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「ミア。きみの中には、ダリアという三歳の女の子と、ルシンダという十八歳の女の人の、二人の人格がいるんだ」
ミアの反応は、やはりというか。言葉の意味が理解できないというように、頭に疑問符を浮かべていた。
「突然こんなことを言われて、混乱するのも無理はない。だが、これは事実なんだ。ダリアとルシンダが表に出ているときの記憶は、ミアにはない。だから記憶が途切れる。そして今回、王都からここまで移動してきたときに表に出ていたのは、ルシンダなんだ」
「お、お父様。ちょっと、待ってくださいっ」
「──ああ、もちろん。いくらでも待つよ」
ミアは、ジェンキンス伯爵夫人と、エディの顔を交互に見た。二人の表情は、少なくともミアの目には、落ち着いているように映って見えた。
「あのね、ミア。僕はもう、何度もミアと、口付けしているんだよ」
「……え?」
「でも、口付けすると、ダリアが出てくるんだ。ダリアは、ミアが恥ずかしいからだよって、いつも言っているのだけど」
え。え。
軽くパニック状態のミアに、ごめん、とエディが謝罪する。
「でも、我慢ができなくて。やっと伝えられて、よかった」
ほっとしたように、エディが頬を緩ませる。ミアは、ぽかんと口を半開きにしていた。
「今日は、これぐらいにしておきましょうか」
しばらくの間のあと。ジェンキンス伯爵夫人はそう提案したが、ミアは混乱しながらも、大丈夫です、と呟いた。
「本当に?」
「……はい。複数の人格がわたしの中にいる、というのは、その……よく理解できないのですが、でも、これまで不思議に思っていたことすべてに、辻褄が合うというか……それになにより、お父様たちがおっしゃっていることなので」
「無理はしなくていい。受け止めるのに、時間もかかるだろう。いや。むしろ、お前はそのままでいいんだよ」
「……お父様」
慈しむような双眸に、一瞬、蛇のような怖ろしい眼光でこちらを睨む、誰かが重なった。
「…………っ」
「ミア? どうしたの?」
エディに腕を掴まれ、はっと我に返ったミアは、エディの顔を見て、安堵したようにほっと
息をついた。
「あ、いえ……その、どうしてわたしの中には、複数の人格が存在するのでしょう。なにかきっかけがあったのですか?」
エディは僅かにぴくりと指を動かしたが、すぐに、それはね、と話しはじめた。
「ルシンダが生まれたのは、僕と、コーリーのせいなんだ」
「どういう、意味ですか?」
「もともと、コーリーの存在はきみにとって、相当なストレスだった。なのに、コーリーはきみを追い込み、嘘を並べ立て、僕ときみを別れさせようとした。きみは限界を迎えて──心を守るために、ルシンダが生まれ、表に出てきた」
「ちょ、ちょっと待ってください。確かにあのときから記憶は途切れていますが、そんなことで……っ」
ジェンキンス伯爵が「それだけ、エディを失うことが怖かったんだろう」と声を挟むと、ミアは、そんな、と顔を歪ませた。
「……わたし、そんなに弱かったんですか? だって、エディの方がよほど辛い目に遭ってきたのに、なんて情けない……っっ」
「違う! そんなこと言わないでくれっ」
エディが声を上げると、ミアは、だって、と瞳を潤ませた。
「コーリーの存在がストレスというなら、エディの方が……っ」
「僕には、きみがいた。だから頑張れた。そんな風に言わないでくれ」
「じ、人格が複数あるなんて、普通じゃないです! わたし、あなたに別れを告げられても、仕方がない……っ」
エディが「……うん、僕もずっと怖かった」と、消えそうな声色で言った。
「あんな妹を優先する僕は、なにかと言い訳をつけて口付けすらしない僕は、いつ別れを告げられてもおかしくないって。ずっと、怖かった」
ミアは、ふっと動きを止め、苦笑するエディと視線を交差させた。
「はじめて会ったときのことを、覚えているかな。ミアは事情もなにも知らないはずなのに、僕すら気付いていなかった痛みに寄り添ってくれた。僕はあの日、はじめて泣くことができたんだ。それがどれほど大切なことかも、きみが教えてくれた。きみに会えなければ、僕の心は死んでいたかもしれない……そしてコーリーの望むまま、あの子と、結婚していただろう。だって、助けてくれる人なんて、ジェンキンス伯爵の他に、いなかっただろうから」
エディの抱えてきた苦しみを聞いたいまだからこそ、余計に、それらの言葉はミアの心の深いところに刺さった。
嬉しかった。思っていたよりもずっと、エディに求められていたことが。必要とされていたことが。ほっとして、胸が熱くなった。
──口付けのことも、きちんと理由があって。
(……あれ?)
ミアの中で、なにかが引っかかった。
(心を守るために、別人格が生まれるのだとしたら、ダリアって子が生まれたのは、どうしてなんだろう)
エディとの口付けが恥ずかしくて、生まれた? そんな馬鹿な。
どくん。
心臓が、一つ、跳ねた。
「──ミア?」
深く沈みそうになっていたとき、名を呼ばれ、ミアはびくりと肩を揺らした。
「は、はい」
「ごめん。想いが強すぎて、引いてしまったかな」
「そ、そんなことありません!」
「なら、よかった」
エディがミアを引き寄せ、抱き締めた。おろおろするミアが、顔を赤くしながらジェンキンス伯爵たちに視線を向ける。
「あ、あの。お父様たちが……っ」
「かまわないよ。憂いが晴れて、エディも嬉しいのだろう」
「ええ、わたしたちのことは気にしないで。なんなら、席を外しましょうか?」
ジェンキンス伯爵とジェンキンス伯爵夫人が、穏やかに笑う。エディも、本当に嬉しそうで。
照れくさかったけど、心は満たされていて。僅かな疑問など、どうでもよくなってきていた。
思い返せば、昔からそうだった。記憶の欠如や、ふいに怖ろしいなにかが襲ってくるような感覚など。見て見ぬふりをした。そうしているうちに、それらが気にならなくなって。
(……わたしの中に、別人格がいるのは、正直まだよく理解できないし、怖いけど)
他の誰でもない、この三人がそれを受け止めてくれているなら。それでいい。
──例えば、話が意図的に逸らされたのだとしても、みんながそれを望むなら、わたしはこれ以上、これについて、なにも聞かない。
心の中で静かに決意したミアは、エディの背中に、そっと腕をまわした。
「──くそ、くそ、くそ!!」
ルソー伯爵は、自室の椅子に座り、収まらない怒りをどうにかしようと、頭を掻きむしっていた。
イーモンには、貴族令嬢の婚約者がいた。結婚まで秒読み。そんな中、突然のイーモンの除籍を知った相手は、当然のように、怒りを露わにし、婚約破棄を宣言し、多額の慰謝料を請求してきた。
ルソー伯爵も、婚約者の存在を忘れていたわけではない。もっとも、それに気付いたのは、イーモンが屋敷を出て行った次の日、にだが。急いでイーモンを探させたが、その姿はもう、王都のどこにもなかった。
護衛もなしに、王都を出たのか。あり得ないだろう。そう考えたルソー伯爵は、まだ王都のどこかに隠れているはずだと、イーモンの捜索は続けている。むろん、払った慰謝料を返してもらうために。
だが、ルソー伯爵は知らなかった。イーモンには、恋人がいたのだ。はじめて愛し、愛されることを教えてくれた、街娘が。
イーモンはルソー伯爵が追ってくる前に、屋敷を出た数時間後には、恋人と王都を出ていた。恋人の知り合いの、護衛をつけた商売人たちと一緒に。
王都だけを探し続けるルソー伯爵には、もう、一生見つけられないだろう。
おまけに、元妻は、侯爵の娘だ。せめて慰謝料を半分払えと怒鳴りつけたいところだが、そんなこと、言えやしない。
コンコン。
ノックの音と共に、扉が開いた。返事の前にこんなことができるのは、一人しかいない。
「コーリー、どうした?」
エディたちが屋敷から居なくなって、約ひと月。ほとんど部屋に閉じこもっていたコーリーが、自ら部屋を訪ねてきたことに驚きながらも、怒りを収め、ルソー伯爵が心配そうに声をかける。
「……お父様。あたし、明日から学園に行こうと思います」
「大丈夫なのか? あんなところ、無理してまで通う必要はないぞ?」
「いいえ。学費もただではありませんし……お兄様たちのせいで、大変なのでしょう?」
ルソー伯爵は、ああ、と感激したように席を立った。
「コーリー。お前だけだよ、私を想ってくれるのは。大丈夫、お前にだけは、不自由はさせんからな」
「ありがとう、お父様。あたし、頑張りますね」
コーリーの瞳が濁っていることに、ルソー伯爵は気付いていなかったのか。気付かないふりをしていたのか。
「まあ、学友に会うのも、いい気分転換になるだろう。くれぐれも、無理はせんようにな」
いずれにせよ、ルソー伯爵は、更に後悔を重ねることになる。




