5
ジェンキンス伯爵の長女として生まれたミアには、父と母、そして、三つ年上の兄がいた。
ある春の日。ジェンキンス伯爵家は、家族そろって、旅行に出掛けていた。小雨が降る移動中、石に乗り上げた馬車が、転倒した。ジェンキンス伯爵の命により、速度を上げていた馬車から放り出された兄は、打ち所が悪かったらしく、そのまま間もなく、死亡。父と母も、馬車の下敷きとなり、圧死した。
運良く生き残ったミアは、急いで病院へと運ばれた。幸い、事故による大きな怪我はなく、数日で目を覚ましたのだが──。
ジェンキンス伯爵家が事故に遭ったと連絡を受け、駆けつけたのは、カール・ジェンキンス。ジェンキンス伯爵の、弟。ミアにとっては、叔父にあたる人だった。母方の祖父母はすでに他界しており、父方の祖父母は、連絡を受けたものの、姿を見せることはなかった。
「あの、ミアが。私の姪が、ここに運ばれたと連絡を受けたのですが」
病院の受付にカールが駆け寄る。ほどなく、医師がやってきて、ミアの病室ではない、個室に通された。
「どうぞ、そこにかけてください」
医師が座った正面の椅子を指され、カールは戸惑いながら、そこに腰を落とした。
「ミア・ジェンキンス様のことなのですが……」
重苦しい医師の口調に、カールは、顔を強張らせた。
「手紙には、馬車の事故で、唯一ミアが生き残ったとしか書かれていませんでしたが……そんなに酷い怪我を……?」
「ああ、いえ……あなたは、あの令嬢の叔父にあたる人なのですよね?」
「え、ええ」
「最後に会ったのは、いつですか?」
カールは声を詰まらせ、一旦、間を置いてから気まずそうに口を開いた。
「……お恥ずかしながら、私は、昔から兄が苦手だったもので……ジェンキンス伯爵家を出てからは、ろくに兄と会っておらず……実を言うと、ミアとも、一度も会ったことがありません」
「失礼ながら──苦手、とは。例えば、暴言を吐かれたり、暴力をふるわれたりしたとか……そんな理由だったりしますか?」
カールは、驚いたように目を瞠った。
「……どう、して」
「あの子の身体には、事故での怪我とは別に、新旧、至るところに、傷跡や打撲痕がありましてね」
カールは、ひゅっと息を呑んだ。
「……ま、さか。兄が……?」
「ジェンキンス伯爵家に仕えていた人たち数名から、話を聞きました。もう主はいないからと、隠すことなく、すべてを話てくれる人もいましたよ。助けられない罪悪感を持っている人でした。全員が、そうではありませんでしたが……」
怒りと哀しみを含んだ声色で、医師は静かにそう告げた。
「……残念ながら、あなたの姪は、日常的に、父親から虐待を受けていたようです。そして、それを非難する者も、庇う者も、居なかったようで……」
「……そんな」
カールが、愕然とする。確かに、兄から暴力をふるわれることは何度かあった。だからといって、自分の子どもにまでそんなことをするとは。
(……いや。これは言い訳だ)
可能性なら、あった。なのに自分は、かかわりたくなくて、逃げた。もしかしたら、助けられたかもしれないのに。
後悔の念に苛まれていると、医師は「一番伝えなければならないのは、ここからです」と告げた。
「……これ以上、なにを」
「話を聞かせてくれたジェンキンス伯爵家の執事によると、約半年前から、ミア・ジェンキンス様の様子が、おかしくなられたと」
「? どういう」
「それまで、感情を閉ざすように、笑いもしなければ、滅多に泣きもしなかった子が、急に、感情を表に出すようになったというのです。それはまるで、別人のように」
「……むしろ、そのような惨い目に遭いながら、これまで泣きもしなかった方が、不自然なことだったのでは……?」
「おそらく、泣くことにより、父親の怒りが増していたのではないかと。それを学び、泣かなくなった……あくまで、推測ですが」
知らず、カールはこぶしを強く握っていた。ミアは確か、まだ、三歳だったはずだ。そんな幼い子どもがどうしてと、胸の奥が締め付けられた。
「あまりの変わりように、ジェンキンス伯爵も、不気味がっていたようで……旅行というのは建前で、本当はお忍びで、娘を有名な精神科医に診せようとしていたらしいです。あくまで家の評判のために、だったようですが……」
「……でしょうね」
虐待をするような親が娘のために、など。動くはずがないことは、嫌でも理解できた。
「あなたがここに来る三日前に、ミア・ジェンキンス様は、病室の寝台の上で、目を覚ましました。担当医だった私が名を尋ねると、あなたの姪は、怯えながらも、こう答えました──ダリア、と」
「……? あの、意味がよく」
「はい、説明します。と言っても、私は専門医ではないので、あくまで本で学んだ知識ですがね。実際に似たような症例の患者を診たのは、たった一度きりです」
そう言い、医師は口火を切った。
「人は、あまりにつらく、強いストレスを受けると、それらを受けているのは自分ではない、別の人だと思い込み、心を守ろうとすることがある。結果、別人格が形成されることがあります」
「別人格……」
「つまりは、いま、ミア・ジェンキンス様という一人の人間の中に、少なくとも二つの人格が存在している可能性があるということです」
カールが、まさか、と乾いた笑いを浮かべる。医師は、哀しげに眉尻を下げた。
「……ええ、確かに。証明する方法はありません。ですが、なんの説明もなしに会えば、きっと混乱されるだろうと思いまして」
それはその通りだと、カールは思わず、軽いパニック状態のまま、息をのんだ。馬車を飛ばしてまでここに来たのは、顔も知らない姪が、それでも心配だったから。
案内された病室には、寝台の上で布団にくるまり、顔すら確認できないミアがいた。
カールは意を決して、病室へと足を踏み入れ、できる限りの優しい声音で、ゆっくりと語りかけた。
「はじめまして。私は、カール・ジェンキンス。きみの父親の弟だよ」
しん。応答はない。それでもカールは根気強く語りかけ続けた。わざと明るい話題をしていたが、やがて、決意したように、恐々と核心に迫ることを話しはじめた。
「……私の兄に、とてもひどいことをされていたと聞いたよ。実は私も、えと、きみのお父様に、よく、打たれたり、していて……」
数分後。布団の中から「……おじさんも?」という、小さな声が聞こえてきた。カールはやっとの反応に嬉しくなり、頬を緩めた。
「そうだよ。痛くて、苦しくて、とてもつらかった。でも、誰も助けてくれなくて」
もそっ。布団に包まりながらちょっとだけ顔を出した少女が「ダリアも、いっしょ」と、呟いた。
ダリア。その名にぴくりとしたカールだったが、なんとか平静を装った。
「そっか。怖かったね」
「……うん。こわかった。あのね、ミア、ずるいんだよ。ずっとね、ねむっててね。ダリアばっかり、おそとにでててね」
──ああ。
カールが、強く、強く噛み締める。
あの医師の説明がなければ、自分はどんな反応をしていたのだろう。考えるだけで、ぞっとした。傷付いた姪を、さらに傷付けることになっていたかもしれない。
「……ひくっ……っ」
目の前で泣きじゃくる姪。抱き締めたい衝動に駆られるが、きっと、兄の面影がある自分では、怯えさせてしまうかもしれない。
なにもできないまま、時間だけが過ぎていく。そんな中、カールの双眸に、とある決意が宿った。
これは、ただの自己満足かもしれない。救えなかった。助けられなかった姪に対する、懺悔のような。
──それでも。せめて、これからできるとこを。
カールには妻のホリーがいたが、子どもはいなかった。子どもを望んでいなかったわけではなく、授かれずにいたのだ。そんなホリーに、カールはすべてを話したうえで、ミアを養子にしたいと言った。
それは、簡単に同意できることではなく。ホリーは結論を出すのに、ひと月を要した。悩んで。悩んで。それでも、子どもを望み、虐待を受けていたミアに心を痛めることができるホリーの承諾を得て、カールは、ミアを養子に迎え入れた。
そしてカールは、亡き兄に代わり、ジェンキンス伯爵家の当主となった。
ジェンキンス伯爵家の当主となり、領主となったカールは、忙しい毎日を送るなか、それでもミア──いや、ダリアに愛情を、言葉と態度で示し続けた。むろん、ホリーも一緒に。もしかしたらそれは、カール以上だったかもしれないが。
最初は怯え、泣いてばかりいたダリアも、少しずつ、少しずつ、笑顔を見せてくれるようになっていった。ほっとしつつ、でも、変わらずミアは眠ったままのようで。
ずっとこのままの可能性はある。医師は告げた。できることと言えば、変わらず、愛情を注ぐことだけ。
でも。
その日は、唐突に訪れた。
一人で眠るのが怖いというダリアを真ん中に、一つの大きな寝台で眠るのが日課となったカールとホリー。
窓から差し込む気持ちのよい朝日に目を覚ましたカールは、上半身を起こし、ぼーっとしているダリアに、おはよう、と寝ぼけまなこで笑いかけ、自身も身体を起こした。
「? どうした?」
ダリアの顔を覗き込む。ダリアは、夢見心地といった表情で、カールと視線を交差させた。
「……あの、ここはどこですか?」
カールが目を丸くする。ダリアは今まで、一度だって、丁寧語で話したことがなかったから。
脳裏を過った可能性に、カールは思わず、生唾を飲んだ。
「ここは、ジェンキンス伯爵家の屋敷だよ」
「……ミアの、おうち、ですか?」
「?! あ、ああ。そうだよ」
どくん。どくん。
カールの心臓が、早鐘を打ちはじめる。すると、ミアが「……あなたは、ミアのおとうさまですか?」と不思議そうに首を傾げた。
カールが瞠目する。いくら兄弟とはいえ、カールは兄と瓜二つ、というわけでは決してない。なのに。
(……いや。三歳の頃から表に出ていたのは、ダリアだ。そのあいだミアが、ダリアが言うように、ずっと眠っていたのだとしたら……)
ミアの中の記憶は、三歳で止まっている。それは、あまりに幼すぎる年齢だ。一、二歳の記憶など、少なくともカールは、ほとんどないと言っていい。
「──ミア」
いつの間に起きていたのか、ホリーが、ミアの名を呼んだ。ミアが、そちらに視線を移す。
「わたしが、わかる?」
ホリーが、優しく問いかける。ミアは少し迷ったあと「……おかあさま?」と答えた。
「……ええ、そうよ。愛しているわ、ミア」
ホリーが瞳を潤ませ、ミアを抱き締める。ミアは戸惑いながらも、嬉しそうに頬を緩めていた。
ダリアの記憶を、断片的にでも受け継いでいるのだろうか。頭ではなく、心で。そんな風に、カールは思った。
曖昧な記憶。想い出。それでもミアの中で、カールとホリーは本当の両親だという想いが、時間を重ねるごとに確かなものになっていく。
そしてミアたちは、本物の家族となっていった。