕は、幸せを願うことしか当時はできなかった。
*
あれから二年が経ち僕らは高校生になった。栞は父親の仕事の関係で海外に引っ越して、正直昔からずっと一緒にいた妹みたいな栞がいなくなるのは寂しかったけど、親戚であるからこそ一年で全く会えないと言うわけではないから比較的自然と別れを乗り越えることができた。僕よりも栞が泣き叫び、連絡が取りたいと言った栞のわがままで、携帯電話を買ってもらえた。それからしつこいくらいに電話やメールが来る。面倒くさいと思う時もあるけど、クスッと笑える時もあった。その度に、僕は美里のことを思い出していた
。美里はこうやって笑えているだろうかと。三人で遊んでいた日のことを忘れる日はなかった。
高校二年生。ここ一年で急激に伸びた身長のせいで骨が痛い。中学の頃は小さいと周りに馬鹿にされたこともあったけれど、やっと大人になれた気がして嬉しく思う。僕はすっかり男の遊びをするようになり、サッカーをしたり放課後にカラオケに行ったり、時々他校の女子たちと一緒に遊んだ。友達も多い方で、比較的クラスの中心でもある存在だ。今年の体育祭では女子達からの黄色い声援を浴び、バレンタインでは抱えきれないほどのチョコを貰った。「好きです」と告白されたりもした。別に嫌いではなかったけれど、美里に抱いていた程の気持ちになる人は誰一人としていなかった。
「お前モテんのになんで付き合わんの?もっとさ、女子と触れ合いたいとか色んなことしてぇー!ってなんねーの?」
修学旅行の夜、男達で集まって話していた時にそう言われた。そうは言われてもあまりピンとこないのが本音だった。
「本気で好きな子としかそう言うのしたいと思わんやん」
そう真面目に答えた僕に突っかかったのは野球部の加藤春樹だった。
「重!お前重!別にいいんだよ、ちょっといいなと思う女の子と付き合ってみろよな。そうしたら意外と碧も『欲』出てくるぞ〜」
そう話す春樹の頭を叩くのが、野球部のエース谷川駿。
「お前が上から言うな!ついこないだ美香ちゃんと手繋いだだけで顔真っ赤にしてた奴が言える立場か!」
「ちっ!お前はいいよなもう付き合って一年の可愛い小春先輩がいてよ〜年上で可愛くてスタイル良くて?欲張りかよ!」
「うるせーな」
色恋に溺れる年頃。周りには浮ついた奴らしかいなかった。恋愛をしていないと死ぬみたいに、どこもかしこも浮ついた匂いばかりしている。
そんな周りの奴らを鬱陶しく思っていた僕にも、運命が傾き始めたのは高三の春。女の転校生が来るとみんなを騒つかせた正体は、僕の初恋の相手、七瀬美里だった。
担任と一緒に教室に入ってくる姿を、みんなが見つめた。風なんてないのに髪がフワッと靡かれているようだった。
「七瀬美里です。よろしくお願いします」
軽く会釈をする美里とふと目が合ってしまった。僕は無意識に目を逸らし、顔を窓に向けた。勿論心の中には、感じ悪かったかな、しまったやってしまった、そんな後悔の言葉が並んだけれど、目を合わせたのはほんの一秒もなかったにも関わらず、僕の心臓は音を立てて鳴っていた。
「七瀬さんごめんね、とりあえずこの前の席でもいいかい?」
担任が、怪我で長期入院をしている子の席を指差した。
「大丈夫です」
美里はそう返事をして静かに座った。クラスの子たちはそんな美里を見てざわついた。僕が住んでいる田舎には高校の数が少なく、地元に残った人は大抵同じ高校に入学した。そして僕のクラスにも美里の事情を知っている人がいて、また隣町出身で全く事情の知らない人もいた。美里と同じ小学校で事情を知っている人は大いに驚いた。細かい事情は知らなくても、急にいなくなったという印象だけがついている美里は一気に注目の的になり、休み時間みんなに囲まれていた。全く知らない人も、美人が転校してきたんだから気になって当然だった。僕もみんなのように聞きたい事が沢山ある。
あれからどこにいた?
友達はいたのか?
笑って過ごせれていたのか?
会えたら聞こうと思っていた事も、実際会ってみると何も出てこないどころか、不甲斐ないくらい身動きすら取れなかった。それはきっと、昔とはどこか違って感じる美里の雰囲気が僕をそうさせていた気がする。
「おい碧、あの子めちゃくちゃ可愛いじゃん。てか綺麗、美人!って感じだな」
春樹がそう声をかけてきた。僕が普段仲良くしている奴らのほとんどは隣町の子で、美里のことを知りたがるのも無理はなかった。
「ああ、そうだな」
美里を見ると、顔こそあまり変わっていないけれど、なんだか雰囲気が違うように感じた。昔の可愛かった笑顔もどこか引き攣っているように見えたし、穏やかな雰囲気もどこか凛としていて冷たさすら感じた。人より白い肌の色や、綺麗な長い髪の毛はそのまま。強いて言えば、身長が伸びて前髪が無くなったくらいだ。そこがより大人に見える要因な気がする。僕はなんだか、中身がすっぽり入れ替わったような、そんな感情に苛まれた。
美里も僕に気がついているのかいないのか、よく分からなかった。転校してきた日に目が合った以来、何もないし話してすらいない。休み時間になると美里は鞄からヘッドホンを取り出し耳につけ、周りからの声を遮断しているようだった。そんな美里は話しかけたくてもかけづらい、そんなオーラを放っていて、勿論僕以外の子もそう感じていた。席も遠かったからか、同じクラスなのにも関わらず、久しぶりに話すのに一週間がかかった。この時の僕はいくじなしの子供で、どう話しかけていいのか分からない、もし忘れられていたらどうしようと、そんなことばかり考えていた。
美里と約五年ぶりの会話。あれは美術準備室で絵を描いている時だった。美術の先生は栞の歳の離れた兄の神崎洋平で、すなわち僕の従兄弟だった。僕は洋平を洋ちゃんと呼ぶくらいに慕っていて、洋ちゃんは昔から絵が上手く、美術の先生になったのも納得だった。
「碧、ちょっと職員室行ってくるわ〜」
「はーい」
高校に入学してから、美術部の幽霊部員として所属している僕は、たまに訪れては準備室の方で一人で絵を描いていた。洋ちゃんがいるからか、誰も入ってこない静かな空間だからか、そこが唯一僕にとって落ち着く場所だった。
ガラッと美術室の扉が開いた音がした。誰か来たのかと繋がっている扉を開けると、そこには美里が立っていた。夕日が差し込み、白い肌がオレンジに光って見えた。そこにいる美里はやはり昔の美里ではなく、気安く呼び捨てで呼んではいけないような、そんな雰囲気を醸し出していた。
「和泉くん…?」
久しぶりに名前を呼ばれて、全身の毛が逆立つような感覚になった。
「うん、久しぶり…」
何を話していいか分からない。どうしていいか分からない。頭が混乱して、目眩すら覚える。
「な、なんの用?」
咄嗟に出た言葉は思ったより棘があった。
「美術部、入りたいと思って…」
「そっか、今洋ちゃ、じゃなくて、神崎先生いなくて…あ、紙。入部届の紙場所分かる、待ってて!」
僕は急いで準備室の書類が入っている棚を開け、白紙の入部届を持って美里に渡した。
「今ここで書いてもいい?」
そう話す彼女に急いで机の上にある鉛筆を渡した。椅子に座り鉛筆を走らせる彼女の姿を僕は見つめた。高校生になってから同級生の女子達は妙に色気付きはじめ、校則が緩いうちの学校には化粧をしている女子生徒がほとんどだった。髪の毛も妙にふわふわしていたり。髪飾りをつけている人もいた。そんな中、美里は真っ直ぐ綺麗な黒髪に化粧っ気も全くない。少し大人びた顔つきにはなったものの、あの頃のままだった。彼女の伏せ目が碧にはとても色っぽく感じた。
「……あれからどこにいた?」
思わず言葉が出てしまった。少しびっくりした表情で手を止め顔を上げた彼女は、僕の顔を見るなり目線を下に戻しながら言った。
「お父さんの親戚のお家」
「そっか。元気そうでよかった」
「…和泉くんは、ちょっと顔が大人っぽくなったね」
「そうか?俺なんかなんも変わってないよ。七瀬こそ大人になってるよ…」
『美里』と昔のように呼びたいのに、なんだかむず痒くて出てこなかった。
「まだまだ子供だけどね。…和泉くん美術部なの?」
「んーまあ一応?でも幽霊部員。来たり来なかったり。洋ちゃ…じゃなくて神崎先生俺の従兄弟だから、部活迷ってて最終的に落ち着いたって感じ」
「神崎…ってことは栞ちゃんのお兄さん?」
「そうそう、てか栞にも伝えてあげないとだ、七瀬のこと」
「…心配かけたよねごめんね」
そう話す彼女が小さい子供に見えて、今にも泣き出しそうな声をしていたことには、僕は気づいていないふりをした。
「いや!まあ勿論、心配はした。でもまたこうやって会えたんだし、俺はそれだけで十分だよ」
今の彼女と目がしっかり合ったのはこの時は初めてだったかもしれない。
「和泉くん、変わってないね」
そう僕に向かって言い、何かが外れたみたいに、にっこり笑う彼女の笑顔が、昔僕が好きだった彼女の笑顔と重なった。でも、彼女の生きた現実がそうさせたのであろう。あの時の笑顔とはやはり少し違って見えた。
その夜、僕は栞に電話をした。
「もう、何の用?こっち深夜なんだけど…」
あくびをしながら出た栞の声に、どこか安心した気持ちになった。
「美里、七瀬美里。うちの学校に転校してきた」
「え?」
「びっくりだろ?今日話したけど、なんか綺麗になっててさ〜○年でそんなに変わるか?って感じだったわ〜」
「…」
「栞?」
「ああ、ごめんちょっと眠くて頭が回ってないみたい」
「あーごめんごめん、栞にはちゃんと知らせとこうと思ってさ、お前ら仲良かっただろ?」
「うん、まあね」
「だろ?栞がこっち戻ってきた時、また三人で遊ぼうぜ昔みたいに」
「…そうだね。今日はとりあえずもう寝ていい?明日朝早いの」
「ああ、ごめん。じゃあな」
想像していたよりも喜んだ感じはしなかった栞の声に違和感を覚えたけれど、深夜に電話をしたと言うこともあり、そこまで気には留めなかった。それよりも僕は、美里のことで頭がいっぱいだった。
次の日、滅多に行かない美術部の部活に顔を出した。理由は勿論…
「おはよう、七瀬」
「おはよう、和泉くん」
二人の姿を見ていた洋ちゃんが、
「おー、碧が来るなんて!しかも朝練に!珍しいね〜」
にやついた顔をしながら、歩いてきたので僕は手で、あっちにいけとあしらった。そんな姿をクスクスと彼女は笑った。
「仲良いんだね先生と」
「まあ。一応いとこなんで」
なんだか分からない、ホッとした気持ちになった。昔みたいに仲良くやっていける気がして、心から安心している気がした。
確かに、昔の彼女とはやはり何処か違って、でもどこかは同じで。人間は経験で変わっていく生き物だし、昔のままで居続けてほしいなんて虫がいい話な気がする。僕は、昔とは少し違う彼女も昔のままの彼女も、彼女の全てが自分の全てで、それだけは昔も今も変わっていない気がした。まるで一目惚れをしたあの小学一年生の時の自分をもう一度繰り返すかのように、僕は彼女を今もまっすぐ見つめていた。
しばらくして、彼女が作文のコンクールで金賞を取った。いつの間に書いていたのだろうか。なんだか自分の知らない彼女がいることに、僕は少し寂しさを覚えた。
「聞いたよ、明日発表なんだって?」
「うん、断ったんだけど、どうしてもって先生が言うから…」
恥ずかしそうにそう答えた彼女は、少し緊張しているようでもあった。
「大丈夫!もし噛んだりしたら俺が全力で笑いに変えてやるよ!」
そう言う僕に対して、
「やだ〜、ますます変な空気になりそうじゃん!」
笑ってそう返してきた。再会した頃よりも僕らの距離は縮まっていて、彼女は僕の前だけではよく笑うようになった。
あの日は雨が降っていた。雨の音が体育館に響き渡り、風も強くて隣に立っている木が大きな音を立ていた。夏なのに少し涼しく、妙な天気だった。
全校生徒の前での発表は、やはりとても緊張しているみたいだった。登壇して作文の紙を広げた後、彼女は深く深呼吸をしていて、僕は心の中で、「頑張れ」と呟いていた。その時、隣の子たちが、「あの子っていつも静かな子だよね」「クールで近寄り難いって同クラの子が言ってた」そう話しているのが聞こえた。僕にとっては全く違う印象だけど、まあ彼女のことを知らない人たちはそう感じても無理はない。ざわついた体育館。先生が一言、「はい、皆さん静かに聞いてください」と注意をし、静まり返った空気の中、彼女は話し始めた。
「 悪者 七瀬美里
突然ですが、みなさんには秘密はありますか?誰にも知られたくない、もし知られてしまったら自分が壊れてしまう。そんな秘密はありますか?
近頃、殺人のニュースを良く見かけるようになりました。駅前で男性が女性を刺したり、実の子供が両親を殺したり。それらのニュースはどれも、加害者が全て悪いと言う報道でした。勿論、踏みとどまるべき範囲が私達人間には存在していて、それを越えてしまった彼らが悪者です。
ですが、本当に彼らだけが悪いのでしょうか。悪い人は加害者だけでしょうか。被害者には一ミリも火はなかったと、言えるのでしょうか。
例えば、駅前で男性が女性を刺した事件。力の差が現れる男女のやり取りは、どうしても男性の方が強いと思われてしまいます。筋力で言ったらそうかもしれません。ですが、その女性が言葉の暴力という名の精神的苦痛を男性に浴びせ、我を失った男性が自分の身を守るために女性を刺していたら、それは男性だけが悪者でしょうか。
例えば、実の子供が両親を殺した事件。化学室にあった薬品を持ち出し、食事に入れたと言われていますが、その薬品という名の毒をもった瞬間の子供の気持ちはどんなものだったのでしょうか。自分を産み、育ててくれた両親を殺さなければならない理由がその子供にはあったはずです。本来は一生をかけて感謝をするはずだった両親が、その子供に暴力を振るっていたら。言葉の暴力を与えていたら。ろくに食事を与えず、このままでは自分が死んでしまうと怯え犯行に及んでいたら、それは子供だけが悪者でしょうか。
また、殺人だけではありません。皆さんが好きな話題で言うと、恋愛についてでしょうか。これは決して不倫や二股、浮気を肯定したいわけではありません。例えば、付き合っている男女がいたとして、一人の女性がその男性には恋人がいると知りながら近づき、色目を使い誘惑をし悪の手を伸ばす。これは逆も然りですが、そうして不倫や二股、浮気などが出来上がります。「浮気された」「付き合ってた人に二股されてた」確かに浮気をした彼が悪いし、誘惑をした女が悪い。でもこれも彼女は全く悪くないのかと言われたら、そうでもないのです。彼女が彼をほったらかしにしていたのかもしれない。彼女が彼をあまり必要としていなかったのかもしれない。または、気づいていないだけで、二人の関係はもう既に修復が不可能な状態にあったのかもしれない。
被害者、加害者と分けると、やはり加害者が悪者で、多くの批判を受けます。でも、その行為の先に何が埋まっているかなんて、誰にも分からないのです。
犯罪は、必ず根元に何かしらの原因が埋まっているものです。その理由次第では私はその犯罪者を讃えるかも知れません。良くやった。あなたは強いわ。そう言うかもしれません。そして、なぜ隠し通さなかったんだと怒るかもしれません。誰も何も知らずに生きていたら、みんなが幸せかもしれない。秘密を打ち明けて、気持ちが晴れるのは、打ち明けた人だけです。秘密にしている自分に耐えきれず、全て解放されたいと願う。だったら初めから秘密なんて作らないほうがいいです。そんな弱い人は秘密を作った時点で負けです。
犯罪も浮気や不倫も別に肯定しているわけではありません。ただ、その行為に至った理由があり、ただ加害者だけが責め立てられる世界が少しでも変われたらいいなと私は考えている、と言うだけです。
そして、その行為を打ち明けるのも秘密にするのも、本人次第です。一生かけて秘密にすると誓うのであれば、その秘密は墓場まで持っていく勢いで筋を通さなければならない。犯罪や浮気を隠せと言っているわけではありません。私が言いたいのは、もし、やってしまったことが取り返しのつかないことだったとして。もし、それ以上に手離したくない何かがあるとしたら、選択肢は一つしかないと言うことです。そして、その選択を取るのであれば、一生連れ添う気持ちで生きていくしかないと言うことです。私はその選択をした人たちに言いたいことがあります。それは、
[秘密を貫くにはひとつの嘘じゃ足りない。嘘に嘘を重ねて、それを真実にしていくしかない]
と言うことです。
もう一度言いますが、総じて犯罪や浮気を肯定しているわけではありません。ただ、人間にはそう言う道もあり、そういう選択も存在すると言うことです。そして、その選択を選んだ者は、その選択を選ばざるを得なかった理由より、過酷な道に進むことになると言うことです」
彼女の作文の内容はかなり衝撃的だった。僕にはまるで殺されるような理由がある、被害者が悪い、そう言っているように聞こえた。犯罪者を肯定しているようだった。罪を犯しても、秘密にしたら丸く収まる。そう言っているようだった。それは僕だけでなく全校生徒が感じた違和感だった。普段寝てばかりの奴らが、目を見開いて起きていて、いつもうるさい女子たちが真っ直ぐ彼女の話を聞いた。
「秘密を貫くには
ひとつの嘘じゃ足りない
嘘に嘘を重ねて
それを真実にしていくしかない」
そう話す彼女はまるで、自分のことだと主張しているようだった。作品の中の話は全て私の実体験ですと語っているようだった。僕の頭には、この言葉が強くこびりついた。聞いている誰もが感じた違和感がもし本当なら、彼女の抱えている秘密は何だろう。誰にも言わず、あの華奢な体で支えている大きなものは何だろう。彼女を苦しめているものは何だろう。すっかり僕の頭の中は彼女のことばかりで、隙間なんてなく、びっしりと詰められていた。
次の日から、なぜか彼女の生い立ちが噂になった。昔の両親の事故のことだ。作文発表の時に抱いた違和感がみんなを騒ぎ立てた。自宅が全焼したなんて人、どこを探してもいないからこそみんなが興味を持った。同じ小学校ということで数人に僕も聞かれたけど、当然無視をした。そして、
「七瀬美里が火を放って両親を殺した」
そんな噂が流れ始めた。誰がそう言い始めたのかは分からなかったけれど、噂とかくだらない。どうして人間は噂が好きなのだろうか。昔、彼女の家のことで近所のおばさんたちが噂をしていたのを思い出した。噂をする前に、真実を知った方がよっっぽどいい。でも彼女に直接確認をする人は誰一人としていなかった。
この噂は、学校の裏掲示板だけの会話で、彼女は近づき難い雰囲気だし、僕は逆にそれが良かったと思った。社交的で、この噂が彼女の耳に入ったら、当然傷つくだろう。それはなんとしても避けたいと思った。
一時期みんなを騒ぎ立てていたその噂も、半年も過ぎれば面白くなくなり、みんな何も言わなくなった。裏掲示板でも他クラスの女子生徒と先生がデキているだの、違うだので話題が持ちきりになった。僕はこれでいい、所詮噂はその程度のものだとそう思った。
僕自身もその噂を彼女に直接確認は取らなかった。もし、本当に彼女があの事故のことで何か大きなことを抱えていたとして、それを墓場まで持って行くと覚悟していたとして。わざわざ掘り出すみたいなこと、僕には出来なかった。あの時、彼女の状況を知っていたのに助けられなかった自分を隠したい、そんな気持ちすら出てきてしまっていたからだ。情けなさと、申し訳なさ。彼女が話すように、犯罪には何かしらの原因が埋まっているものとするならば。そして、彼女の噂が本当とするならば。彼女が抱える秘密の原因は、あの時何も出来なかった自分にもあると。そう思うからこそ、僕はまた何もしないことを選んだ。それが彼女が望むことならばと、そう思った。
*
夏休み。栞が家族と一緒に一時帰国をした。
「碧久々〜!」
元気に抱きついてくる栞は昔のままだった。
「おう、元気そうで安心したわ!」
「元気元気〜でもちょっと太ったかも。向こう美味しいもんばっかだからさ!」
「…」
僕は栞の全身を見た。
「うわ!そこはそうでもないよ、とか、逆に痩せて見えるよとか言うんだよ。ばか碧!」
「ごめんって。嘘。何も変わってないよ」
栞は久しぶりに会ってもいつも通りだった。親戚だからか、やはりどこか栞の顔を見ると安心をする。元から背が低く、人より華奢な体は相変わらずだった。色づいた唇を見て、僕は美里を思い出した。
「七瀬美里、会う?」
「…大丈夫!こっちのタイミングで会いたいから」
「そ?じゃあ連絡先送るわ。知らないだろ?」
「…そっか連絡先。教えてもらわないと知らないから送れないや、あはは」
「栞お前、馬鹿になった?」
「はーうるさいな。向こうでは英語で話してるんだからね!碧よりは頭いいもん」
「はいはい、じゃ今送るねー」
栞は相変わらず妹みたいだ。それがどこか心地よく、いつも一緒にいた日々が懐かしく思える。僕はまた三人でたわいない話をしたり、笑い合ったり出来たらいいなとあの頃の日々を思い浮かべていた。正直、元に戻れるなんて理想を描いていたかもしれない。この時栞がどう思っていて、美里がどう思っているかなんて、少しも気にしていなかった。
「碧、ちょっと買い物行ってきてくれない?」
母親から頼まれ、文句を一言二言放ち渋々蒸し暑い中家を出た。もう夏休みも終盤。僕は毎日課題に追われていた。勉強はできない方ではない。むしろ好きな方ではある。でも僕は書き写すとか、ただやるだけという作業が苦手で、どうしても後回しにしてしまっていた。預かったお金でアイスを買ってやろうとか、そんなことを考えて歩いていたら、懐かしい光景が視界に入ってきた。
栞と美里が公園で何かを話している。二人はあまり良い雰囲気ではなさそうだった。僕が知っている栞らしくない緊迫した表情を浮かべている。美里も昔みたいな調子で栞と話せていないようだった。
「だからダメだって!」
栞が声を荒げた。栞の表情に驚いた。僕にいつも怒っている時とは違う表情。どこか切なそうで苦しそうで、今すぐにも泣き出しそうだった。
「二人共どうしたんだよ」
僕は声をかけずにはいられなかった。そんな僕に酷く驚いた表情を見せたのは栞ではなく美里だった。
「和泉くん…今の聞いてた?」
声が少し震えて聞こえた。
「いや、栞のでかい声しか聞こえてないよ」
「そっか」
重たい空気が流れる。ここにいてはいけないような感覚。僕は邪魔だと言われているような気がした。栞も妙に顔を背けてこっちを見ようとしない。
「なんか、あったか?」
そう聞くと返事をしたのは美里だった。
「ううん。大丈夫。ちょっと久しぶりに会って噛み合わなかっただけだから」
美里がそう話すと、さっきまで顔を背けていた栞が口を開いた。
「そーだよ。女同士の話だから碧入ってこないで〜」
「なんだよその言い方。心配したのに。じゃあ俺はお邪魔なようなんで帰りますよ〜」
「帰れ帰れ〜」
栞が追い払うように手を振り、僕が二人に背を向けた時、
「和泉くん」
美里が僕を引き止めた。
「ちょっと…!」
栞の焦った声。振り向くと美里は真っ直ぐ体を僕の方に向けていた。
「またちゃんと話すから。…和泉くんにはちゃんとしたいから」
ちゃんとしたいと言う言葉の意味がその時の僕には分からなかった。栞はその美里を見て、ため息をついている。「意味がわかんない」と喉まで出てきた言葉は、美里の表情を見ると口に出せなかった。
「わかった」
それだけ言ってその場を後にした。スーパーに行き家に帰る。
「あれ、ちゃんとお金余ってる。アイスとか買ってくると思ったのに〜…碧?どうかした?」
「あ、そうだアイス…」
母親に言われて、アイスを買ってくるのを忘れていたことに気がついた。僕の頭はちゃんとしたいと言った美里のことで埋め尽くされていて、あの時の彼女の顔が忘れられなかった。
「和泉くんにはちゃんとしたいから」そう言われてもう既に一ヶ月が経っていた。栞は夏休みが終わり日本を離れた。あれから、「何があったんだ」と栞に聞いても、「私から話すことはない」そればかりで何も話してくれなかった。緊迫した感じで伝えてきた美里も、あれから何度も会っているのに至っていつも通り。くだらない話もするし、笑顔だって見せてくれる。クラスでいる時はとてもクールで静かだし、ヘッドホンをつけて周りと関わらないようにしているのも相変わらずだった。
ただ、最近僕以外の男とよく話している姿を見る。そいつの名前は相田咲人。僕とは小学校の頃から一緒で、でも特別話した覚えはない。美里も栞も知っているけれど、二人があいつと親しくしている所を見た覚えはない。休み時間フラッと教室からいなくなる美里は、多目的ルームであいつと何か話している。それも休み時間だけ。別に廊下ですれ違って手を振っているとか、ニコッと笑っていたりとか、そういう関わり方ではない。休み時間のたった十分だけ話して終わるという妙な関係性だった。
相田咲人ははっきり言って変な子だった。必要以上に昆虫とかそう言うのが好きで、今で言う「陰キャ」と言う存在。小学校の頃なんて、勿論特定の仲良い子はいなさそうだったし、いつも一人だった。でも思い返すと、みんなと仲が良い栞は廊下ですれ違った時にあいつにも声をかけていた気がする。だけどそれも、栞はみんなにしていたことでそこまで気に留めていなかった。あいつとの接点と言えばそれくらいだ。どうして今になってそれも美里に近づいてきたんだろう。僕の頭はそればかりだった。
「相田と仲良いの?」
放課後の美術室で僕は美里に聞いてみた。すると美里はこう答えた。
「仲良いというか、咲人くんとはちょっと話すことがあるだけだよ」
「咲人くん」と名前で呼んでいることが気に障った。僕は昔から「和泉くん」で、「碧くん」と呼ばれたことは一度もない。下の名前で呼ぶほど仲が良いと言うことなのか。なんだか胸の奥が痛い。変な気持ちだった。
「あっそ」
何に対しての反発心なのか、そっけない返事をした。
「そういえば、あのちゃんとしたいって話、何?」
僕のその言葉を聞き、美里は絵をスラスラ書いていた手を止めた。
「それは、もう少し待ってて」
「…わかった、けどあれから結構気になってるよ」
そう言うと、美里は小さい声で、「うん、ごめん」と言った。この時の僕の考えはかなり浅かったと思う。もしかしたら告白されるかもなんて思ってもいた。ちゃんとしたいって男が結婚を決断する時みたいな言い方だし、もしかしたら、ちゃんと気持ち言いたいってことかもしれないと、微かに思っていた。美里は僕にしか見せない顔があったし、僕との時間はとても楽しそうだった。美里も自分を好いてくれているのではいかと思うのも無理はなかった。周りには興味がないとあしらっている僕でも、好きな子に対しては別だった。触れたいとも思うし、春樹が言っていた、「色んなことしたい」と言う感情も、美里に対しては持ち合わせていた。彼女に再会して、彼女に会うまでに少しも抱いていなかった不純な感情も芽生えていた。だからこそ、咲人と話す姿が気に食わない。自分とだけ話していればいいと思う感情。自分で重たい感情だと気がついたのは「ちゃんとしたい」彼女にそう言われた頃くらいだった気がする。
それから数日が経った朝、美里から『放課後屋上に来てほしい』とメールが入った。教室で「何かあんの?」と聞いても、「後でね」としか言われなかった。
夕陽のオレンジ色が校舎を照り付けている放課後、屋上へ向かうと美里はもう既に僕を待っていた。
「ごめん、待たせた」
そう言うと美里は振り向き微笑んだ。妙な感じだった。そして言った。
「ここからの景色、あの山からの景色とはちょっと違うけど、私結構好きなんだよね」
驚いた。昔一緒に山に登って街を見下ろしたこと、もう忘れてしまっていると思っていたからだ。
「確かにあの山からの景色は、俺調べだと、ここら辺で一番の絶景だからな〜」
僕は必死にニヤけ顔を隠しながら会話をした。
「夕陽、綺麗だね」
そう話す美里の言葉に、
「うん、綺麗だね」
美里の顔を見ながらそう答えた。美里の白い肌が夕陽に照らされオレンジ色に光っていた。あの日、美術室で約五年ぶりに話した日のことを思い出した。
それから妙に静かな時間が流れた。夕陽が二人を照り付け、世界に二人だけしかいないような感覚になった。僕はもし、今告白をされるとしたら、そこは男である自分から言いたいと思っていた。「あのさ」と話し出そうと息を吸った時、美里が口を開いた。
「和泉くんはさ、自分のことどれだけわかってる?」
予想外のこの言葉が、どれだけ重いものなのか。僕はすぐに感じ取った。自分のこと…そんなもの自分が一番よく分かっているに違いない。僕の場合だと、美里を思う気持ちは自分が一番理解している。そう言う意味ではないのだろうか。そんなことを頭の中で考えていると、美里は言った。
「私は、私のことが一番分かんない。自分のことは自分が一番良く分かってるってよく言うけど、私は違う。和泉くんの事とか、みんなが何考えてるのか感じ取れても、肝心な私自身の事は何も分からない」
「そうなんだ」と軽い相槌がなぜが打てなかった。その僕に気がついているのか、美里は話を続けた。
「ちゃんとしたいって言ったのに待たせてごめんね」
「あっ…うん」
待っていた話が来たのに、なぜか僕はその先を聞くのが怖くなっていて、さっきまで告白なのではないかと浮かれていた自分をぶん殴りたい気持ちでいっぱいだった。
「ちゃんと、聞いてほしいことがあったの。もしかしたら、迷惑かけちゃうかもしれないし、私を嫌いになっちゃうと思うんだけど、それでももう和泉くんには隠せない」
そう話す美里の手が震えていることが分かった。僕はあの作文で感じた「違和感」の答え合わせの時間だと思った。そして、今目の目にいる美里がどれだけ悩んで決断したことなのか、手の震えで痛いほど伝わってきた。何を打ち明けられるのかなんて予想がつかない。それでも、美里の震えている手をそっと自分の手のひらで包み込んだ。
「大丈夫。大丈夫だよ。俺は美里の味方だから」
僕の言葉に美里は静かに頷き、そして言った。
「あの日、あの4年前の火事。私のせいなんだ」
「私が、火をつけたの…私が、殺した」
美里の言葉に、僕は酷く動揺し、そして恐怖を抱いた。それはきっと、目の前にいる彼女が昔から知っている美里に、突如として見えなくなったからだと思う。
冷たい目。妙に白い肌。風が吹き見えたピアス。髪の隙間から見える茶色い髪の毛。初めに違和感を覚えた身長と雰囲気。
『こいつ…誰だ…』
僕のその思いは言葉にならなかった。彼女と目が合っているとどうやら思い通りにいかないらしい。息が詰まるような感覚に陥り、僕はしばらくそこに立ち尽くした。
「殺した」と震えながら伝えてくるその言葉は、彼女が当時どれだけ残酷な目にあっていたか伝わってくる一言だった。なんて声をかけて良いのか、正解はなんなのか分からない…分かるはずがなかった。
目の前にいる美里が苦しそうで今にも消えてしまいそうで、違和感なんてどうでもいいから繋ぎ止めたいと咄嗟に思い、気がついたら抱き締めていた。
「和泉くんには本当の自分を知って欲しかったの。私は弱い人間だったみたい。ごめんね…」
そう苦しそうに話す彼女の言葉で、あの作文を思い出した。
––––秘密を打ち明けて、気持ちが晴れるのは、打ち明けた人だけです。秘密にしている自分に耐えきれず、全て解放されたいと願う。だったら初めから秘密なんて作らないほうがいいです。そんな弱い人は秘密を作った時点で負けです。
美里が言う「弱い人間」という言葉に僕はグッと力が入る。僕自身も、当時知っていたのに何もできなかった「弱い人間」だからこそ、今打ち明けてくれた美里がどれほど「強い人間」に見えたか。
「大丈夫。今度こそ俺が美里を守る。だからもう何も背負わないでほしい。俺と秘密を共有して、二人で乗り越えよう」
美里は首を縦に振る。それから夕陽に照らされながら、二人で当時の話をした。美里は思い出したくもないだろう、母親から受けていた事全てを打ち明けてくれた。それはとても残酷で、他人である僕ですら目を逸らしたくなる事ばかりだった。
「ごめん俺あの時何もできなくて…」
言葉がうまく出てこない僕を見て、美里は言った。
「ううん。私があの時誰かに助けを求めればよかったの。和泉くんは何もできなかったなんて言わないで。私、学校に行くといつも和泉くんがいて、笑ってる和泉くんを見て、救われてた。教室でね、和泉くんの背中見て元気もらってたの。あの頃の私にとって一番好きな時間だったよ」
「…そっか。でもなんか照れ臭いな」
一目惚れをしてから今まで、もしかしたらとは何度も思った。両思いなのではいか、上手くいくのではないか。当時も今も自信が持てずにモタモタしている僕にとっては、今の言葉はとんでもなく嬉しいものだった。
「守るって言ってくれて嬉しいけど和泉くんは何もしないで。悪者になんてならないで」
「でも俺…」
「そのままでいて、お願い」
「分かった…」
「私、幸せになっていい人間じゃないってずっと思ってた。でもまた和泉くんに会えて、幸せになりたいとも思ったの。これから迷惑かけることあるかもしれないんだけど、その時はごめんね」
「ううん、これからも一緒に絵描いて、たまに部活サボって夕陽を見に行こう。あ、昔に行った花畑でもいいし、有名なカフェでもどこでもいい。ただ、一緒に過ごそう。一緒に、卒業しような」
「……うん、ありがとう」
二人で笑い合った。何もなかったあの頃のように。
「寒いね」
って言いながら手を繋いだ。
「碧くんの手あったかい」
「碧くん」という呼び方に胸がキュッと鳴った。
「だろ?いつでも温めることできるから」
そう言うと美里は少し照れたように、くしゃっとした笑顔で笑った。
この時、僕は美里の笑顔から感じる違和感に気づいていないフリをした。それは、少しの時間でもいい思い出を美里と一緒に過ごしたかったから。目の前にいる美里の言っていることを全て信じる。美里になら騙されてもいいや、そうとも思っていた。
「好き」と言う言葉を言わなくても、通じることがあるんだと初めて知った昨日、確かに僕の人生の中で一番幸せな日だった。彼女が犯した罪というのは、消せない。あの作文でも言っていたように、踏み止まれなかった人が悪人。それは僕も同意だった。何があっても犯罪というものはしてはいけないこと。法律で定められているように、それは世界共通だし、幼い頃から警察官である父さんにそう教えられて生きてきた。警察官の息子が犯罪者だなんて、それこそ世間は面白おかしく噂をするだろう。
ただ僕は今、彼女が笑って生きられている事が何を天秤にかけても上回る、嬉しい事だった。あの日あの時、彼女が目の前で見ていた景色はとてもじゃないが想像が出来ない。想像をして分かった気になってはいけない事だとも思った。そして彼女がした選択のお陰で、今一緒にいられているとするならば、僕は彼女のした選択にありがとうと言いたいくらいだった。
でもこの時の僕は、長年の想いが繋がった事への喜びが、彼女を守ると言った言葉よりも上回ってしまっていたように思える。大好きな彼女と想いが重なり、二人で将来を話し合えることがどれだけ嬉しいか、幸せで堪らなかった。
日曜日、二人であの山に登った。
「あの頃もっと大きく見えてたけど、意外とそんなでもないね」
なんて二人で話しながら楽しく登った。
山からの景色を見て、美里が言った。
「やっぱりここからの景色が一番綺麗だね」
「そうだな」
幸せな時間だった。誰にも邪魔されない二人だけの時間。
「碧くんは将来何になりたいとかあるの?」
いきなりの質問で驚いたものの、「これからの2人」に関しては重要なことでもあるとすぐ理解できた。
「んー、まだ決まってないけど、何かを生み出す人はすごいと思ってる」
「生み出す人?」
「そう、絵とか小説とかもそうだけど、0を1にする人。もう既にあるものを継続させることもすごいと思うけど、何もないところに花を咲かせるのはもっとすごいことな気がするんだ」
「…素敵だね。碧くんらしいよ」
彼女はそう言って真っ直ぐ前を向いた。
「美里は?」
「私は、平凡に生きていきたい」
「ん?それなりたいものじゃないじゃん!」
「平凡に生きて、結婚して、母親になって。あの人よりちゃんとお母さんになりたい」
はっきりそう言う美里の言葉には強い意志を感じた。
「必ず、なれるよ。絶対ね」
僕はそう言って、美里の手を握った。2人で幸せな時間を過ごしている正にその瞬間に、何が起こってるかも知らずに、僕らは僕らだけの時間をただただ過ごした。
次の日学校に行くと、今にも降り出しそうな曇り空が教室の明かりを妙に目立たせていて、クラスのみんなが携帯を見て何か話しているのが分かった。声をかけると、裏掲示板のページを見ていた。そこに投稿されていたのは、昨日の屋上での僕と美里の会話を隠し撮りした動画だった。「やはり、七瀬美里は両親を殺していた」そんな書き込みも一緒に添えられていた。その動画は丁度、美里が僕に秘密を打ち明け始めたとこから始まっていた。投稿者は昨日その投稿の他にも、「告白かと思って撮っていたら、まさかの…これもある意味告白か」「こいつは人殺しだ」「みんな殺される前に逃げろ」続けて沢山書き込んでいた。風の音が一緒に入っていて、2人の会話が聞き取りにくくはあったものの、その動画に対し、たくさんの人が反応していて、「え、これまじ?」「ヤラセだろ完全に」そう反対するものもいれば、「ヤバすぎる」「人殺しと同じ学校とか怖すぎて無理」「普段大人しいのに、本性隠してたのか」そう信じる人が圧倒的に多すぎた。
やばい、そう思った瞬間タイミング悪く美里が教室に入ってきた。クラスのみんなが美里に注目し、蔑みの目で見つめた。1人の気の強い女子が美里に携帯を見せて、
「ねえ、これ本当なの?どうなの?」
かなり強い言い方で問い詰めた。美里は動揺した目で僕を見た。何か言ってあげないと、そう頭をフル回転させても、特別いい言葉が浮かばず、
「いや、待ってよ。そんな言い方しなくてもさ」
と、仲裁に入る言葉しか出てこなかった。美里を庇う僕にクラスの矛先は向き、女子たちは言った。
「てか和泉くん知ってんでしょ、ここにいたんだから。説明しなよ」
正直ものすごく戸惑った。なんて言うのが1番いいのか全然分からなかった。確かに美里との秘密を守る自信も美里自身を守る自信もあった。でもみんなに知られた時の嘘のつき方を、僕はまだ考えていなかった。自分だけに留めて置けばいいと、それが「秘密を守る」「美里を守る」ことだと思っていた。
何も言えない僕を見て、美里は教室を出て行ってしまった。慌てて追いかけると、
「こないで。大丈夫、碧くんの気持ちは分かってるから。でも今日は一旦帰るね」
そう言い残し、靴を履き替えた。その時、さっきまで降っていなかった雨が降り出していて、急いで僕が持ってきた傘を差し出すと、美里は小さな声で、
「大丈夫だから」
とだけ言って、一度も振り返らずに小走りで帰って行った。雨の中帰っていく後ろ姿を見ながら、僕はあの作文の言葉を思い出した。
「秘密を貫くには
ひとつの嘘じゃ足りない
嘘に嘘を重ねて
それを真実にしていくしかない」
この言葉の重みを、この時初めて理解できた気がした。僕は美里との秘密を貫くための、嘘を考えていなかった。咄嗟になんでもいいから言えばよかったものの、不甲斐ないくらい何も出てこない。あんなに自分が守るとか理解したとか沢山思っていたのに、全く美里を守れていない自分に腹が立ち、思わず壁に拳を叩きつけた。痛い、拳が熱を持った。でもきっと、今の美里はこれより痛い思いをしている。自分の不甲斐なさに怒りを覚えた。
「七瀬さんはきっと、君を守ると思うよ」
話しかけてきたのは咲人だった。
「相田…なんなんだよお前」
「…全て知ってる人だよ」
「は…?」
「七瀬さんはあの時と同じ、君を守る方を選ぶよ」
咲人はそう言い残し教室に戻っていった。美里の秘密をどうして咲人が知っているのか、僕は混乱した。自分だけが知っていると思っていたけど、もしかしたら咲人以外にも知っている人がいるのかもしれないと、ふとそう思った。
そしてあの投稿はあっという間に広まっていき、裏掲示板の書き込みはどんどん酷くなった。美里に対して「死ね」「報いを受けろ」「のうのうと生きてるのヤバすぎ」心無い言葉が溢れた。美里が昔どんな環境で育ったか、美里がどんな人か、美里と話したこと、関わったこともない人が卑劣な言葉で誹謗中傷を浴びせた。普段から静かだったり人より暗かったこともあり、あの時はこう思っていたんじゃないかとか、訳がわからないところまで美里に関するあらゆる話が噂となって広まった。
そして、その矛先は僕にも向けられた。「七瀬美里が好きだから庇っている」「人殺しのことが好きとかどんな神経してんだよ」「変わったもの同士気が合うんじゃね」「和泉くん好きだったのにショック」「正直学年で一番かっこいいと思ってたけど、流石にこれはない」「顔だけ男で中身クズ」悪い書き込みで溢れた。僕も少なからずその状況はきつかったけれど、美里のことを思うと我慢できた。僕はこの時、言葉こそ本物の凶器だと思った。どこの誰か分からない人が自分のことを散々な形で言いまくる。まだ直接顔を合わせて言われた方がマシだと思った。春樹も駿も気まずそうな顔を僕に向けていた。僕は自然と、洋ちゃんがいる美術準備室にいる時間が増えていった。
あれから一週間、美里は学校に来ていない。電話も繋がらないし、メッセージも既読にならない。まるであの頃に戻ったみたいだった。
僕に直接いろんな人が聞いてきた。まずあれが事実なのかということ。僕はもう遅いと思いながらも、嘘をついた。あるドラマのワンシーンが好きすぎて真似しただけだと。見え透いた嘘だったけれど、そんなことくらいしか思いつかなかった。
僕が嘘を主張したことで、その話題から離れていく人もいた。「どうせそんなことだと思った」「こいつ焦って投稿してて草」「誤解とか七瀬さん可哀想」美里の味方になる人も出てきた。
世間の目はコロコロと意見を変える。何が真実で何が嘘とか関係ない。何が騒がれているかが重要だ。このまま誤解と思わせられれば、きっとそっちにみんなが流れていく。僕はそう考えていた。
そしてまた一週間が経った。二週間前の美里の出来事は、少しずつ薄れていって、まだああだこうだと騒いでいる人はいるけれど、だいぶ減っていた。それも、また先生と生徒の恋愛が取り上げられ、そっちの方が今は面白いということなのだと思う。こちらの話題は美里が二週間学校に来ていないのだから、直接聞くこともできないから何も進展がない。だから、永遠と同じところで騒ぐのはすぐ飽きる。僕は次美里が学校に来た時、どうしようかと考えていた。
そして、気がつけば明日から十二月。季節は冬になっていた。日曜日の夜、美里からメッセージが届いた。
『私、引っ越すことになった』
一瞬読み間違えたかと思ったが、そんな小さな期待はすぐに裏切られた。
『なかなか連絡できなくてごめんね。急だけど、明日がこっちにいるの最後になる』
『学校には朝行って、先生に挨拶だけする予定です』
あまりにも急すぎではないかと、怒りさえ覚えた。僕があの日した行動は、そんなにも美里との距離をあけてしまったのだろうか。秘密を共有した日、確かに僕と美里の気持ちは一つになったはずだった。これからの明るい未来を想像したのは自分だけだったのだろうか。美里からのメッセージに返事ができず、朝になった。
いつもより早く起きて朝ごはんも食べずに家を出た。お母さんが大きな声で
「ご飯はちゃんと食べていきなさい!」
そう叫んでいた気がするけれど、僕は無視をして自転車に跨り、ものすごい勢いで学校に向かった。急いで職員室に向かうと美里がちょうど出て来たところだった。僕は美里に駆け寄ったが、美里は僕を無視して足速に歩き出した。思わず腕を掴み、少し強い力で引っ張り抱きしめた。
「俺やっぱり頼りない?あの時、嘘つけなかったから嫌いになった?あの時も今も、どうしてそうやって一人になるんだよ」
どこかに行こうとする美里に「待ってくれ」そういう思いで伝えた。心が乱れながらも、ぎゅっと自分を抱きしめる僕に、美里は冷静な声で
「離して」
そう言って僕を少しだけ強い力で振り解き、
「屋上で話そ」
小さな声でそういい、屋上に向かった。
廊下を歩きながら、自分の前を歩いている美里は今何を考え、何を思っているのか、聞かなくても分かったらどれだけいいかと僕は思った。
屋上につき、冬の寒さが二人をあっという間に飲み込んだ。
「私のことで迷惑をかけてること、本当にごめんなさい。でも、引っ越しは今回のこととは全く関係ないから、変に責任とか感じるのやめて。でも碧くんはやっぱり私と違う人間だなって思った。私たちは混じり合っちゃいけないんだよ」
「いや、一緒だよ同じ…」
「同じ人間」と言いかけたところで美里は僕の言葉を遮った。
「違う!碧くんは、人を殺してないじゃない!…そこが大きい、大きすぎるよ」
彼女が話す声から物凄い意志と覚悟の音が聞こえた気がした。「いや、待ってよ」そう言おうとした僕の声をかき消すように、
「私別に碧くんに好きって言ってないし、というか、好きじゃないし。このままもう会わないのが私たちにとっていいと思うんだよね。碧くんの気持ち受け取れないのに、会ったり連絡とるのとかちょっと私にはできないから、今日で最後ってことにしよ」
僕はまた思った、あまりにも急すぎではないか。今日ははっきりと怒りが湧きあがった。でも、美里から伝わる思いがあまりにも大きすぎて、何も言い返せなかった。また、これが美里のためになるのならと思った。いや、そう思うことでまた僕は自分を守っていたのかもしれない。きっと何を言っても美里の想いは変わらない。こんなにも分かりやすい嘘をつき通そうとしている。そう伝わるからこそ、何も言えなかった。
これが最後になるならと、僕は伝えた。
「俺は評判なんてどうだっていい。誰に何を言われても気にしない。美里が好きなんだずっと。今までもこの先も」
初めて「好き」と言う言葉を口にした。でもどう見ても、美里を繋ぎ止める言葉にしか聞こえない。こんな風に伝えたいわけではないのに。「好き」ってもっと素晴らしい言葉なのに、必死に縋っているようにしか伝えられなかった。
「…私達は違いすぎるんだよ」
「どこがだよ!同じ人間で同じ場所にいる。過去なんてどうだっていい。過去は過去。これから二人で乗り越えようって言っただろ」
「ううん、過去はその人に一生付き纏うの。過去は変えられない。それに、私は碧くんにまだ秘密があるの、でもそれは言えない」
美里はそう僕の目を見てはっきりと言った。そんなのとっくに気がついている。全てを曝け出してもらえていないと言うこと。再会してから今までずっと感じている違和感。それでも、それを気にしないって言っているじゃないか。どうして、伝わらないんだ。しばらく黙っていると、彼女は耐えきれなかったのかこの場を後にしようとした。
僕の横を通り過ぎる時、掠れた小さい声で
「ごめん」
そう言った気がした。少し強い風が吹いて、空耳かも知れないけれど、そう聞こえたような気がした。掠れて涙ぐんだ声。その声の後は美里はきっと涙を流す。美里は今泣いているんじゃないだろうか。追いかけて抱きしめてあげられない自分と今の状況にやるせない気持ちが昂り、気がついたら僕の目にも涙が溢れていた。もう17歳。あの頃とは違うと思っていたけれど、されど17歳だった。美里の人生を背負って生きていける根拠がない。お金だってない。二人で遠くに行こうなんて言葉が出てこなかった。月日が経っても僕はあの頃と何も変わっていなかった。この日は確かに寒かったけれど、一段と寒く感じ、心から震えた。
「ほら、言ったでしょ。七瀬さんはこうやっていつも君を守るんだよ」
膝まづいて泣いている僕に声をかけたのはやはり咲人だった。
「…またお前かよ。相田お前マジでなんなの」
「だから言ったじゃん、全部知ってる人だって」
「だからそれがどう言う意味だって言ってんだよ!」
僕は思わず咲人の胸ぐらを掴んで壁に押しつけた。カッとなった僕とは違い、この状況なのにも関わらず、咲人は至って冷静だった。
「分かった、分かったよ。でも僕だけじゃだめ。栞ちゃんがいないと」
「栞…?」
咲人は掴まれて乱れた服を直しながら言った。
「そう栞ちゃん。七瀬さんの秘密、一番よく知ってるのは彼女だよ」
「どうして栞が出てくるんだよ」
栞が美里の秘密を知っているわけがない。当時、僕が現場に行った時、栞は後ろから追いかけてきた。何度も美里の家に一緒に行った。知っている人の行動ではない。それに栞は今日本にいない。今のこの状況すら知らないはずだ。
––––だからダメだって!
夏休み、公園で声を荒げていた栞を思い出した。何がダメなんだと気にはなっていたが、あの時の僕はそこまで重要視していなかった。その後に、美里に「ちゃんとしたい」そう言われて、秘密を告白された。と言うことはあの時その話を…と頭で結びついた時、咲人が言った。
「あの事件の日、あそこに居たんだよ。栞ちゃんも」
「…あそこって」
「そう、あの燃え上がってる七瀬さんの家にね。いたよ、栞ちゃん」
冷たい風が二人の髪を揺らし、揺る校庭の木の音が妙に耳に残った。