22
「きみは、どうして妹に来てほしくないの?」
腰を落とし、同じ目線になりながら、エディは男の子に話しかけた。男の子は、目をぱちくりさせていた。
「……ぼくのはなし、きいてくれるの?」
「聞くよ。だって、聞かないと、きみが妹に来てほしくない理由がわからないからね」
「……パパもママも、はなしきかずに、いつも、ぼくがわるいっていうよ」
「それはつらいね」
「……うん。きのぼりしたらあぶないってぼく、ちゃんといったのに、ぼくのまねして、いもうとはけがした。そしたら、すごくしかられた。ごはん、たべさせてもらえなかった」
ジェマが背後で、息を詰まらせるのがわかった。
「いまも、いっぱいおてつだいしてやっとかってもらえたおもちゃ、こわされたんだ。おこったら、こんどはぼくが、ママにしかられた。いっぱいたたかれて……いもうとは、それみて、ないた」
「──そっか」
エディは、五つか、六つぐらいの女の子に視線を移した。
「きみは、お兄ちゃんが好き?」
女の子が、こくんと頷く。
「でも、きみのせいで、お兄ちゃんはパパとママに怒られたんだよ? お兄ちゃんは、なにも悪くないのに」
女の子が傷付いた表情をしたのを見て、ジェマは、ちょっと、と声を挟んだ。
「こんな小さな子に、そんな言い方しなくたってっ」
「この男の子も、小さいよ」
「悪いのは、この子たちの親でしょう?!」
「そうだね。だからと言って、その女の子になにも責任がないわけじゃない。きちんと教えて、叱るべきときは叱らないと、ろくな大人にならないんじゃないかな」
「……冷たいわね」
二人の雰囲気を察したように、男の子が、あの、と声を挟んだ。
「もう、だいじょうぶ。おにいちゃん、はなしきいてくれてありがとう」
おいで。男の子が、女の子を呼んだ。女の子が、嬉しそうに男の子に駆け寄る。
「……いいの?」
静かに問うエディに、男の子は、うん、と答えた。
「いもうとのこと、きらいなわけじゃないんだ」
「……きみは、すごいな」
「すごい?」
「すごいよ。大人より、よほどえらい」
へへ。男の子が「ほめられたの、はじめてだ」と、小さく笑う。その様子を見ていた女の子は、おにいちゃん、と呼びかけた。
「あのね、これから、ちゃんとパパとママにいうね。おこられるのこわくて、ないちゃって、なにもいえなくて、ごめんね」
男の子は目を丸くしてから、うん、と表情を緩ませた。
「……かえろっか」
それから男の子と女の子は、手を繋いで、その場を後にした。
「──目を覚ましたとき、本当に、なにも覚えてなくて。自分のことも、わからなくて」
二人の兄妹の後ろ姿を見ながら、エディは口を開いた。
「時間が経つにつれ、徐々に、頭の中の霧が晴れていくように、まず、自分のことを思い出して」
「……! まさか、記憶が戻ったの?」
エディはジェマを振り返り、うん、と苦笑した。
「きっかけがコーリーなんて、なんの嫌がらせだって感じだったけど」
「……コーリー?」
「僕の──ずっと嫌いだった子」
「? どういうこと?」
首を捻るジェマに、エディが小さく笑う。
「きみと離れ離れになってから、僕も、いろいろあったんだ。さっきの女の子にきつくあたってしまったのは、完全に八つ当たりだった。きみにも不快な思いをさせたね。ごめん」
「い、いいわよ。別に、あなたの言ってたこと、完全に間違いってわけでもなかったし。それより、これまでのこと聞かせてよ。いろいろって、あの女ことでしょ? あんな人の婚約者だったなんて、そりゃあ、辛かったでしょうよ」
「……どういう意味?」
怪訝そうな表情のエディに、ジェマはため息をついた。
「その様子じゃ、あの女、あなたには本性を隠してたみたいね」
「ミアの本性……?」
「そう。未練がないように言うけど、あの女、記憶喪失になったあなたを、あっさり捨てたの。記憶を失ったエディは、わたしの婚約者に相応しくありません、ってさ。ああ、いま思い出してもムカムカしてくる」
「…………」
「実父に虐待されたとか言ってたけど、あれも嘘だったみたいよ。なにも言い返さなかったし。エディには痛い思いをさせちゃったけど、こうなってみて、良かったのかもしれないわね」
目を瞠ったまま、言葉を発さなくなったエディに、ジェマが優しく声をかける。
「大丈夫。あなたの面倒は、あたしが見るから。それにね。あなたさえよかったら、うちの店で働かない? こんなに格好良く育ったあんたなら、客が増えること間違いなしよ。だからなにも遠慮なんかすることないんだからね」
必死に励まそうとするジェマ。エディは、そっと目を伏せ、ありがとう、と呟いた。
「いいんだってば。ほら、あたしの住んでいる部屋に行きましょう。少し狭いけど、これから二人で頑張ってお金を稼いで、もっと広いところに引っ越しましょうね」
手を差し伸べるジェマ。エディは、ごめんね、と申し訳なさそうに謝罪した。
「気持ちは、本当に嬉しいよ。優しいきみだから、ミアもきっと、心にもないことを言って、僕と別れようとしたんだろうな」
「……馬鹿ね。まだあの女のこと、信じてるの?」
「ジェマはミアと会ったばかりだから、わからないのも無理はない。でも、僕にはわかる。何年も、ずっと一緒にいたからね」
「……信じたい気持ちはわかるわ。でも、事実から目を逸らしては駄目よ」
「少なくとも、ミアが実父から虐待されていたのは、本当だよ」
「それは、あなたにかまってもらいたくて、あの女がついた嘘よ」
──いまは通じないか。
エディは諦め、一歩、ジェマから距離をとった。
「ごめん。ミアのところに戻らないと。いまごろ、一人で泣いているだろうから」
返事を待たず、エディは、ミアの屋敷の方へと駆けだした。待って。背後から、ジェマが追ってくるのがわかる。でも、エディは足を止めるつもりはなかった。
「──エディ!」
名を呼ばれたのは、背後ではなく、前方からだった。止まりかけた馬車から、青い顔をしたミアが飛び出してきた。
「な、なにをしているのですか……怪我をしたばかりだというのに、そんなに走って……っ」
心配と怒りが入り交じった、震えた声色。
目覚めたばかりのミアの表情と、ジェマから聞いたミアの科白を思い出し、エディの中で、愛しさが膨れ上がっていく。
「……ミアっ」
愛しい者の名を呼びながら、エディはミアを抱き締めた。ミアの目が、驚愕に見開いていく。
「……記憶、が」
「戻ったよ。記憶って、些細なきっかけで戻ることもあるんだね」
「……あ」
身体中から力が抜け、膝から崩れ落ちそうになるミアを、エディが受け止める。その光景を目にしたジェマが、馬鹿、と叫んだ。
「エディ、騙されちゃ駄目! あんたもよ! エディを見捨てたくせに、記憶が戻ったと知ったとたん、ころっと態度を変えて、最低ね! 信じらんない!」
「──あなたがジェマさんね」
ミアが乗っていた馬車から、気品溢れる女性が、ゆるりと降りてきた。貴族のそれとわかる雰囲気に、ジェマが圧倒される。
「娘が、大変ご迷惑をおかけしました。きちんと説明させてもらいますので、ぜひ、お屋敷にいらしてくださいな」
「……つまり、相応しくないと思っていたのはミア様で、あたしと再会したときにエディが記憶喪失になったのは必然だと考え、あんな嘘をついたと」
二回目の訪問となるジェンキンス伯爵の屋敷の応接室で、ジェマは、腕を組んでいた。
「あたしにはその考えはよくわかりませんが……ですが、その、辛い目に遭っていたのは本当だったのですね。申し訳ありませんでした」
エディとジェンキンス伯爵夫人は口を挟まず、見守る中、ミアは、とんでもありません、と焦ったように口を開いた。
「わたしは嘘をつき、あなたを騙した卑怯者です。そしてあなたはただ、エディを必死に守ろうとしていただけ。謝るのは、わたしの方です」
ごめんなさい。
頭を下げるミアに、ジェマは苦笑した。
(こんなに腰の低い伯爵令嬢、はじめてだわ)
「ミア様。一つ、聞いてもいいでしょうか」
「はい」
「目の前に、幼い兄妹がいたとします。妹は泣きながら兄に近付こうとしているのに、兄は、くるな、と妹に怒鳴りつけます。あなたなら、なんて声をかけますか?」
唐突過ぎる問いに、それでもミアは戸惑いながら、必死に考える。
「……そう、ですね。まずは二人に、理由をたずねると思います。妹には、どうして泣いているのか。そして兄には、どうして妹にくるなと言ったのかを」
「それはなぜですか?」
「なぜ……?」
「どんな理由があっても、妹を泣かせる兄は、注意すべきだとは考えないのですか?」
「ですが、もし妹に非があった場合、兄を深く傷付けることになってしまいます」
「……まあ、そうですよね」
ジェマはちらっと、ミアの横に座るエディを見た。エディの表情は、少なくとも変わってはいないようだったけれど。
あーあ。
ジェマは、どかっと背もたれに体重を預けた。
「もう。あたし、まるっきり悪役じゃない」
「どうして? 僕を傷付けまいと、つかなくていい嘘をいくつもついてくれたよね。ありがとう」
エディの科白に、ジェマが苦笑する。嫌味ではなく、本心なのだろうが。
(……ミア様のことはともかく、あたしがエディの恋人だって嘘も、軽く流されちゃったな)
それとも、その嘘も、エディのためについたと思われているのだろうか。
確かに、理由の一つはそうだ。
でも。
(エディが記憶を取り戻さなかったら、あたしと結ばれる未来もあったのかしら)
もし、あそこであの幼い兄妹に出くわさなければ。違う未来が待っていたのだろうか。
考えてみるけど、そんな未来は、想像できなくて。あの兄妹への対応の違いのせいかは、わからないけど。
──どちらにせよ、エディは、ミア様と一緒の未来を歩んでいたような気がする。
それこそ、ミアのいう、必然のような。
並ぶ二人を見て、ジェマは、そう思った。
学園を卒業したミアとエディは、結婚し、ジェンキンス伯爵の領地にある屋敷で暮らしている。
ジェンキンス伯爵の仕事の手伝いをしながら、日々、領主として必要な知識を得ていくエディ。それは、いずれ伯爵夫人となるミアも同じで。
忙しくも、充実した毎日を送っていた。
「エディ。隣に座ってもいいですか?」
夫婦の寝室で、ミアがたずねてきた。今日は甘えたい気分なのかと、エディは、いいよ、と答えた。
寝台に座るエディの横に腰を落としたミアは、エディの肩に、こてんと頭を乗せてきた。頭を撫でると、ミアは満足そうに、ふふ、と笑った。
まるでダリアみたいだ。と、エディが思ったことは、今回がはじめてではない。
もう何年も、ダリアとも、ルシンダとも、会っていない。ミアも、いつの頃からか、会話ができなくなったと言っていた。けれど思い返せば、その頃から、ミアにダリアとルシンダを感じることが、増えたような気がしていた。
例えば、ミアはそこまでりんごが好きなわけではなかったはずなのに、最近では、一番好きな果物になっている。甘えるのも、以前よりうまくなったような気がするし、かと思えば、驚くほど大人びて見えることもあって。
ダリアもルシンダも、ミアの一部になったのだろうか。
そんな風に考えるが、医者も、はっきりしたことはわからないそうで。
「ね、エディ」
ミアが、甘えたような声でエディを呼んだ。エディが「なに?」と、優しく答える。
「あたしのこと、好きですか?」
「もちろん、好きだよ」
「一番、好きですか?」
「…………」
「エディ?」
「ああ、いや。前にも、似たやり取りをしたような気がして」
「そうでしたか?」
「多分、きっとね」
不思議そうに首を傾げるミアに、ふふ、とエディが笑う。
「僕が一番好きなのは、きみだよ」
エディとミアの唇が触れ合う。
ダリアはもう、出てこない。ルシンダも。
少し寂しい気もしたが、ジェンキンス伯爵夫妻と、ミア。そしてエディは、生涯忘れることはないだろう。
──ダリア、ルシンダ。ミアと同じぐらい、僕は、二人のことを愛し続けるよ。
心の中で呟かれた言葉は、誰に届くことなく、エディの中で溶けていった。
─おわり─




