17
「ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう」
学園の廊下ですれ違いざま、コーリーが、ミアに微笑みかけてきた。驚きながら、なんとかミアも、それに答える。
去っていくコーリーの背中を見詰める、ミア。隣に立つドリスが、同じように、コーリーの背に視線を向ける。
「このまま休学するかと思ったら、急に登校してきて、びっくりね」
「……ええ。しかも、笑顔であいさつされるなんて、思わなかったわ」
「それにしても、いつもエディ様にひっついていたから気にしなかったけれど、あの子、友だちいるのかしら」
問われたミアは、そういえば、と首を傾げた。
「他の人と一緒にいるところ、見たことなかったな」
「あんな様子じゃあねぇ。近寄りたくもなくなるわよ」
その通りだと思いつつ、ミアは苦笑するに留めた。
「エディへの執着、すごかったもの。とりあえず、わたしもエディも、極力、コーリーには近付かないようにするわ」
「たったいま、すれ違ったばかりだけどね」
「不可抗力。それに、ドリスが隣にいてくれたもの」
「そうね。一人には、ならないようにね」
「心配かけて、ごめんね」
「そうねえ。エディ様とのこと、あれだけ悩んでいたのに。いまでは仲睦まじすぎて、こっちが照れてしまうぐらいだし」
「そ、そんなことないわよ」
「ま、どちらかというと、あの妹が来る前に戻ったって感じかしら。違いは、口付けができたってこと?」
からかうように、ドリスが口角を上げる。実のところ、まだ、口付けはしていない。というか、記憶がない。なので、まだ実感はないのだが、ドリスには、そう報告していた。少しでもエディに悪い印象を与えることが、嫌だったから。
なら最初なら相談しなければよかったといまでは思うが、真実を知る前は、どうしても誰かに聞いてもらいたかったのだ。少しでも、不安を吐き出したくて。
──真実、か。
信じていないわけではない。けれど、やはりどこか見知らぬ人の話のようで。現実感が持てずにいる。
カーンコーン。カーンコーン。
そうこうしているうちに予鈴の鐘が鳴り、ミアはドリスと共に、急ぎ足で音楽室へと向かった。
授業終了の鐘が鳴り、各教室から、生徒たちが出てきた。昼休みのため、食堂や、中庭などに向かう。
ミアも、ドリスと共に音楽室を出てきた。そのタイミングを見計らっていたように、背後から、声をかけられた。
「──ミア様」
落ち着いた声音だったのに、ミアは一瞬、背筋がぞくりとした。振り返れば、そこには、予想通りの人物が立っていた。
「ミア様。少し、お時間よろしいでしょうか」
「……なんでしょう」
「二人で、お話しがしたいのです」
ミアは、ごめんなさい、と掠れた声で謝罪した。
「あなたと二人にはなれないし、お話することもありません。行きましょう、ドリス」
「ええ」
コーリーに、背を向ける。まわりには、まだミアのクラスメイトの生徒たちがたくさんいた。だから、油断していた。
コーリーは残念ですと呟き、懐からナイフを取り出し、ケースを外した。その様子を見ていた生徒が、目を瞠る。コーリーが迷うことなくミアに向かってナイフを振り上げたところで、女子生徒が、小さく悲鳴を上げた。コーリーを指差しながら。
気付いたミアが、後ろを振り向いた。コーリーは無表情だったが、その濁った瞳には、確かな殺意が宿っていた。
──避ければ、もっと酷い目に遭う。
脳裏に浮かんだその考えと同時に、男性の姿がコーリーに重なった。とたん、ミアは金縛りにあったように動けなくなってしまった。
「──ミア!!」
ドリスがミアの腕を掴み、後ろに引っ張った。ふわっと浮かんだミアの前髪が、コーリーの振り下ろされたナイフを掠めた。
よほど勢いがついていたのか。コーリーはよろけ、転んだ。拍子に、ナイフが手からすり抜ける。
近くにいた男子生徒が、慌ててナイフを足で押さえた。騎士を目指す生徒が、うつ伏せたまま、コーリーの腕を後ろ手で掴む。
コーリーが暴れ、ミアに向かって、獣のように唸る。吼える。けれどミアは、コーリーではないなにかを見ているように、焦点が合っていなかった。血の気の引いた顔で、小刻みに震えだしたミアを見て、ドリスは叫んだ。
「……誰か! お願い、エディ様を連れて来て!!」
王宮内にある執務室でその一報が入ったのは、午後二時が過ぎたころだった。
「…………は?」
「ですから、その……コーリー様が、ミア・ジェンキンス様への殺害未遂罪で、警察に逮捕されたと連絡がきまして」
文官から吐き出される言葉の意味が理解できなくて、ルソー伯爵がぽかんと口を開ける。
「なにを言っている……あの子がそんな怖ろしいことをするはずがない」
「多数の生徒がいる前での犯行だったそうで、目撃者は多数……もちろん、どなたも貴族のご子息、ご令嬢ばかりです」
「はは、そんな馬鹿な」
カラカラと笑うルソー伯爵。文官は、意を決したように、姿勢を正した。
「ともかく、警察署へ来るようにとのことなので。お早く、ご準備を」
ルソー伯爵は、ぴたっと笑いを止めた。文官はまだなにかを言っていたが、その声が、遠のいていく。
なぜ、こうなった。
幸せなはずだったのに。
息子がいなくなった。妻も去った。それでも、コーリーがいてくれればと。
(……私はそもそも、どうしてこんなにコーリーを愛するようになったのだっけ)
両親にも誰にも愛されなかった。弟ばかりが愛されて。妻も、弟の方がよかったと陰で愚痴をこぼしていたのを聞いた。
最初に生まれた息子は、自分に似ていた。嫌いな顔。好きになれなかった。愛せなかった。
でも、コーリーは違った。顔だけは好みの妻の容姿に似ていて。甘やかせば甘やかすほど、懐いてくれた。愛してくれた。
──だから。
「…………」
それでも結局は、コーリーも、弟の息子を愛した。きっと、父親である自分よりも。
殺人などすれば、どれほどの被害がこちらに被るのか、少し考えればわかりそうなものなのに。
「……馬鹿みたいだな」
ルソー伯爵はそう吐き捨てると、馬車に乗り、屋敷に向かった。荷物をまとめ、また、馬車に乗る。その馬車は警察署に向かうことなく、王都の出入り口である、門へと進んだ。
──が。
護衛のために連れてきた使用人たちの裏切りにあったルソー伯爵は、王都から出てしばらくすると、金品をすべて奪われたうえ、馬車から無理やりおろされてしまった。
ぽかんとしていたルソー伯爵だったが、やがて、狂ったように笑い出した。
日が傾き、辺りが暗くなりはじめた。それでもルソー伯爵は、その場から動こうとはしなかった。
街道のすぐそばにある森から、獣の唸り声が耳に届いた。森の中に、光る獣の目が、複数。
──狼だ。
ルソー伯爵は、一つ、乾いた笑いを浮かべた。
刑罰は、財貨によって購うことができる。
コーリーの大胆ともとれる行動は、これを知ったからこそ、なされたものだった。
警察署で、コーリーは父親を待った。すぐにお金を持ってきて、ここから出してくれる。そう信じて疑っていなかった。
だが、ルソー伯爵が姿を現すことはなく。
コーリーは地下牢で、父親とミアを恨みながら、生涯を終えることになる。
「……ミア」
揺れる馬車の中。腕の中にいるミアの名を、心配そうにエディが呼ぶ。ミアは目を見開きながら、ずっと震えていた。
ミアのクラスメイトである女子生徒に事情を聞き、駆け付けたエディ。そのときにはもう、ミアはこの状態だった。
コーリーが男子生徒に押さえ付けられながら、お兄様、お兄様、とエディに向かって涙を流して叫んでいたが、もはや湧き上がってくるのは、殺意だけで。
エディは無言でコーリーに近付くと、コーリーの頬を戸惑うことなく、打った。大人しくなったコーリーを一瞥すると、ミアを横抱きに抱え、その場を後にした。
ミアの自室に着いても、ミアは一言も発することはなく。ただ、エディの服を掴んで離さなかったので、エディはミアを横抱きにしたまま、寝台に腰掛けた。
──どうすればいいのだろう。
いますぐにでもジェンキンス伯爵たちに頼りたいところだが、それはできない。伯爵たちは、王都にはいないのだから。
(……僕が、ミアを支えないと。元はと言えば、僕のせいなんだから)
コーリーが学園に来た時点で、帰ればよかった。まさかここまでするとは思っていなかった、とは、言い訳にしかならない。最悪の事態を想定すべきだった。
「……エディ」
掠れた声に、エディは、はっとした。
「ミア、大丈夫?」
「……わたし、同じこと、されていた気がするんです」
「同じことって……」
エディの脳裏に、嫌な考えが過った。
「……ナイフで切られたり……木の棒で叩かれたり、して……身体を傷付けられていたような……そんな覚えないのに……いまだって、コーリーのナイフはあたってないのに……どうしてか、身体中が痛いんです……」
「…………っ」
「エディ……わたし」
エディは遮るように、ミアを抱き締めた。強く。強く。
「気のせいだよ。大丈夫。きみの身体は、どこも傷付いてない」
「……駄目です。わたし、なにか、思い出せそうで……」
思い出さなくていいんだよ。
そう言って、エディはそっと、ミアに口付けた。




