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「ね、エディ」
寝台の上で、エディに膝枕をしてもらいながら、ダリアは甘えたような声でエディを呼んだ。エディが「なに?」と、優しく答える。
「すきって、いって?」
間を置かず、エディが「好きだよ」と口にする。
「ほんとに?」
「本当だよ」
「いちばんに、すき?」
「好きだよ」
ダリアが、ぷうっと頬を膨らます。
「いちばんって、いって」
エディが「一番、好きだよ」と笑うと、ダリアは起きあがり、心で、うそつき、とぼやきながらエディに抱き付いた。
「エディが、いちばんすきなんだからね」
「うん。知ってる」
「じゃあ、キスして」
いいよ。エディが、ダリアに口付けする。ダリアは満足したように、へへ、と子どもっぽく口角を上げた。
エディの口付けは、特別なものだから。
「──ア。ミア?」
耳馴染んだ、少しだけ低く、どこか艶のある声色に名前を呼ばれたミアは、はっと顔を上げた。目の前には、大好きな婚約者の、エディがいた。
ガタ、ゴト。ガタ、ゴト。
揺れる馬車の車輪の音が響く。窓からは、眩しい朝の光が差し込んでいた。
「ぼんやりとして、どうしたの?」
エディの金髪が、きらっと日に反射する。綺麗だな。心で呟く。
「か、課題に手こずってしまって……少し寝不足気味なだけです」
「そうか。なら、学園に着くまで、一眠りしたら? そう距離はないけど」
「……そう、ですね」
「肩、貸そうか?」
「……え、えと」
「ん?」
見透かされたような双眸を向けられたミアは、お願いします、と小さく呟いた。エディは、ふふ、と小さく笑いながら立ち上がり、ミアの横に腰を落とした。ミアはそっと、エディの肩に、頭をもたれかけさせた。ふわっと香る、微かな甘い匂い。心臓が、僅かに鼓動を早めた。
「重くないですか?」
「ちっとも」
そうですか。言いながら、ミアは静かにまぶたを閉じた。感じる、エディの匂いと体温。二人きりの空間。ずっとこのままがいいな。それは、何度も願ってきたこと。
(……わたし、とても幸せだわ)
ミアは、ジェンキンス伯爵家の唯一の子ども。そしてエディは、ルソー伯爵家の次男。互いに十のときに婚約した二人は、王立学園を卒業すると同時に結婚することが決まっている。そしてエディはジェンキンス伯爵家の婿養子となり、いずれ、ジェンキンス伯爵から、爵位を継ぐことになる。
貴族の次男として、決して悪い話ではない。そのことに、ミアは安堵する。大丈夫。エディはきっと、わたしを捨てたりしないと。
両親にも、そしてエディにも、ミアは愛されている。なのにどこか、自信が持てない自分がいる。
情けないな。
心で呟きながら、ミアはちらっとエディを見上げた。エディが、小さく微笑む。
(ねえ、エディ……どうして)
問いかけたい。でも、怖くてできない質問がある。もう一年ぐらい、ずっと押し込めている疑問。
「どうかした?」
あ。口を開きかけ、ミアは、なんでもありませんと、再びまぶたを閉じた。
そんなミアをしばらく見詰めてから、エディはふっと笑みをおさめ、馬車の窓から空を見上げた。その双眸にうつっていたのは、青空を羽ばたく、鳥だった。
「それじゃあ、また、昼休みに」
ミアのクラスの教室の前。エディが軽く手を上げると、ミアは、はい、と小さくそれに答えた。小さくなっていく背中を見届けるように見詰めるミアの肩を、誰かがぽんと叩いた。
「おはよう、ミア」
明るい笑顔の令嬢に、ミアが、おはようと頬を緩める。ミアと同じクラスに所属する彼女の名は、ドリス。王立学園に入学してからの付き合いだが、相性が良かったのか、不思議と、もう何年も一緒にいるような感覚に陥ることがあるほどの、唯一無二の友だちだ。
特に、少しの人見知りの気があるミアにとっては、とても大切な存在だ。
「教室まで送り迎えしてくれるなんて、本当に愛されているわね。うらやましいわ」
「……そう思う?」
「思うわよ。それにあんなに見目も良くて、優しくて。最高の婚約者じゃない」
話ながら、二人は教室に入った。階段状になっている、前から三番目の、一番窓際の席に並んで腰を落とした。席順は特に定められていないものの、この教室に通ってもうすぐ一年が経ついまでは、ほとんどの生徒が、自分たちの指定席というものがあった。
「それで? 昨日は休みで、大好きな婚約者とデートをしたのでしょ?」
「……ええ。とても楽しかったわ」
ミアの、言葉とは裏腹の様子に、ドリスは、はあ、とため息をついた。
「その様子じゃ、また駄目だったみたいね」
あからさまにしゅんと落ち込むミアに、ドリスは、はいはいと慰めるように頭を撫でた。
「……ドリスも、婚約者の人とデートだったんでしょ?」
「まあ、ね」
「……口付け、した?」
「…………」
ドリスは沈黙したが、それは確かな答えだった。ミアが、いいなあ、とぼそっと目を潤ませながら呟く。もお。ドリスがミアの背中を軽く叩いた。
「たとえまだ口付けしていなくても、エディ様があなたを大切にしているのは、誰の目にも明らかじゃない。あなただって、その自覚はあるんでしょう?」
「……でも」
「そんなにしてほしいなら、お願いしてみたらいいじゃない。口付けしてくださいって」
「ドリスは、そうしたの?」
「……あ、あたしは。その場の流れのいうか、雰囲気で、そうなったというか」
「……そんな雰囲気になったことはあると思うんだけど……そう感じたのは、わたしだけなのかなあ」
ふふ。ドリスが、小さく笑う。
「なんにしろ、可愛い悩みよね」
「……わたしにとっては、深刻だわ。だって、額や頬にはしてくれるのよ。それって、わたしのこと、女として見ていないってことじゃないかしら」
「考えすぎよ」
「……そうかなあ」
「甘えん坊で心配性のミア。あたしが代わりに、エディ様に訊ねてあげましょうか?」
「……それはいい」
ぷいっと顔を背けたミアに、ドリスはまた一つ、笑った。
悩みの種は、もう一つ。
ジェンキンス伯爵は、地方に領土を持つため、王都には住んでいない。王立学園に通うミアは、ジェンキンス伯爵が用意した、小さな屋敷に、使用人たちと暮らしている。
対し、ルソー伯爵は、宮中伯だ。そのため、王都に住まいがある。エディもそこから、王立学園に通っている。
問題は──。
「お兄様、お義姉様。おかりなさい」
ミアが住まう屋敷に到着した、ミアとエディを笑顔で出迎えたのは、エディの妹の、コーリーだった。ふわっとした金髪をなびかせ、屋敷に入ってきたエディに駆け寄り、嬉しそうに腕をからめる。
「コーリー、またミアの屋敷で待っていたの?」
エディが苦笑すると、コーリーは、だって、と顔を綻ばせた。
「お兄様は紳士だから、絶対にお義姉様をお屋敷までお送りするでしょう? なら、ここで待っていた方が、早くお兄様に会えるもの」
「いくら護衛付きとはいえ、コーリーはまだ十四歳なんだ。こんなに頻繁に屋敷を出入りするなんて、感心しないな。父上と母上も、心配しているよ?」
あら。コーリーはクスクス笑った。
「きちんと、お父様の了解は得てきていますから、大丈夫ですよ。みんな、心配性なんだから」
頬を染めるその姿は、まるで、恋する少女のようで。ミアの心が、ざわつく。
エディには、五つ離れた兄がいる。その兄も合わせ、ルソー伯爵家はとにかく、コーリーを溺愛していた。それは、エディも例外ではなく。
例えばコーリーがどんなわがままを要求してきたとしても、笑ってそれを叶える。いまのように、それはしてはいけないと言いつつ、叱ったところは一度として見たことがない。
デートに乱入されたことも、もう、数え切れないほどある。それすら、エディは笑って許すのだ。けれど、申し訳なくも思っているのだろう。いつも必ず、ミアに、ごめんねと謝罪はしてくれるし、こうなることを危惧して、平日は、遅くまで学園で過ごすことも多い。
「ねえ、お兄様。早く帰りましょう? 今日のお料理は、お兄様の好きなシチューなのよ」
「そうか。シチューは、ミアも好物だったよね。良かったら、一緒に食べない?」
エディの誘いに答える前に、コーリーが口を挟む。
「でも、お兄様。急に人数が増えると、お料理が足りなくなってしまうかもしれませんわ」
「心配ないよ。いつも、多めに作ってくれているし、なんなら、僕の分を──」
「い、いえ。わたしのことは、どうかお気になさらず……」
遠慮するミアに、コーリーが、そうですか、とぱっと顔を輝かせた。
「ほら。お義姉様も、こう言っていることですし。早く帰りましょう?」
ぐいぐい。ぐいぐい。エディの腕を引っ張るコーリー。エディはミアの方を申し訳なさそうに見ると、いつものように、ごめんねと謝罪しながらも、結局は、コーリーと共に屋敷を出て行ってしまった。
(……エディにとっては、わたしより、妹の方が、きっと優先順位は上なのね)
妹にまで嫉妬する自分を情けなく思うと同時に、いつも、哀しくなる。
「──ミアお嬢様」
この屋敷の管理を任されている執事に、名を呼ばれ、ミアは右横を向いた。心配そうな声音と表情に、少し心が落ち着く。
「今日のお夕食は、なんですか?」
訊ねると、執事は、ほっとしたように目を細めた。
「ミアお嬢様のお好きな、ローストビーフでございますよ」
「そうなのですか? 嬉しいです。また今日も、みんなで一緒に食べましょうね。一人の食事は、味気ないですから」
「ふふ。ええ、かしこまりました」
優しい、優しい人たち。これ以上を望めば、きっと罰があたる。それでもどこか、不安は拭えなくて。
「今日は少し、遠回りをして帰ろうか」
学園からの帰り道。夕陽が差し込む馬車の中。エディが、外を見ながら静かにそう提案してきた。いつもなら、少しでも長く二人でいれることが嬉しくて、すぐに二つ返事で答えていたミアだったが──。
「…………」
俯くミアに、エディが、どうしたの、と心配そうに声をかける。ミアは、膝の上に置いたこぶしを軽く握った。
「……もうすぐ、わたしたち、進級しますね」
「そう、だね」
「そしたらコーリーも、学園に入学してきます、よね……」
エディが俯いたままのミアに視線を向け、うん、と答える。そのまましばらく、沈黙が続いた。かと思うと、エディは立ち上がり、ミアを強く抱き締めた。
「……エディ?」
「ごめんね、ミア。でも、あと少し。学園を卒業すれば、僕たちは、ジェンキンス伯爵家に行ける。王都を出られる」
ミアは、僅かに首を捻った。この言い方ではまるで、コーリーと離れることを望んでいるように聞こえる。いや。単に、ミアを安心させたいがためだけの科白なのかもしれないが。
それでもミアは、口元を緩ませた。
「……エディ」
「ん?」
「……悪いと思っているのなら、く、口付け、してください」
エディの肩に顔を埋めながら、ミアは震える声で、思い切って願いを口に出してみた。エディは数秒のち、ミアから離れ、真っ直ぐに視線を交差させた。ミアが顔を赤くしながら、目をぎゅっと閉じる。
だが、温かいそれがそっと触れたのは、ミアの額だった。
ミアがまぶたを開け、自分の額に触れた。しゅんと肩を落とし「……また、額」と、ぼやいた。エディはそんなミアの頭を撫でながら、柔やかに笑った。
「はじめての口付けは、もっと、ロマンチックなところでしたいんだ」
「……ロマンチック、ですか……?」
「そう。二人ともに、想い出に残るような」
また上手くはぐらかされたような気がする。思ったが、これ以上はレディとしてはしたなく、なにより嫌われるのが怖くて、ミアは、わかりましたと頷くより他に選択肢はなかった。