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「──よお、随分と楽しそうだな」
低音の、ドスのきいた声がふいに響いた。その声の主に目を向ける。そこには、若い男性が立っていた。ジェマの雰囲気が、ぴりつくのがわかった。
「おれを解雇しておいて、よく笑えるな。おかげでおれは、明日食う飯にも困るしまつだ」
「お客様への暴言。従業員への嫌がらせ。解雇の理由としては、充分だわ」
「悪いのはおれじゃない。あいつらだ」
「……面接のときに、あなたの本性を見抜けなかったわたしの失態だわ。そこは反省している」
ふん。男性は、くるりと踵を返したかと思うと、ジェマをじとっと見詰めた。
「……この礼はいつか、倍にして返してやる。覚えておけ」
言い捨て、男は去って行った。ジェマの顔色は、明らかに悪くなっていた。心配になったエディが声をかける。
「……あれは、脅迫だよね。警察に相談する?」
ジェマは、弱々しく首を左右にふった。
「似たようなことは、もう何度も言われているわ。一度だけ警察に相談してみたけど、無駄だった。だって、なにもされてないんだもん。きっとああやって、あたしを精神的に追い詰める作戦なんだわ」
「……でも、いつ、なにをしてくるかわからないよね」
「そうね。住んでいる場所もばれているし」
「家も知られているのか……」
「まあね。おかげで気が休まる暇がなくて」
つとめて明るい口調ではあるが、無理をしているのは、誰の目にも明らかだった。
「あの、もしよければ、わたしのうちに来ませんか?」
ミアの提案に、ジェマが、でも、と目を伏せた。
「あの男、いつ襲ってくるとも限らないし、後を付けられている可能性もあるから……あなたに迷惑をかけるかも」
「大丈夫です。お父様が、何人も護衛の人をつけてくれていますから」
「……護衛?」
キョトンとするジェマは、このあと、ミアが伯爵令嬢であることをエディから聞かされることになる。
ジェマは紅茶を一口飲むと、カップをテーブルに置き、ほうっと屋敷の応接室を見渡した。
「……こんなに立派なお屋敷に入るの、はじめて」
呟くと、ようやく落ち着いたのか、姿勢を正し、目の前に座るミアに向かって頭を下げた。
「ミア様。これまでの無礼、お許しください」
「や、やめてください。立派なのはお父様たちであって、わたしではありません。それに、わたしなどよりよほど、ジェマさんの方がすごいです」
ジェマは「お優しい方ですね」と面を上げ、ミアからエディに視線を移した。
「伯爵令嬢の婚約者ってことは、あなたも、貴族の子息なの?」
「まあ……そんなとこ、かな」
「歯切れが悪いわね。別に、隠すことないじゃない。でも、そっか。随分、遠くに行ってしまったのね」
「そんなことないよ」
「あるわ。ミア様もだけど、あなたも、ちょっとした仕草やアクセントが、庶民のあたしとは違うもの」
はあ。大きく息を吐くと、ジェマは天井を仰いだ。
「……いいなあ。あたしの欲しいもの、ぜんぶ持ってる。きっと、苦労なんて知らずに生きてきたんだろうなぁ。怖い目にだって、一つもあったことなくてさあ」
独り言のように小さく呟いたあと、はっとしたように、ジェマはミアに謝罪した。
「す、すみません。あの男に会ってしまったせいで、つい弱音を……っ」
「……いえ。それに、本当のことだと思いますので」
欲しいもの、の中にはきっと、エディが入っているのだろう。確信に近いものを感じ取ったミアは、怒りなど、一つも湧いてこなかった。
──でも。
「貴族の子どもだからって、なにも苦労してないわけじゃない。怖い目にあっている人もたくさんいるよ」
エディは、そうではなかったようだ。穏やかな口調はそのままに、けれど、少しの責めのようなものも混じっていて。
ジェマは、ショックを受けたように瞳を潤ませた。
「──なによ! あたし、王都には一人で来たから、親も友人もいなくて、すごく不安で、しかも変な男に恨まれて、いつなにをされるかって……なのにっ」
すくっ。ジェマは、勢いよく立ち上がった。
「いつでも何処でも傍にいて、守ってくれる人が、あたしには一人もいないの! でも、ミア様にはあなたがいる! 護衛の人も、使用人の人たちもたくさん! 誰がどう見たって、可哀想なのはあたしでしょう? 少しは優しくしてくれたっていいじゃない!」
「……あの男のことについては、僕も、できる範囲で協力する。でも、ミアのこと、そんな風に言わないでほしい」
「もういいわよ!」
ジェマは泣き叫ぶと、応接室を出て行った。
「……エディは、ここにいてください」
「ミア、もういい。ジェマに護衛をつけてくれるつもりなんだろう? それで充分だ」
追いかけようとするミアの腕を掴み、エディが止める。でも、ミアは。
「あなたが大切な幼なじみに誤解されたままなんて、わたしが嫌です!」
珍しく声を荒げるミアに、エディが折れた。わかったよ、と腕を離す。
「ありがとう、ミア」
「はい。なんとか説得してきます」
ミアが急いで応接室を出ると、ジェマが、玄関扉を開けようとしていた。ミアが慌てて駆け寄る。
「ジェマさん! 待ってください!」
無視し、ジェマが扉を開けようとする。けれど、鍵がかかっていて、開けられない。どこで解錠すればいいかわからずもたついていると、ジェマと扉の隙間に、ミアが入ってきた。
「退いて!」
「退きません。話を聞いてください」
「……庶民のあたしは、伯爵令嬢のあなたに逆らえないと知ってやっているんでしょう?!」
「そんなこと思っていません!」
ジェマはミアを睨み付けると、玄関扉の正面にある階段を駆け上りはじめた。ミアが追いかけ、ジェマの腕をなんとか掴む。
「離して!」
「離しません!」
「なにもかも恵まれているあんたに、あたしの気持ちなんてわからないわよ!」
「……エディがあんなことを言ったのは、わたしが実父に虐待されていたからなんです!」
ふっ。
ジェマの力が、一瞬で抜けた。ジェマを引き留めるため、力一杯腕を掴んでいたミアは、反対に向かう力がなくなったため、身体が、後ろにぐらついた。
「……っ!!」
ジェマの双眸が見開かれる。その光景をスローモーションのように見ながら、ミアは、落ちる、と確信した。
「──ミア!!」
エディの声が、背後から響いた。
転げ落ちるではなく、そのまま一階の床に仰向けで落ちたミア。それを、エディが全身で受け止める。重量もあって、支えきれなかったエディが、ミアを抱えたまま、床に倒れた。
頭が床を打ち、一度、バウンドした。
「……あ、あ……」
腰が抜けたジェマが、階段の途中で真っ青な顔をしながら震える。一方のミアは、なにが起きたのか、理解するのに数十秒を要した。
音に駆けつけたベンが、早く医者を、と叫ぶ。エディは目を閉じたまま、苦しそうに呻いている。ミアの呼びかけに答えない。
──ミアの頭は、真っ白になった。
病院に運ばれたエディは、命に別状はなかったものの、すぐには目を覚まさず。ミアは生きた心地がしなかった。
「……ごめんなさい、ごめんなさい。あたしのせいです」
謝罪を繰り返すジェマを責めることは、ミアにはできなかった。あれは事故だったし、それに。
「……いいえ。これは、わたしのせいでもありますから」
慰めでもなく、これは本心だった。あのとき、こうしていれば。あんなこと、しなければ。誰もがこうやって、後悔するのだろうか。沈みそうになる心で、考える。
──それから、五時間後。
目を覚ましたエディは、記憶をすべて失っていた。自分のことすら、覚えてはいなかった。
「……誰?」
病室にいたミアとジェマをぼんやりと視界に入れたエディの最初の一言は、それだった。医者は一時的なものかもしれませんと告げたが、朝になっても、エディの記憶が戻ることはなく。
「いつ記憶が戻るのか。それとも一生戻らないのか。それは誰にもわかりません」
告げられた言葉に、愕然とした。
ミアの隣で医者の話を聞いていたジェマが、わあっと声を上げて泣きはじめた。ミアはそれを、赤くなった双眸で、ぼうっと見詰めていた。




