18
ダリアの機嫌は、最悪だった。
「エディのばかばか! やっぱりエディは、ダリアより、ミアのほうがだいじなんだ!」
「そんなことないよ……でも、ごめんね」
「あるもん!」
ミアに昔の辛い記憶を思い出させたくなくて、咄嗟に、口付けをした。ダリアと入れ替わることを知っていて。ダリアにしてみれば、その記憶があるにしろ、ないにしろ。わたしならいいのかと、ミアの方が大事なのかと、怒りと哀しみがない交ぜになった気分なのだろう。
それは、エディも充分に理解していた。
「……ごめん、ダリア。ごめんね」
怒りながらもエディから離れようとしないダリアを抱き締め、エディが繰り返し、謝罪する。ダリアは、すんと鼻をすすった。
「ダリアがぜんぶ、あじわったんだもん。つらいのも、いたいのも、くるしいのも」
「……うん」
「ミアはダリアに、ぜんぶ、おしつけたんだもん!」
「……うん」
「もっとなでて!」
それからあれこれ要求したあと、ダリアは、甘い物が食べたい、と言い始めた。
「じゃあ、食堂に行って、なにか作ってもらおうか」
「だっこしたままだよ」
「いいよ。僕のお姫様」
エディはダリアをお姫様抱っこしたまま階段をおり、食堂に向かった。待っていたように、執事のベンが、椅子を引いた。
「ベン。あまいもの、たべたい」
エディに抱っこされながらダリアが言うと、ベンは、かしこまりました、と笑った。
「林檎のパイをご用意していますが、いかがでしょうか?」
ダリアの顔が、ぱっと華やいだ。
「りんご、すき!」
「ふふ、存じていますよ」
「ダリアのためによういしてくれたの?」
「そうですよ。ダリアお嬢様」
わーい。ダリアが喜ぶ。望むまま、運ばれてきたパイを、エディがダリアの口に運ぶ。ダリアの機嫌がよくなっていくのを感じ、エディは、心からほっとしていた。
ダリアもルシンダも、ミアと同じぐらい、愛していたから。
お腹が満たされ、満足したのか。ダリアはエディの腕の中で、穏やかな眠りについた。
「……助かったよ、ベン。でも、よくダリアの好物を用意してくれていたね」
「ダリアお嬢様の泣き声が一階にまで響いてきていましたから。シェフに頼んでいて、正解でした」
ありがとう、と礼を述べるエディに、ベンは、とんでもないです、と眠るダリアに目を向けた。
「……なにか、大変なことがあったのでしょう? 屋敷に戻られたときのミアお嬢様の様子は、普通ではありませんでしたから」
「……ああ」
屋敷に戻ったとき。出迎えてくれたベンに、あとで話すよとだけ告げ、ミアの部屋にこもった。だからベンは、まだ、なにも知らない状況だった。
「──実は、学園で」
重い口調で話すエディ。ベンは僅かに肩を震わせたものの、エディがすべて語り終えるまで、静かに耳を傾けていた。
「……僕の油断が招いた結果だ。すまない」
「なにを謝ることがありましょう、エディ様。そのような怖ろしいこと、誰にも予測できたはずありません」
「……そう、だな。まさか、あそこまで人の道を外れた行いをするとは、思っていなかった」
「……エディ様」
神はどうして、このような善人の子どもに、試練ばかり与えるのか。ベンは知らず、怒りから、拳を強く握りしめていた。
「……ん」
目をうっすらと開けたダリアに、エディとベンが視線を向ける。ダリアは──いや、ミアはあたりをきょろきょろ見渡すと、すぐ近くにあるエディの顔を見上げた。
「……あれ。わたし、いつの間に食堂に……」
エディが少し困ったように苦笑したことで、ミアはぼんやり察した。
(……そっか。また、わたしではない、別の人格が)
思考が動きはじめたとき、なぜか、ミアの全身を痛みと恐怖が襲った。
「……あ、ああああああっっ」
「ミア!」
「ミアお嬢様!」
パニックの状態は、しばらく続いた。次の日も。次の日も。そのあいだもエディは、ずっとミアに寄り添っていた。
かなりのストレスだろうに、どうしてか、ダリアも、ルシンダも表には現れなかった。
ミアが、必死に過去の記憶と向き合おうとしている──ように、エディには見えていた。
それがいいことなのか。悪いことなのか。エディにはわからなかった。
ただ、傍にいることしか、できなかった。
なにも、見えない。でも、光は感じる。そんな感覚の中、声が響いてきた。
「ミアばっかエディをひとりじめして、ずるい!」
「そんなこと言わないの、ダリア。ミアも必死なのだから」
「だってぇ……ルシンダは、エディにだっこしてもらいたくないの? キスは?」
「ふふ、そうねぇ」
(聞いたことのある、名前……)
「……ダリア? ルシンダ?」
気付いたときには、名を呼んでいた。
「え? ミア、ダリアたちのこえ、きこえるの?」
「聞こ、える。あなたたちが、わたしの、別人格の子たち……?」
落ち着いた声が、そうよ、と答える。この人がルシンダ、とミアが耳で認識する。
「あの、ここはどこ? どうしてなにも見えないの?」
「──ここは、あたまのなかだよ」
朝の光に目を覚ましたエディは、隣で眠っていたミアが、寝台の上で上半身を起こしているのに気付き、おはよう、と声をかけた。
振り向いて小さく微笑む彼女に、昨日までとは違う印象を抱いたエディは、ルシンダかな、と胸中で呟き、自身も身体を起こした。
「エディ。わたし、ダリアとルシンダと、はじめてお話したんです」
でも、違った。目の前にいるのは、ミアだった。「話?」と、繰り返すエディに、ミアは、はい、と答えた。
「それは、えと、きみの中で話したってこと?」
「エディは、わたしよりもずっと、わたしたちのこと、知ってくれているんですね」
嬉しそうに、ミアが頬を緩める。
「ダリアは、頭の中だと表現していました」
「……なるほど」
ダリアとルシンダと話したことで、落ち着いたのだろうか。そんな風に考えたとき、ミアが、少し待ってください、と沈黙した後、あの、と口を開いた。
「ダリアが、エディに甘えたいと言っているのですが……」
「それはもちろんかまわないけど。すごいな。こうして意識があるときでも、会話ができるようになったんだね」
ミアは一つ笑うと、目を閉じた。
──数秒後。
瞼を開けた彼女は、子どもっぽく、笑顔全開でエディに飛びついてきた。
「──エディ!」
「ダリア。数日ぶりだね」
「あいたかった。あいたかったよお!」
「僕もだよ」
抱き締めたダリアは、目に涙を浮かべていた。
「ミアはかって! わがまま!」
ダリアが叫ぶのを、エディが宥める。けれど、ダリアがそう喚く本当の理由をエディが知るのは、もう少しあとのことになる。
まる一日。存分にエディに甘えたダリアは満足し、眠りについた。
ルソー伯爵家から除籍されたエディは、ミアが住む屋敷に一緒に暮らすようになったが、当然のように、部屋は別々だった。でも、ミアがコーリーに襲われたあの日から、エディはミアの部屋で、一緒に眠るようになった。
今夜もエディは、ダリアと一緒に眠った。
朝になると、表には、ルシンダが出ていた。久しぶりだね、と声をかけると、ルシンダは、愛おしそうに目を細めた。
「そうね。今日は、わたしに付き合ってくれる?」
「喜んで。街に出掛けるかい?」
「いいえ。わたしも、ダリアみたいにあなたに甘えてみたいの」
「それは光栄だ。前は、僕が甘えてしまったから」
「あら。あれはわたしの特権だから、特別感があって、すごくよかったわ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。でも、今日は甘えたい気分なんだね」
「そうよ。口付けだって、してもらうわ」
エディは「口付けで、ダリアが出てくることはもうないの?」と首を捻ると、ルシンダは、多分ね、と笑った。
「してみないとわからないから、口付けは、夜までとっておくわ」
そして。
空が青から黒に染まったころ。二人は口付けをかわした。
けれど、ダリアは出てこなかった。
「これで、ミアとも口付けができるわね」
ルシンダの科白に、エディは「そうだね」と照れくさそうに微笑んでみせた。
次の日。
眩しい光が窓から入ってくる部屋の中。
エディは、はじめて、ミアと口付けをした。
そっと触れるだけのものだったが、ミアは唇が離れたあと、かあっと顔を赤くした。俯き「て、照れますね」と小さな声で呟いた。
「可愛い」
思わず吐露すると、ミアは、う、と声を詰まらせた。
「わ、わたしはエディと違って、はじめてでしたから!」
「なんか、語弊があるなあ。間違ってはないけど」
ふふ。笑うエディに、ミアは、そっと抱き付いてきた。エディが、受け止めるようにミアの背中に腕をまわす。
「エディ。ダリアとルシンダに代わって、お礼を言います。二人に、まる一日付き合ってくださって、ありがとうございました」
「ん? 僕も楽しかったから、お礼はいいよ」
「……本当に、エディは優しいですね」
「そうかな」
「そうですよ。そんなあなたに、わたしは、とてもじゃないですが、相応しくはありません」




