21
大切な幼なじみに会えたその日に、エディは記憶を失った。はたしてこれは、偶然なのだろうか。
もし、必然なのだとしたら。
医者と話していた個室から、エディがいる病室へと戻る途中、ミアの頭は、その考えがぐるぐると回っていた。
『エディの幸せを願うなら、そうね』
響いたのは、ルシンダの声。
『ダリアは、やっぱりエディといっしょがいい』
──でもそれは、わたしたちの幸せだから。
(ごめんね、ダリア。ルシンダ)
「ジェマさん」
先を歩いていたジェマが、ゆっくりと振り返る。その双眸はまだ、涙で濡れていた。
「あなたは、エディを幸せにできますか?」
ジェマは少し首をかしげたあと、はっとしたように目を吊り上げた。
「……まさか。記憶を失くしたエディを、捨てるつもりですか?」
そんな考えなど微塵もなかったミアは内心驚いていたが、そうか、この問いはそうとれるのかと、頭の隅でぼんやりと思いながら、続けた。
「そうです。貴族にとって、幼い頃から身に付けた教養は必須。ましてわたしの夫となる人は、いずれ、伯爵の爵位を継ぐ身。ですから、すべてを忘れたエディに、わたしの婚約者は相応しくありません」
口をついて出る科白に、ミア自身が驚いていたが、それは綺麗に隠した。
「……さいってい」
唾棄せんばかりに吐き捨てられた言葉に、むしろ、安堵を覚える。
「その通りです。それで、ジェマさん。あなたは、エディを幸せにすることができますか?」
「身を挺して助けてくれた恋人を理不尽に捨てるくせに、なんの心配? 反吐が出るわ」
「……はい」
「なにがはいよ。実父に虐待されていたっていうのも、嘘じゃないの? 儚いレディ気取り? それでエディにかまってもらっての? だから甘やかされて育った貴族のお嬢様は嫌いなのよ」
怒りと苛つきのため、ジェマが右足のつま先で床にトントンと音を立てる。
「うちにはエディを養うだけのお金があります。貴族令嬢のあなたには到底かないませんけどね。それに、元気になれば、うちのお店で働いてもらえばいいし。職にも困らないでしょう。記憶喪失でも、あたしはエディを見捨てたりしませんので、どうぞ、ご心配なく」
「……あなたは、エディを愛していますか?」
頭で考えるより先に口をついて出た言葉に、ジェマは怒りで顔を真っ赤にした。
「あなたなんかよりは、ずっとね!!」
吐き捨て、ジェマは一人、エディの病室へと戻って行った。
それからミアは病院の受け付けへと向かい、エディへの請求はすべてここにお願いしますと、現在住んでいる屋敷の住所を渡した。
(わたしのお金じゃないのに、勝手なことしてしまったな)
でも、お父様ならきっと許してくれる。そんな甘えからの、勝手な行動。
「……甘やかされて育ったお嬢様、か」
馬車に揺られながら、一人きりの空間で、ミアはその通りねと、ぽつり、呟いた。
屋敷の前に、一台の馬車が止まっていた。見覚えのあるその馬車に、扉から見えるその姿に、ミアの心が揺れる。まだ走行中の馬車の扉を開け「──お母様!」と叫んだ。
馭者が気付き、慌てて馬を止める。ミアが馬車から降り、駆け出す。
ジェンキンス伯爵夫人も同じく、ミアに気付き、馬車から降りてきた。胸に飛び込んできた娘を優しく受け止める。
「駆けつけるのが遅くなってごめんなさい。コーリーに襲われたと手紙にはあったけど、大丈夫なの?」
「……はい、はい」
「本当? 顔をよく見せて?」
鼻を鳴らし、顔を上げる。ジェンキンス伯爵夫人は、そっとミアの頬を撫でた。
「顔色が悪いわ。そう言えば、エディはどうしたの? 一緒ではないの?」
ぴくん。肩を揺らしたミアは、数秒後、こう答えた。
「……お別れ、してきました」
「──そう。そんなことがあったのね」
「……はい」
応接室にて。ここ数日間で起こった出来事をすべて語り終えたミアの目は、腫れていた。隣に座るジェンキンス伯爵夫人が、ミアの手にそっと触れる。
「でもね、ミア。幸せって、人それぞれなのよ。なのに、エディの幸せを、あなたが勝手に決めていいの?」
「……わたしと一緒にいては、幸せになれません」
「決めつけては駄目。エディが記憶を失くしているのなら、なおさらよ」
「……いいえ。記憶を失くしたいまだからこそ、エディは、自分の幸せだけを考えられるようになったのだと思います」
幼い頃の辛い記憶が蘇ったから、複数の人格があると自覚してしまったからこその、考え。想い。
それはきっと、簡単には変えられないだろう。
それでもジェンキンス伯爵夫人は、願ってしまうのだ。
「お母様と一緒にもう一度、エディに会いに行きましょう。ね?」
「……ジェマさんが、許してくれません」
「でも、エディが記憶を取り戻していたら?」
「それは……」
「わかっているのでしょう? もしそうなら、きっとエディは、あなたといることを望んでくれるわ」
「……エディと別れたくないと思うのは、わたしのわがままです」
ぽろぽろと涙を流し、小さく本音を吐露する娘を、ジェンキンス伯爵夫人は優しく抱き締めた。
「わたしの可愛い子。お願いだから、エディがあなたと別れたいと望まないかぎりは、幸せになることを諦めたりしないで。今回のことは、ただの事故よ。必然なんかじゃないわ」
(……温かい。お母様の匂いだ)
本当の子どもじゃなかったのに。たくさんの愛情を注いでくれた。それだけで充分なはずなのに、心はどこまでも貪欲に、エディを求める。哀しくて、哀しくて、胸が痛む。自分が望んだことのはずなのに。
『ミア』
あの大好きな声で、もう一度、名前を呼んでほしい。記憶を取り戻して、ここに帰ってきてほしい。
──神様。わたしは、どこまでも身勝手なようです。
瞼の裏に、エディの笑顔が過った。
「なによ、あの女! 最低!」
ぶつぶつとぼやきながら病室に入ると、寝台の上に上半身を起こしたエディがいた。ジェマに気付き、そちらに顔を向ける。
「エディ。具合はどう?」
怒りなど忘れ、エディの傍に駆け寄るジェマ。エディは、大丈夫です、と答えた。
「それより、その、僕とあなたの関係は、なんなのでしょう。家族ですか? それとも」
「それは……えーっと」
「そういえば、もう一人の女の人は? あの人は」
ジェマはぴくりと片眉を上げてから、腰を屈め、エディの手を握った。
「あの子が階段から落ちたとき、たまたま真下にいたあなたが受け止めたの。かなりの衝撃だったから、耐えきれず、そのまま倒れ、頭を打った。大まかな経緯はこうよ。そしてあの子は、ただの通りすがりの人。あなたの怪我が大したことないと聞いて、帰ってしまったけど」
「……そうだったんですね」
「うん。そしてあたしは、あなたの家族じゃなくて──恋人よ」
ジェマは両手で、エディの手を包み込み、真剣な表情で告げた。ジェマは内心、緊張していたが、エディは目を丸くしながらも、そうですか、とそれを受け入れた。
「……すみません、なにも思い出せなくて」
ジェマはそっと胸をなで下ろし、頬を緩めた。
「いいのよ。それより、その丁寧な言葉遣いは、止めてほしいかな」
「そう、だね。気をつけるよ」
「ふふ。大丈夫。自然でいいのよ。いま誰より不安なのは、あなたなんだから」
エディが「ありがとう」と微笑む。ジェマは、鼓動が早くなっていくのを感じた。
「あ、あのね。このあとお医者さんに診察してもらって、異常がないなら、帰っていいんだって」
「……帰る。そういえば、僕の家族は」
「……エディの両親は、もう亡くなっている、んだけど」
実父の兄に引き取られたあとのことは、知らない。けれど、エディが入院しても誰も病院に来なかったこと。あの女が、無責任にエディを見捨て、さっさと去って行ったことを考えると──。
(でも。あの女は伯爵令嬢で、エディはその婚約者なわけで。貴族の子息かって聞いたら、そうだって……いや、でも。はっきりとそう言っていたわけじゃなかったかも)
ぐるぐる悩んでいると、エディが、そう、と目を伏せた。それはそうだろう。家族がいないという事実に、ショックを受けない人間などそうはいない。
(──もういい。あたしは、エディのことだけを考える。貴族様の事情なんて、知ったことではないわ。もう絶対、エディを返してなんかあげないんだから)
弟のように、大切に想っていた。ずっと忘れられなかった。でも、大人の男になったエディと再会して、ジェマはきっと、一目惚れに近い感情を抱いた。でも、婚約者がいるから。気付かないふりをしていた。
なのに。
(……エディが記憶喪失になったのは、あたしのせいでもある。でも、そんなエディを捨てたのは、あなたよ)
「あたしは、あなたの婚約者。いずれ、結婚して家族になるの。だからあなたは、一人じゃないわ」
そう告げると、エディは、安心したように小さく笑った。その姿に、ジェマは確信した。
(これでよかったのかも。あんな女と結婚して、エディが幸せになれるはずないもの)
それから医師の診察を受けたエディは、その後、ジェマと共に、病院を後にした。
「大丈夫? 歩ける?」
心配そうに声をかけてくれるジェマに、大丈夫だよと笑いかけながら、エディが歩く。ジェマの腕が、支えるように右腕にある。
「ジェマは随分、心配性だね」
「記憶喪失になった恋人を心配しない人なんていないわよ」
「それもそうか」
歩きながら、エディが街並みをゆるりと見渡す。それを、ジェマがじっと見詰める。
「……なにか思い出しそう?」
「いや。残念ながら、なにも。ごめんね」
「いいの。無理して思い出さなくても。これからたくさん、新しい思い出を作っていけばいいんだから」
「ありがとう」
「お礼なんていらないわ。あたしは、ただ、あなたが傍にいてくれればそれでいいの」
「熱烈だ──とっ」
歩道を歩いていると、店と店のあいだにある小さな隙間から、男の子が飛び出してきた。ぶつかる寸前、エディとジェマが止まる。同時に、男の子も驚いたように動きを止めた。
「──おにいちゃぁん……っ」
ふいに響いた声に、エディはびくりと身体を揺らした。それはエディの腕を掴んでいたジェマにもわかるほどのもので。
「ど、どうしたの?」
「……え? いや、わからない……でも、なにか」
エディが左手で、頭を抱える。心配そうに覗き込むジェマ。すると男の子が、くるなと、たったいま通ってきたところに向かって叫んだ。
そこから、女の子が出てきた。涙目で、おにいちゃん、おにいちゃん、と男の子に近付くが、男の子はもう一度、くるな、と叫んだ。
ジェマは男の子と女の子を交互に見ると、男の子に向かって、こら、と腰に手を当てた。
「ちょっと、きみ。その子、きみの妹なんでしょ? 来るな、なんて酷すぎるよ。泣いちゃってるじゃない。お兄ちゃん失格よ」
「……っ」
男の子が、大きく顔を歪ませた。そんな顔をしても駄目よ、とジェマが叱りつける。その光景に、エディの心が急激に冷えていく。
「……どうして、その子が悪いと決めつけるんだ?」
低い声音に、ジェマは驚いたようだった。
「だ、だって。この状況を見れば、わかるでしょう? お兄ちゃんが、妹を泣かせているんだよ? どんな理由があっても、それは悪いことでしょう?」
「その理由が、なにより大事なんじゃないのか?」
「な、なんであたしが責められるの? あたし、そんなに悪いことした?」
じわっと涙を浮かべるジェマに、エディは、ごめん、と謝罪したものの、心はモヤモヤしたままだった。




