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来週死ぬ君に、レンズ越しの恋をする

作者: 鈴谷なつ

「私が死ぬ瞬間を、カメラにおさめてほしいの」

 やわらかな彼女の声が、とんでもない言葉を紡ぐ。にこやかな笑みを浮かべ、首を傾げる彼女の姿に、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。


 話は数分前に遡る。

 麻倉ことりは、筒井慎司の通う学園のアイドル的存在だ。

 芸能人のように可愛らしい容姿をしていて、告白されることは日常茶飯事。それでいて慎司のようなクラスの端っこにいる男子にも明るく話しかけてくれるのだから、天使のような心を持っている。まさに完璧な存在である。

 そんなことりに呼び出されたのは、秋の暮れの放課後のことだった。中庭でちょこんと待っていることりは、ちょうど夕日をバックに立っていた。その姿があまりにも魅力的だったので、慎司は首から提げていたカメラを構え、一枚パシャリと撮る。

 慎司は写真部に所属する、いわゆるカメラオタクだ。カメラマンと名乗っているがあくまで自称。コンテストで賞を取ったのは二回ほどだし、カメラ歴も三年と特別長いわけではない。

 それでも慎司はカメラが好きだった。日々移ろっていく景色を瞬間で捉えられる、唯一の道具。色褪せていく思い出を確かなものにする、魔法のアイテムなのだ。

「筒井くん?」

 ことりがこちらに目を向けて、不思議そうな表情で首を傾げる。

 写真を撮ったことがバレてしまっただろうか。盗撮、という言葉が頭をよぎり、慎司の背中に冷や汗が流れる。

「写真、撮ってくれたの?」

「あ、ご、ごめん、勝手に」

「ううん、いいよ。実は今日筒井くんに来てもらったのも、写真を撮ってほしいからなの」

 学園のアイドルは優しく微笑み、慎司の罪を許してくれる。それから写真を撮ってほしい、という言葉に、慎司は心が浮き足立つのを感じた。

「写真って、どんな?」

 例えば、アイドルのオーディションを受けたいから審査用の写真を撮ってほしい、と言われても、ことりなら全く違和感がない。むしろ慎司は喜んで協力するだろう。

 しかしことりの口から出た言葉は、慎司の想像を遥かに超えたものだった。

「……筒井くん、私が死ぬ瞬間を、カメラにおさめてほしいの」

「…………えっ?」

 そう、ここで冒頭の言葉である。

 間の抜けた声が溢れた。それも仕方がないだろう。彼女は今、何と言ったのか。

「だからね、私、来週死ぬの。その瞬間を写真に撮ってほしいと思って」

 唐突な告白に、頭がついていかない。

 死ぬ? しかも来週?

「な、なんで……病気?」

「ううん、自殺」

「じさつ…………」

 言葉を繰り返してみても、現実味が湧かなかった。

 クラスメイトが来週自殺する。それも、慎司のように誰にも注目されない人間ではない。学年関係なく、学校中の人から愛されている少女が、自殺するというのだ。

 どうしてもその理由が思い当たらない。慎司からしたら何でも持っていることりが、自殺するという理由が。

 慎司が言葉を失ったまま固まっていると、ことりは困ったように眉を下げてみせた。そんな姿もカメラにおさめたいくらい絵になるのだから神様は不公平だ。

「やっぱりだめ? 私じゃ被写体にはなれないかなぁ」

「そんなことない!」

 被写体としては最高の人物だ。整った顔立ちに、ほっそりとした、それでいて女性らしい身体。

 ことりの写真を撮ってみたいというカメラマンは、数えきれないほどいるだろう。

「死ぬ瞬間って、人生に一度しかないでしょう? だから、思い出にとっておきたいな、って思ったの」

 彼女がクラスメイト、そして学園のアイドルでなければ、慎司は一も二もなく頷いていただろう。すぐに頷かないのは、理性が働いているからだ。

 最高の被写体が、人生に一度しかない死の瞬間を、慎司に撮ってほしいと言う。こんな贅沢があっていいのだろうか。慎司は内心歓喜に打ち震えていた。

「な、何で僕に? 他にも写真部はいるけど……」

「…………それは、秘密」

 さくらんぼのように赤い唇に、人差し指を押し当てて、彼女がいたずらっ子のように笑う。その仕草にドキッとして、思わずカメラを構える。同時に我に返り、あっごめん、と謝ると、撮っていいよ、と彼女は笑う。

「死ぬ瞬間もだけど、死ぬまでの一週間も、筒井くんに撮ってもらえたら嬉しい」

 やわらかな微笑みを、パシャリと切り取る。

 ほら、遺影にもなるし、と縁起でもないことを言うことりに、慎司は思わず声を上げた。

「どうしても死ぬの?」

 自殺の理由は、訊いてはいけない気がした。代わりに投げかけたのは、彼女を引き止める言葉だった。

 人が死ぬ瞬間を撮ってみたい。倫理に反するそんな感情と、クラスメイトが死ぬ瞬間は見たくないという理性がせめぎ合う。

 理性からかけた言葉に、ことりは目を丸くして、それからもう一度笑ってみせた。

「どうしても、だよ」

「…………そう」

「どうかな? 明日から一週間、筒井くんの時間を私にくれる?」

 ことりが首を傾げ、慎司に問いかける。慎司の答えは既に決まっていた。

「僕で良ければ、麻倉さんのことを撮るよ」

「本当に!?」

 嬉しそうに目を輝かせたことりを、フレームにおさめる。そしてシャッターを切ると、レンズ越しに見ていた彼女を直視する。

 麻倉ことりは笑っていた。

 一週間後に自殺する、と言っていたのが嘘のように。やわらかく、優しく、幸せそうに笑っていた。


 火曜日。

 慎司が家を出ると、門に寄りかかるようにして麻倉ことりが立っていた。

 昨日の放課後、朝筒井くんの家まで迎えに行くねと言っていたのは冗談ではなかったのだ。

 自分の家の前に学校のアイドルがいるということに違和感を覚えながら、朝の一枚を写真におさめる。

「おはよう、筒井くん」

 シャッター音に気づいたのだろう。にっこりと完璧な笑みを浮かべ、ことりが朝の挨拶を紡ぐ。おはようございます、と返すと、クラスメイトなのになんで敬語なの、と彼女はくすくす笑う。

 それは君があまりにも魅力的で、一緒にいるだけで緊張するからだよ。

 そんな言葉を言えたらどれだけ楽だっただろうか。慎司の口から出た言葉は、悲しいことに「なんとなく?」という当たり障りのないものだった。

 改めてことりの姿を見てみるが、やはり彼女はよく出来たお人形のようにかわいらしかった。

 いつものようにブラウスの上には薄茶色のカーディガンを着込み、学校指定のブレザーを羽織っている。赤いリボンは曲がることなくきっちり首元におさまっている。丈の短めなプリーツスカートからは、黒タイツで覆われたほっそりとした足が出ている。長めのカーディガンから少し覗いた手で学生鞄を持ち、足元には茶色のローファー。

 見慣れた制服のはずなのに、ことりが着用しているだけで、アイドルの衣装のように見えてしまうのはどうしてなのだろう。

 胸のあたりまで伸びたストレートの黒髪も、彼女の清楚さを表しているようで、よりアイドル感が増す要因なのかもしれない。

 麻倉ことりと共に登校すると、いつもの景色が一転して綺麗に見えた。たまらず何の変哲もない通学路を写真におさめると、不思議なことにきらきら輝いて見えた。

「どんな景色を撮ったの?」

 ことりが興味津々に覗き込んでくるので、慎司は慌てて一歩離れる。そしてカメラのディスプレイに先ほど撮ったばかりの写真を映し出す。

「普通の道路なんだけど……」

「わぁ……筒井くんが撮ると、普通の道路も綺麗に見えるんだね」

 今日は特別だと思う。ことりが隣にいるから、きらきらして見えるだけだ。だけど、それが写真にまで表れているのだとしたら、喜ぶべきことなのだろう。

「……麻倉さんには、どんな風に見えてるの?」

「道路? 普通だよ」

 それは当然だ。慎司の場合は隣にいるのが、学園のアイドル。しかしことりからすれば、隣に立っているのは冴えないクラスメイトなのだから。

 聞かなければよかった、と慎司が後悔していると、でも、とことりが声を上げる。

「いつも使ってる通学路より、こっちの道の方がちょっときらきらして見えるの。朝日のせいかな」

 えへへ、と笑ったことりに、胸がきゅんと鳴く。かわいい。それはもう、文句なしに。

 慎司と過ごす時間を少しでも楽しいと思ってくれているならよかった。そんなことを考えながら、いつもより軽い足取りで慎司は学校へと向かうのだった。


 学校に着くと、ことりとは一度別行動をとることにした。これは慎司が提案したことだ。

「麻倉さんは目立つから、僕みたいな暗いやつと一緒にいると、きっと悪く言われちゃうよ」

「そんなこと……」

「とにかく、別行動にしよう。写真は放課後、撮らせてもらうから」

「…………うん、分かった」

 そんなやりとりの末に、二人は生徒玄関で別れ、別々に教室へ向かった。目的地は同じだというのに、わざわざ離れて歩くのもおかしな話だが、昨日まではこれが普通だったのだ。

 誰にでも明るく話しかけ、クラスのみんなから好かれていることり。一方慎司は、教室の端でカメラをいじっているような存在だ。

 時折ことりが話しかけてくれたこともあったが、クラスが同じ、ということくらいしか共通点のない二人では会話が弾むわけもない。

 昨日までは、交わることのない二人だったのに、一日経っただけで、こんなにも変わるものなのか。

 慎司のカメラには、ことりの写真が何枚か保存されている。それが、昨日から今日にかけての出来事が嘘ではないと証明する、唯一のものだった。

 いつもよりゆっくり歩いて教室に辿り着くと、すでにことりの周りには友人が集まっていた。

 昨日のドラマ見た?

 見た見た! 主演の沖田くんかっこいいよね!

 えー、私は村木くん派だなぁ。ことりは?

 私、昨日お風呂で眠っちゃって……ドラマ見忘れちゃった。

 そんな会話が飛び交う教室で、慎司は静かに窓際の一番後ろの席に腰を下ろす。くじ引きで引き当てた特等席は、教室の喧騒から慎司を隔離してくれる。

 黙々とカメラをいじっていると、友人がやって来ておはようと声をかけてくれる。

「おはよう」

「慎司、今日は来るの早いな。いつも予鈴ギリギリなのに」

 ドキッと心臓が跳ねる。いつもより登校時間が早かったのは、麻倉ことりと待ち合わせをしていたからだ。

 明日からも一緒に登校するのだろうか。だとしたら、ことりに迎えに来てもらうよりも、慎司がことりの家まで迎えに行った方がいいのではないか。なぜ昨日の時点でその考えが浮かばなかったんだ、と自分を責めるが、あの時は緊張で頭が回らなかったのだから仕方がない。

 今日の放課後、提案してみよう。そんなことを考えていると、友人が首を傾げる。

「どうした? 何か今日はぼーっとしてるな」

 疲れてるのか? と心配する声をあげる友人に、大丈夫だよ、と言葉を返す。

「ちょっと寝不足なんだ」

「ああ、珍しく早起きしたから?」

「うん、それに昨日なかなか眠れなくて」

 慎司の言葉に友人が眉をひそめる。

「もし何か悩みがあるなら聞くぞ?」

「ありがとう。でも大丈夫」

 眠れなかったのは本当のことだ。しかし、悩みがあって眠れなかったのではない。逆なのだ。

 明日から麻倉ことりの写真が撮れる。しかも、一生に一度の、死ぬ瞬間まで撮らせてくれると言う。

 人が死ぬというのに不謹慎かもしれないが、慎司は興奮して眠れなかった。それくらい貴重な瞬間なのだ、人生の終わりというのは。プロのカメラマンでもなかなか立ち会えるものではないだろう。その瞬間がいつ訪れるかは、神のみぞ知ると言っても過言ではないのだから。

 カメラのディスプレイに、昨日の夕方隠し撮りをしたことりの写真が表示される。夕日を背景に中庭に佇む姿は、どこか哀愁が漂っている。

 しかし、実際のことりはもっとかわいらしくて、やわらかいオーラを纏っている。それが表現出来ていないので、この写真はダメだ。

 ぷつり、とカメラのディスプレイを切り、友人にバレないように小さなため息をこぼす。

 彼女が死ぬまであと一週間。果たして、彼女の魅力を存分に引き出した写真が、自分に撮れるのだろうか。

 そんなことを考えながら、慎司は横目でことりの姿を確認し、窓の外に目をやるのだった。


 放課後になると、一度慎司は写真部の部室に顔を出した。先輩に一週間部活を休むことを伝えると、体調が悪いのか、と心配されたが、詳しいことを話すわけにはいかない。家庭の事情で、と濁しておくことにした。

 教室に戻ると、まだことりは戻ってきていなかった。どうやら先輩から呼び出しを受けたらしい。ことりは言葉を濁していたが、おそらく告白なのだろう。

 モテる人間っていうのも大変なんだな、と慎司はしみじみ思う。モテない慎司からしたら羨ましい限りだが、先輩からの告白を断るのはなかなか煩わしいだろう。断り方を間違えたら、嫌がらせなどをされるかもしれないからだ。

 そういえば、ことりはどうしてあんなにかわいいのに彼氏がいないのだろうか。

 ふと思い浮かんだ疑問は、慎司の中で大きく膨れ上がった。

 よくよく考えてみれば不思議な話だ。ことりほどかわいければ、引く手あまただろうに。

 好きな人もいないのだろうか。もしいるならば、その人は彼女が一週間後に死ぬことを知っているのか。

 知るべきだ、と慎司は思う。もしことりに好きな人がいるなら、その相手は彼女の気持ちも、彼女の死も、知っておくべきだ。後悔しないために。

「筒井くん、お待たせ」

 一人で悶々と考えていると、ふいに教室の入り口から声をかけられる。麻倉ことりだった。

「麻倉さん、用はもう終わったの?」

「うん、大丈夫。待たせちゃってごめんね」

「全然待ってないよ」

 口にしてから、このやりとりはデートの待ち合わせのときにカップルがするものだ、と気がついて、思わず赤面する。しかし幸運にもことりには気づかれなかったようで、自分の席から鞄を取り上げると、帰ろうかとこちらに笑顔を向けた。

「送っていくよ」

「本当? ありがとう」

 家を知られたくない、と断られたらどうしようかと思っていただけに、あっさり頷いてくれたことに安堵する。それどころか嬉しそうな表情を見せるものだから、慎司もつられて嬉しくなってしまう。

 麻倉ことりという人間は、不思議な人だ。ことりが笑うとつられて笑ってしまい、嬉しそうにしているとこちらも嬉しくなる。共感力を掻き立てる、とでも言うのだろうか。とにかくことりは慎司の感情を強く揺さぶる人だった。

「今日は写真じゃなくて、動画を撮りたいんだけどいいかな」

「うん、もちろんいいよ」

 設定を動画モードに切り替えて、カメラを構える。ボタンを押すと、ピッと音がして録画が始まった。

「これ、もう撮れてるの?」

「うん」

「会話が残っちゃうの、何か恥ずかしいね」

 照れ笑いしながら歩き出したことりに、遅れを取らないように慎司も歩き出す。ことりの横側から彼女が歩く姿を撮ったら、映画みたいで素敵だろうと思ったのだ。

「音声は乗らないように編集するよ」

「編集も出来るの? 筒井くんってすごいんだね」

 玄関で上靴をローファーに履き替えながら、ことりが目を輝かせる。ドキッとしてしまうけれど、カメラが揺れてはいけない。しっかり固定したまま、あくまで趣味のレベルだけどね、と笑い返した。

 校庭には野球部やサッカー部など、部活動に励んでいる学生がまだたくさんいた。

 ことりと慎司が一緒にいるところを見られてしまうと、しかも慎司が動画を撮っているなどとバレてしまえば、面倒なことになるに違いない。

 遠目だから見えませんように、と祈るような気持ちで俯く慎司の様子に、どうしたの? とことりが首を傾げる。

「いや、あの辺の男子に二人でいるところを見られたら、麻倉さんに迷惑がかかるから……」

「……朝も同じようなこと言ってたけど、そんなことないよ。私、たとえば筒井くんと付き合ってるって噂になったとしても、迷惑なんかじゃないもん」

 凛とした声でそう言った彼女の目に嘘はないように見えた。

 さすがに付き合っていると噂されることは、不釣り合いすぎてないだろうが、慎司に付き纏われているというレベルの噂ならあり得なくもない。同じクラスだというのに情けないことだが、ことりと慎司の間にはそのくらい距離があるのだった。

 そんな高嶺の花とも言えることりが、慎司との関係を誤解されても迷惑じゃないと言ってくれる。

 その事実が、慎司には何より嬉しかった。

「ありがとう、麻倉さん」

 この部分の音声だけは、切り取って保存しておこう。そんなことを考えながら、笑みを浮かべお礼を言うと、彼女は眉を下げて笑った。

「お礼を言われるようなこと、何もしてないよ」

「うん、でも僕は嬉しかったから」

 慎司が教室の端でカメラをいじっているような目立たない男子でも、ことりは差別することなく接してくれる。それがどれほど嬉しいことか、きっとことりには分からないだろう。

 カメラ越しにことりが笑う。元気そうに笑っている彼女が、来週死んでしまうという事実が、どうしても信じられなかった。


 水曜日。

 今日も彼女は慎司の家まで迎えに来てくれた。

 昨日の帰り道、「明日の朝は僕が麻倉さんの家まで迎えに行こうか」と提案した慎司に、ことりはくすくすと笑ってみせた。でも筒井くん、朝が苦手でしょう? と。

 いつもギリギリに登校していることがバレていたのだ。恥ずかしさに赤面し、まぁそうなんだけど、と言葉を濁すと、ことりは楽しそうに笑いながらこう言った。

「私は朝早く起きるの全然苦じゃないし、筒井くんのおうちまで迎えに行かせて? その代わり、放課後は家まで送ってくれると嬉しいな」

 魅力的すぎる提案に、こくこくと慎司は頷く。優しい人だ、彼女は。慎司が早起き出来ないことを考慮し、迎えの誘いは断りつつも、面子を潰さないように代わりの案を出してくれる。ここまで気の回る女子高生が他にいるだろうか。

「おはよう、筒井くん。何か嬉しそうだね」

「お、おはよう」

 昨日の彼女とのやり取りを思い出してニヤけていたとはとても言えない。いい夢を見たんだ、と適当なことを言って誤魔化すと、ことりはいいなぁ、と呟く。

「麻倉さんは夢見が悪かったの?」

 何気なしに訊いた言葉に、ことりからは思いがけない返答がきた。

「うん、私、毎日殺される夢を見るの」

「えっ」

 ギョッとして準備していたカメラから目線を上げる。ことりは特に困った様子もなく、至って普通の表情をしていた。

「もう慣れちゃったけどね」

「え……でも怖くない? そんな夢……」

「怖いよ。毎朝、起きて自分が生きていることにほっとするの」

 ぽつりと呟かれた言葉に、何と言葉を返せばいいか分からず、慎司はカメラを持ったまま立ち尽くしていた。

 彼女は何かに追い詰められているのではないか。

 そんな考えがふいに浮かぶ。そもそも何かに悩んでいるから自殺を考えたのだろう。理由は訊いていいか分からなかったので、訊かずにいた。しかしもし慎司が彼女の悩みを聞いてあげることが出来たなら、ことりは自殺せずに済むのではないだろうか。

「あの、麻倉さん……!」

 勇気を出して彼女の名前を呼ぶ。どうしたの、と笑うことりからは、もう先ほどの陰りは感じられず、いつものやわらかい雰囲気を醸し出していた。

「何か……」

 悩んでいるなら話してね、と言いかけて、言葉を飲み込む。友人でもない慎司に、どうして相談するだろうか。もし本気でことりが何かに苦しんでいるなら、家族や親友に話しているだろう。

 それならば、慎司が言えることは一つだけだ。

「僕に出来ることがあったら、言ってね」

 それが慎司の精一杯の気遣いだった。

 ことりは目を丸くした後、くすくすと笑い声を上げる。

「もう頼んでるよ」

「えっ?」

「写真。筒井くんだからお願いしようと思ったんだよ」

 だから、綺麗に撮ってね、とお茶目に笑う姿をカメラにおさめる。写真の中の彼女は、嬉しそうに笑っていた。


 お昼を一緒に食べませんか、とことりからメッセージが届いたのは授業中のことだった。

 念のため、とメッセージアプリの連絡先を交換したのが今朝。まさか本当に使う日が来るとは思わなかった。

 友人にバレないように返信をする。僕でよければご一緒します、と少しかしこまった文章になってしまったが、用件が伝わればそれでいい。

 くす、と少し離れたところでことりが笑うのが見える。一瞬振り向いた彼女は楽しそうな表情を浮かべていた。

 筒井くんはメッセージも筒井くんらしいね、とことりから謎かけのような言葉が届く。その意味を考えていると、続けてスマートフォンが短く震える。

 お昼休み、中庭で。

 その秘密のメッセージは、慎司の胸をくすぐった。美少女とお昼を一緒に食べる、そんな日が自分に来るとは夢にも思わなかった。

 ことりはご飯を食べているところもきっとかわいいんだろう。絶対に写真に撮らせてもらおうと決意しながら、早く授業が終われと強く願うのだった。

 昼休みになると、慎司は友人の誘いを躱し、中庭に急いだ。中庭にはすでにことりが来ていて、ベンチに腰掛けて花壇を見つめている。その姿を写真に撮ってから、慎司はことりの元へ歩み寄る。

「ごめん、お湯入れてたら遅くなった」

「大丈夫だよ。お昼カップ麺なの?」

「うん、それとおにぎり」

「炭水化物ばっかりだ」

 男の子だもんね、と笑うことりが、水色のランチバッグから小さなお弁当箱を取り出す。蓋を開けると、ご飯と卵焼きにピーマンの肉詰め、サラダとミニトマトが詰め込まれている。彩りまで完璧な女子の弁当に、慎司は思わず感動の声を上げる。

「うわ……すごい、美味しそうだね」

「本当? 結構時間かけて作ってるから嬉しい!」

「えっ自分で作ってるの!?」

 顔がかわいくてスタイルも良く、性格も優しいの一言に尽きる。その上料理上手とは一体何事だ。

 驚いて少し前のめりになった慎司に、ことりは引くことなく笑ってみせた。

「うち、お母さんが私を産むと同時に死んでるの。だから、気づいたら私が料理するようになってたんだ」

「同時にって……」

「身体が弱かったのに出産したから、耐えられなかったんだって」

 それはつまり、ことりの誕生日と母の命日が同じ日ということだろうか。あまりに悲しい話だ。

 自分を産んだことによって母が亡くなってしまった、という事実を知ったとき、ことりはどんな想いを抱いたのだろう。そして父親は、どんな気持ちで彼女を育ててきたのだろう。考えるだけで苦しくて、思わず俯いた慎司に、ことりが明るく笑ってみせる。

「でも寂しかったことは一度もないよ。私にはおばあちゃんがいてくれたから。今は遠くに住んでるんだけどね、昔はよくうちに来て私の面倒を見てくれたの」

 料理もおばあちゃんに教わったんだよ、と言ったことりが、箸を取り出し卵焼きを摘み上げる。

「うちの卵焼きはちょっと甘いんだよ。食べてみて」

 口元に差し出された卵焼きに、何をされているのか理解して赤面する。

「ちょ、ちょっと待って! 写真、写真撮らせて!」

「どうしたの? 慌てて」

「今このシーンをカメラにおさめたい」

 ことりがきょとんとした顔で卵焼きを差し出している姿をフレームにおさめる。そしてシャッターを切ると、彼女が照れたように笑うので、もう一枚写真を撮った。それからお弁当の写真も忘れずに。

「……何か照れちゃう」

 恥ずかしそうにそう呟く彼女の姿に、胸がきゅんと鳴く。それからことりが上目遣いに慎司を見つめ、食べてくれないの? と言うものだから、ドキドキしながら卵焼きを口に含んだ。

 ほんのり甘い卵の風味が口いっぱいに広がる。ふわふわのやわらかい食感が、今まで食べたどの卵焼きよりも美味しくて、感動してしまう。

「……美味しい」

「本当? よかったぁ」

 嬉しそうに笑うことりに、慎司も嬉しくなる。自然と笑みがこぼれると、あっ笑った! と彼女が声を上げる。

「えっ?」

「筒井くん、私といるときずっと緊張しているみたいだったから。やっと自然な笑顔が見られた」

「そうかな?」

 何故だかひどく恥ずかしくなって、ふいと顔を背ける。そんな慎司の様子にもくすくすと笑うことり。カメラをベンチに置いてカップ麺に手を伸ばすが、麺はすっかり伸び切っていた。それでも彼女の隣で食べるカップラーメンは、何故だか美味しく感じた。


 木曜日。

「今日のお昼は、筒井くんの分も作ってきたんだよ」

 ことりがそう言って差し出したのは、ことりのものよりも一回り大きいお弁当箱だった。蓋を開けてみると、中にはぎっしりとおかずが詰め込まれている。唐揚げにハンバーグ、卵焼き、きんぴらごぼうとほうれん草の胡麻和え、それに加えて大きなおにぎり。

 朝登校するときに、コンビニに寄らないように言われたのはこういうことだったのか、と納得する。

 ことりが作ってくれたお弁当に感動していると、お口に合うか分かりませんが、と言いながら彼女が黒い箸を手渡してくれた。

「いただきます」

 せっかくなのでお弁当を写真に残し、丁寧に手を合わせる。それから端にあるきんぴらごぼうを摘み上げ、一口。少しの甘さとしょっぱさがちょうどいい。思わず微笑んで、美味しいよ、と伝えると、ことりはほっとしたようにため息をこぼした。

「よかったぁ……筒井くんに手料理がまずいって思われたら生きていけない」

 まぁ月曜日には死んじゃうんだけどね、といたずらっ子のように笑うと彼女に、ドキッと心臓が音を立てる。

 忘れていた訳ではない。そもそもことりが写真を撮ってほしいと頼んできたのも、一週間後に自殺するからその思い出作りに、という話だったのだ。

 それなのに慎司は、いつの間にか彼女と過ごす時間を当たり前のように感じ、楽しいと思ってしまっていた。

 月曜日には、彼女は死んでしまう。その事実を再び突きつけられ、何故だかショックを受けた。分かっていたはずなのに、突然理解が追いついたような感覚に、慎司は箸を持つ手が止まってしまった。

「……どうしても、死ぬの?」

 いつかと同じ質問を繰り返す。でも、あの時とは全く違う感情を抱いていた。慎司は今、彼女に死んでほしくないと思っているのだ。

 自殺を引き止める言葉の奥に、以前とは違うニュアンスを感じ取ったのだろう。

 ことりは眉を下げて、困ったような顔をする。それから少しの沈黙の後、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「どうしても、だよ」

 その声はどうしてか、ひどく悲しげに聞こえた。彼女が助けを求めているような気がして、慎司は何か言わなくてはと口を開いたが、言葉は出てこない。

 慎司は知らないのだ。彼女が死にたがる理由も、何かに悩んでいることさえも。

「…………そっか」

 低く呟いた言葉に、ことりが頷く。せっかく作ってもらったおいしいはずのお弁当は、味が分からなくなっていた。


 もやもやした気持ちを抱えたまま、放課後がやってきた。どんなに頭を悩ませてみても、慎司に出来ることは一つしかなかった。

 彼女の写真を撮ることだ。写真をたくさん撮り、思い出を作り、出来ることならもう少し生きていたいと思えるような楽しい時間を過ごしてもらう。出来ることはそれだけだった。

「公園で写真を撮るの?」

 帰り道、ことりの家の近くの公園に立ち寄る。彼女は不思議そうな顔をしてブランコに座った。ただそれだけでも絵になったので、ブランコを漕いでもらい、写真を撮る。

 子どものいない夕方の公園で、滑り台、鉄棒、ジャングルジムなど、遊具を独り占めしながらシャッターを切っていく。

 まるで雑誌の撮影をしているみたいだ、と慎司は思った。ことりがモデルのようにかわいいからかもしれない。どんなポーズ、どんなアングルでも、彼女は綺麗だった。

 一通り遊具を使って写真を撮ると、慎司はずっと撮ってみたかった構図を撮るために、小道具を取り出した。

「麻倉さん、これ」

「なあに、これ?」

「しゃぼん玉だよ」

 まさかしゃぼん玉を知らないとは思わず、驚いてしまう。しかし彼女は父親一人に育てられてきたので、忙しくてあまり遊べなかった可能性がある。もしかしたらしゃぼん玉も、やったことがなかったのかもしれない。

 しゃぼん玉、という言葉を聞き、ことりの目が輝いた。きらきらした瞳に吸い込まれるようにシャッターを切る。

「しゃぼん玉! 私、やったことなかったの!」

 一度やってみたかったんだぁ、とはしゃぐ彼女に、つられて笑顔になる。どこに売っているのか分からず店をハシゴすることになったが、買ってきてよかった、と心から思う。

「このストローに少しだけ液をつけて、ふぅって吹くんだよ」

「ちょっとでいいの?」

「うん。やってみて」

 ことりがわくわくした様子でピンク色のストローに口をつける。それからおそるおそる息を吹き込んだ。

 虹色のしゃぼん玉が顔を出し、ふわふわと空へ舞い上がっていく。

「わぁ……! 綺麗…………」

 一連の流れをカメラにおさめていた慎司も、その声に思わず顔を上げる。夕日を反射してきらきらと輝きながら、ふわりふわりと飛んでいくしゃぼん玉は、確かに綺麗だった。彼女の写真ばかり撮っていたけれど、この光景を撮らないのはもったいないと慎司はシャッターを切る。

 ことりは夢中になってしゃぼん玉を吹いていた。指先でつついて割れてしまうと、こんなに簡単に割れちゃうんだ! と驚いてみせる。

 本当にしゃぼん玉をするのは初めてだったようで、彼女はすっかりはしゃいでいた。その姿が眩しくて、慎司は何枚も写真を撮った。

 ことりの持つしゃぼん液はあっという間になくなってしまった。慎司が持っていたそれをあげると、彼女は子どものように喜んだ。

 夕日としゃぼん玉と彼女。そんなタイトルをつけたくなる写真の数々に、慎司は興奮していた。慎司がカメラを好きになってから三年。今までで一番いい写真が撮れたと自信を持って言える。

「筒井くん、見て!」

 夕焼けに混ざって消えていくしゃぼん玉を指差して、彼女が笑う。

「今まで見た景色の中で、一番綺麗……!」

「……僕もそう思うよ」

 心からの言葉に、ことりは目を丸くし、それからいたずらっ子のように笑ってみせた。

「やっと筒井くんと同じ景色が見られた!」

 今まで何度も彼女の笑顔は見てきたはずなのに、初めて見る自然な笑顔に、慎司は無意識にシャッターを切っていた。

「こんなときでも写真なんだね、筒井くんは」

「ご、ごめん。綺麗な笑顔だったからつい」

「……ううん。そんな筒井くんだから、私は写真を撮って欲しいと思ったんだよ」

 しゃぼん玉をふう、と大きく膨らませて、彼女がこちらを見やる。

「筒井くんの撮った写真があんまり綺麗だから。君がレンズ越しに見ている景色が、私のそれとは全く別物のように美しいから」

 夕焼けが、彼女の表情を隠す。やわらかく静かな声で、ことりは言葉を紡ぐ。

「だから私は、君のことを好きになったんだよ」

「えっ……?」

 ぶわ、と一斉に鳩が飛び立つように、大量のしゃぼん玉が空へ舞い上がる。つられて目で追っていると、ことりが慎司の顔を覗き込んできた。

「筒井くん、明日も綺麗な写真を撮ってね」

 お願い、とやわらかく、そしてどこか泣きそうな笑みを浮かべた彼女は、スカートを翻し、公園の出口の方へと歩き出した。

「あっ待って麻倉さん! 送るよ」

「今日は大丈夫! ありがとう」

 また明日ね。と、心地いい響きの言葉が耳をくすぐる。

 静まりかえった公園で、慎司の心臓の音だけがうるさく鳴り響いていた。


 金曜日。

 彼女は今日も迎えに来てくれた。朝は一緒に登校し、昼も一緒にご飯を食べる。そうして過ごしていると、ことりとの距離が縮まったように感じてしまう。慎司の思い込みかもしれないとも思ったが、レンズ越しに見ることりの表情は、日に日にやわらかくなっているように見えた。

 一日目よりも二日目、そして昨日よりも今日。ことりの写真を見比べていくと、どんどん表情豊かになり、笑顔が緩んでいくように見える。慎司はそれが嬉しくて、何度も写真を見返した。

 特に昨日の写真が輝いて見えるのは、例の告白のせいだろうか。

 ことりは不思議なことに、昨日の告白などなかったかのように、至っていつも通りだった。慎司はすっかり意識してしまい、普通に話すこともままならないというのに。

 それは、告白されたのが初めてだからかもしれないし、相手が麻倉ことりだからかもしれない。ただ一つはっきりしているのは、慎司が彼女のことを女性として意識してしまった、ということだけだ。

 その日は午後の授業を二人でサボった。何か噂されてしまうかもしれないが、残り日数の少ない中で、どうしても昼間のうちにやっておきたいことがあったのだ。

 二人の通う学校の中庭は、植物園のような作りをしている。屋根こそないものの、さまざまな植物が中庭を囲むように植えられているのだ。

 中央にあるベンチに座ると、まるで都会の喧騒から離れ、自然豊かな田舎にやって来たかのような錯覚さえ起こすほどだ。

 そんな中庭は、植物がたくさんあるおかげで、校舎からは死角になっている。だから慎司とことりが二人きりで昼食をとっていても、誰にもバレることがなかったのだ。

「私、授業をサボるのって初めて」

 どこか浮き足だった様子でことりが呟く。

 対する慎司はしょっちゅう授業を休んで、カメラをいじっているので慣れたものだ。一ついつもと違うことは、ことりが隣にいるということで、その一点によりひどく緊張しているのだが。

「どうして中庭なの?」

「植物がたくさんあるから異世界に来たみたいじゃない?」

「あ、それちょっと分かる」

 くすくすとことりが笑いながら、宮殿のお庭みたいだよね、と素敵な例えをあげる。彼女は慎司の写真を褒めてくれて、見ている景色が全く違うとまで言ってくれたが、ことりの方がよっぽど綺麗な景色を見ているんじゃないか、と慎司は思った。

「植物が多いところを選んだのはもう一つ訳があって、撮影に水を使いたいんだ」

「水?」

「うん。雨露と葉っぱの相性がいいように、植物の緑は水の透明感を強調してくれるから」

 慎司の説明に、ことりはなぜか黙り込む。何か気になることがあるのだろうか、と考えて、慌てて声を上げる。

「あっ! 当たり前だけど、モデルさんの写真集みたいに脱いだりしなくていいからね!?」

「えっ、えっと……」

「それにもちろん、麻倉さんには水がかからないようにするし!」

 あくまで水は演出の材料で、主役は麻倉ことりだ。

 絶対に麻倉さんは濡れないようにするから、と念押しすると、彼女は困ったように眉を下げて頷いた。

「たぶんそれなら……大丈夫だと思う」

 どこか含みのある言葉を疑問に感じながらも、慎司は中庭の端に設置されている水道へと移動する。水やり用に常備してあるホースが綺麗なことを確認して、蛇口を捻った。

 そして、中庭の植物を背景に、水がアーチを作るようにホースの位置を調節して固定する。水圧が弱すぎると、途中で水が落ちてことりが濡れてしまうので、強めに設定しておく。

 そこには慎司の思い描いていた通りの絵があった。異世界のような植物の緑をバックに、水で作ったアーチが幻想的な雰囲気を醸し出している。

 あとはこのアーチをことりがくぐれば完璧だ。

 カメラを構え、遠くに立つ彼女を見やる。ことりは、まるで地面に足がくっついてしまったかのように、その場所から動かなかった。

「麻倉さん?」

「あっ、ご、ごめんね。この水の下をくぐればいいんだよね?」

「うん」

 ことりがためらいがちに一歩を踏み出す。そして水のアーチをくぐり抜けようとした瞬間だった。彼女は膝から崩れ落ち、地面に倒れ込んだ。

「麻倉さん!?」

 慌てて水を止め、ことりに駆け寄ると、彼女の喉から不穏な音がする。

 過呼吸だ。慌てて背中をさするも、なかなか治らない。慎司は半ばパニックになっていたが、どうにか彼女を落ち着かせようと声をかけ続ける。

「大丈夫だよ、ゆっくり息を吐いて。そう、ゆっくり」

 少しずつことりの呼吸が正常に戻っていく。縋るように掴まれた手は、ひんやりと冷たくなっていた。

 真っ白な顔色のことりが、唇をはくはくと動かす。どうしたの、と慎司が訊ねると、消え入りそうな声でごめんなさい、と呟いた。

「麻倉さんが謝ることじゃないよ」

 過呼吸は確か緊張や不安、恐怖が原因で起こるはずだ。つまり、ことりに何かしらのストレスがかかっていたということだ。それに気がつけなかったのは慎司のせいだ。

 そういえば、と思い出す。水を撮影に使うと言ったときから、彼女の反応はおかしくなかったか。あまり乗り気でないというか、何か言いたげというか。ちゃんと話を聞くべきだった、と後悔していると、触れていた手がぎゅうっと慎司の手を握る。ドキッと心臓が音を立てたのを無視して、ことりの顔を覗き込む。

「ごめんなさい……私、私ね、水が苦手なの」

「水が苦手?」

「高所恐怖症って高いところがダメでしょ。水恐怖症って言うのかな……水を見ると、どうしても怖くて身体が竦んじゃうんだ」

 俯いたことりは落ち込んだように肩を落としていた。

 言われてみれば、彼女は体育の水泳の授業はいつも休んでいた気がする。男子たちがことりの水着姿を見られないのは残念だ、という旨の話をしていたのを思い出したのだ。

 彼女が珍しく撮影に乗り気じゃなかった意味が分かった。

「ごめん、気がつかなくて」

「ううん、私が悪いの。撮影前に言えばよかったんだけど」

 筒井くんの期待を裏切りたくなくて、という健気な言葉に、胸がきゅんと鳴く。

「そんなことで呆れたりしないよ」

 期待を裏切られたとも、もちろん思っていない。

 それを伝えると、ことりは安心したような目で慎司を見つめ、ありがとうと呟いた。


 その日は学校を早退することにした。残りの授業が体育だったからだ。過呼吸になった後、無理に身体を動かすのはよくない気がして、帰ろうかと慎司の方から言い出した。水が苦手なことに気づいてあげられないまま、水を使った撮影を申し出てしまった罪滅ぼしでもあった。

 ことりは帰る頃には元気を取り戻していた。いつものやわらかい笑みを浮かべ、今日はどこに寄り道しようか、と楽しそうに話をする。

「この時間に制服で出歩いていると、補導されたりしないかな」

「それは困る!」

 うちのお父さん厳しいから、とことりが肩を落とす。そう言いながらもなかなか帰路につこうとしないのは、まだ家に帰りたくないからなのだろう。

 今日はまともな写真も撮れていないしな、と慎司が考えていると、ことりが何かに気づいたように声を上げる。

「駅前のカフェはどうかな?」

 あそこならよく昼間でも制服の子が出入りしているみたいだし、と彼女は目を輝かせる。これは付き合ってあげた方がいいのだろうな、と判断して、慎司は頷いた。

 カフェは程よく混雑していた、そしてことりが言っていた通り、明らかに学校をサボっていると思われる制服の女子たちもいる。なるほど、これなら慎司たちも目立たないかもしれない。

「このお店はね、ラテアートが人気なんだよ」

 そう言ってことりはカフェラテといちごのパンケーキを注文した。せっかくなので慎司もカフェラテを、そしてサンドイッチも追加で頼んだ。

 届いたカフェラテは、確かに見事な出来栄えだった。ことりの前に差し出されたカフェラテの表面にはうさぎが、慎司のそれにはくまの絵が描かれている。ことりがカップを持ち上げ、写真を撮って! とはしゃいだ。数枚写真におさめた後、ことりはようやく満足したのか、カフェラテを飲み始める。しかし間髪入れずにいちごのホットケーキが届き、再び撮影タイムが始まった。

「麻倉さんは何かSNSをやっているの?」

「ううん、全然。今筒井くんに写真を撮ってほしいって頼んだのも、思い出に残るかなぁと思っただけだよ」

 ことりの言葉に納得してサンドイッチを口に運ぶ。たまごサンドはふわふわで、程よくからしマヨネーズが効いていておいしい。ハムマヨネーズも間に挟まれたレタスがしゃきっとしていて、食感も楽しめた。

 ことりはホットケーキを頬張っていて、その様子が本当においしそうだったので、つい写真におさめてしまった。

「あっ私今絶対変な顔してたのに」

「麻倉さんはいつもかわいいと思うけど」

「……そういうこと言うのはずるいと思う」

 はむ、とホットケーキを口に含みながら、彼女が赤面する。もぐもぐと咀嚼する姿ですらかわいいのだから、本当のことを言ったまでだ。

 それでもなんだか恥ずかしいと思うのは、ことりが照れているのが移ってしまったのだろうか。

 照れ隠しにリンゴジャムとマーガリンのサンドイッチを口に運ぶ。それは、やけに甘ったるく感じられた。


 土曜日。

 学校が休みなので、今日はことりと会えない。それが少しだけ寂しいと思うのは、おかしいだろうか。

 昨日の一件があったので体調が心配だ。あとでメッセージを送ってみようか、と言い訳を考えて連絡を取ろうとする自分がいることに気がつく。

 慎司はこれまで撮ったことりの写真、そしてことりが好きだと言ってくれた景色の写真をピックアップしてアルバムを作っていた。

 水色の台紙が白いレースで彩られた、ことりの好きそうなかわいらしい表紙。一枚めくると、彼女を初めて写真におさめた、夕方の中庭での隠し撮りが貼られている。夕日を背景に立つことりは、遠目から見てもかわいかった。

 二枚目以降は時系列で貼っていくことにする。たくさん撮った写真の中から厳選されたものなので、どれも写りはいい自信がある。

 この写真のときはこんな会話をしたな、と思い返しながらアルバムを作っていると、なぜだか涙が込み上げてきた。じわりと熱くなった目頭を押さえ、なんで、と一人呟く。

 明後日、彼女は命を絶つ。慎司はまだ、その理由を知らない。もしかしたら理由を知ることのないまま当日を迎えるかもしれない。

 数少ない分かっていることといえば、ことりが慎司を好きでいてくれている、ということ。そして慎司もまた、彼女を好きになってしまったということだ、

 どうして一瞬でも、彼女が死ぬ瞬間を写真におさめたいなどと思ったのだろう。今となっては信じられない話だが、あの時慎司は確かに歓喜していた。

 ぽつりと涙がこぼれる。

 好きな人に自殺する旨を伝えて、あっさり受け入れられた時、ことりはどんな気持ちだったのだろうか。過去に戻って自分をぶん殴ってやりたい気分だった。

 写真の中の彼女はどれも楽しそうに笑っている。

そのことがまた涙を誘った。

 告白しようと思った。慎司の気持ちを彼女に伝えるのだ。

 ことりが好きだということ。そしてことりに生きていてほしいと思っていること。願わくば、これから先慎司の隣に、ことりがいてほしいということ。

 慎司のちっぽけな言葉では、届かないかもしれない。彼女の自殺を引き止めるには足りないかも。

 なぜなら慎司は、彼女が何に苦しんでいるのかさえ知らないのだから。それでも、ことりが好きだと気づいてしまった以上、生きていてほしいという願いがある限り、伝えないわけにはいかないのだ。

 写真を一枚一枚丁寧に貼り付けながら、慎司はアルバムに願いを込めた。どうかこの想いが彼女に届きますように、と。


 明日、会えないかな?

 そんなメッセージが届いたのは夕方のことだった。差出人の麻倉ことり、という名前を見るだけで、胸が締め付けられる。

 好きだと気づいてしまうと、とたんに意識してしまう。今までどんな風に返信をしていたかさえ思い出せない。さんざん悩んだ挙句、いいよ、とシンプルなメッセージを送信した。

「我ながら素っ気なさすぎる……」

 慌てて過去のメッセージを見返してみる。ことりが絵文字やスタンプを多用してくれているのに対し、慎司のそれはシンプルで事務的なものだった。

 何様だよ、と頭を抱えてみても時すでに遅し。自己嫌悪にモヤモヤしていると、ことりから驚きのメッセージが届く。

 人生で初めてのデートだ!

 文末にはピンク色のハートマークがゆらゆら揺れている。

 慎司は固まった。脳みそから指先まで、ものの見事に動きが停止したのだ。

 数秒後、止まっていた頭が動き出す。

 デート? 誰と誰が? ……麻倉さんと僕が?

 その結論に至るまで数十秒。同時に頰に熱が集まる。顔が熱くて堪らない。

「デート……? この僕が、あの麻倉さんと?」

 うわ言のように呟き、文面を確認するが、やはり初デート嬉しいという内容が記されている。

 初めてのデートの相手が僕でいいの?

 そんなメッセージを送ると、すぐに返信がやってくる。

「筒井くんだからいいんだよ、ってマジか」

 思わず読み上げてしまった内容に、体温が上がるのが分かる。ことりはこんなに積極的だっただろうか。

 告白される前も、告白の後も、あまり態度が変わらなかったように思っていたが、まさかこんなところでアピールされるとは。

 嬉しさと恥ずかしさににやけてしまう口元を押さえながら、慎司はありがとう、と返事を送った。

 それ以上の言葉も言ってしまいたかったが、どうせなら直接言いたい。いや、面と向かって言うべき言葉なのだ。

 明日、初めての告白をする。

 好きだ、と。君に生きていてほしいんだ、と。

 伝えるのだ、最大限の勇気を振り絞って。

 楽しみにしているね、と追加でメッセージを送ると、ことりからは私も! とにこにこマークの絵文字付きで送られてきた。

 そのメッセージを眺めながら、慎司は明日の計画をたてるのだった。


 日曜日。

 麻倉ことりは、私服姿もかわいかった。白のブラウスに水色のカーディガン、スカートはくるぶしまで隠れるロング丈で、小花柄のかわいらしいものだった。

 慎司も今日は気合いを入れて、服を選んできたつもりだが、ことりの隣に立つとどうしても見劣りしてしまう。それは元々の顔面のつくりの問題だと思いたいものだ。

「筒井くん、荷物多いね」

 カメラも持ってきているの? と訊ねられ、もちろん、と頷く。慎司は昨日作った手製のアルバムや愛用のカメラなどを持ってきたため、大荷物になってしまったのだった。

「麻倉さん、どこに行きたい?」

「ん? ホームセンター」

 ドキッとした。彼女が何を買おうとしているのか分かったからだ。

 明日使う、自殺のための道具。どんな方法で自殺をするのかは分からない。それでもきっと、必要なものを買おうとしているのだと思った。

「麻倉さん、話があるんだ」

 ことりが自殺の道具を買う前に、話さなければいけない。告白をして、想いを伝えるのだ。彼女が自殺しようとしていることを知っているのは慎司だけ、つまり、止められるのも慎司だけなのだから。

 しかし、ことりは眉を下げて困ったように笑った。

「そのお話は、お買い物が終わったら聞くね」

「でも……」

「お願い、筒井くん」

 まるで自殺を止められる未来が見えているかのように、ことりが懇願する。慎司は静かに頷いた。

 ホームセンターに着くと、ことりがカゴに入れたのは予想通り自殺に使うと思われる道具だった。ロープにサバイバルナイフ、ガムテープ。

「これって……」

「明日使うの。まだ具体的な使い方は決めていないんだけど、たぶん首吊りかなぁ」

 明日の天気でも話すような言い方で、自身の死ぬ方法を語ることりは、いつも通りの彼女に見えた。それがどうしてかうすら恐ろしく感じて、慎司は一人身震いする。

 レジで担当してくれた店員は、あからさまに不審な目をしていた。当然といえば当然だろう。高校生の買い物にしては物騒すぎるからだ。

 レジ袋は慎司が持った。この自殺の道具を、ほんの少しでもことりから離しておけば、彼女が心変わりしてくれるかもしれないと思ったからだ。

 二人はクレープ屋でいちごカスタードとチョコバナナのクレープを買い、食べながら歩いた。向かう先は二人でしゃぼん玉をしたあの公園だ。

「人生最後のクレープだと思うと、すっごくおいしく感じるなぁ」

 ことりがしみじみ言うので、慎司はたまらなくなって「最後にはならないかもしれないよ」と言った。目を丸くしたことりは、悲しそうに眉を下げて、ぽつりと呟く。

「最後だよ。……最後にしなくちゃいけないの」

 その言葉の意味は分からなかった。ことりが自殺しようとしている理由と、何か関係があるのかもしれない。訊いていいのか、悪いのか。グレーゾーンに当たるそこに触れる勇気は、まだなかった。


 食べるのがゆっくりなことりも、さすがに公園に着く頃にはいちごカスタードのクレープを食べ終えた。慎司はとっくに完食していたので、彼女が食べる姿を目に焼き付けていた。

 ふいに強い風が吹いて、近くを歩いていた親子から声が上がる。赤い風船がふわふわと空へ舞い上がっていった。

 そして目線を戻すと、ことりの長いスカートが、風でひらりと捲れ上がる。慌ててことりがスカートをおさえるが、慎司には見えてしまった。彼女の細い足に存在する、無数の痣を。

「あ、麻倉さん……。その痣、どうしたの」

 声が震えた。訊いてはいけないことだ。頭が警鐘を鳴らしている。それでも訊かずにはいられなかった。

 きっと、ことりが死のうとしている原因はこれだ。そう直感したのだ。

「……見えちゃった?」

 困ったように眉を下げて、ことりが笑う。いつものやわらかな微笑みではない。口角が上がっただけの、作られた笑みだった。

「うちのお父さん、暴力を振るうの」

「それって虐待じゃ……」

「ううん、私が悪いの」

 私が生まれてきちゃったから、と彼女は自分を責める声を上げる。まさか、幼い頃から日常的に虐待を受けてきたのだろうか。

 思い返してみれば、ことりは夏でも長袖のブラウスを着て、薄いタイツを履いていた。身体に出来てしまう傷を隠すためだったのかもしれない。

「毎年お母さんの命日が近くなるとね、酷くなるの」

 ことりはその日を自分の誕生日とは呼ばず、母の命日だと言った。

「私のせいでお母さんが死んじゃったから……お父さんは私が憎いんだと思う」

 愛する人が命をかけて産んだ子どもを、憎むなんてことがあるのだろうか。しかし彼女の身体に残された痣が、その疑問を否定する。きっと痣があるのは足だけではないだろう。身体中につけられているであろう傷を想像して、ひどく悲しくなる。そして同時にハッと気がつく。

「もしかして水が苦手なのも……?」

「……うん。昔、お風呂のお湯に無理矢理顔をつけさせられてね、それから水全般ダメになっちゃった」

「そうだったんだ……」

 そうとも知らずに、慎司は水を使った撮影を提案してしまった。どれだけ恐ろしかっただろう。過呼吸になってしまったのも、当時のことがフラッシュバックしてしまったからかもしれない。

 悪いことをしてしまった、と落ち込む慎司に、ことりは明るい声で言葉を続ける。

「こんな話、誰かにしたの、初めて」

 それはつまり、ずっと彼女は一人で耐えてきたということだ。誰にも相談出来ず、自分のせいだと責め続けることは、相当苦しかったに違いない。

 気丈に振る舞うことりの姿に、胸がぎゅっと締め付けられる。

「……麻倉さんの誕生日っていつ?」

「えっ?」

「その日が近づくにつれて、ひどくなるんでしょ? いつなの」

「…………明日」

 ことりは、自分の誕生日、そして母の命日であるその日に死のうとしていたのだ。

 そのことに衝撃を受けると同時に、ひどく悲しくなった。生まれてきてくれてありがとう、と感謝されるはずの日に、激しい暴力を受けるその心情を想像して、涙が込み上げてくる。生まれてきたことを否定されているような、そんな気持ちでずっと生きてきたに違いない。

「……きっと、このままだと殺されるの」

 でも私は、お父さんを殺人犯にしたくない。

 ことりははっきりとした声でそう言った。だから自ら命を絶つというのか。自分を傷つける人を、命をかけて守るために。

 慎司は持っていた鞄を握りしめ、震える声を上げる。

「麻倉さん。話があるって言ったでしょ」

 ことりの目が、じっと慎司を見つめる。

 心臓が飛び出してしまいそうなほど、ばくばくとうるさく音を立てていた。

「僕は、麻倉さんのことが好きなんだ。これからも生きていてほしいって、そう思う」

「えっ?」

 信じられないとでも言いたげに、彼女は目を丸くする。それから首を横に振り、俯いた。

「ダメだよ、私が生きていたら、お父さんはいつか殺人犯になっちゃう。それだけはダメなの」

 でも筒井くんの気持ちは嬉しい。

 顔を上げたことりは、初めて見る泣きそうな顔をしていた。

「告白って、今までもされたことがあるけど……初めてちゃんと愛された気がした」

 麻倉ことりの全てを受け入れてなお、好きだと言ってくれる人。それは慎司が初めてだ、とことりは泣き笑いの表情で言った。

「嬉しい。告白ってこんなにも嬉しいものなんだね」

「それなら……!」

「筒井くん、ありがとう。好きって言ってくれて」

 どこか突き放すような声色に、慎司は言葉を飲み込む。

「初めて筒井くんの写真を見たときから、ずっと好きだったの。だから、本当に嬉しい。今が人生で一番幸せ」

 ぽつり、とことりの目から涙がこぼれた。それがあまりに美しくて、慎司は息を飲んだ。

「だけどね、私はあの家からきっと逃げられないの。お父さんから逃げることが出来ないの」

 だからごめんね、と泣くことりに、たまらなくなって腕を引き寄せる。ぎゅっと抱きしめて、慎司は彼女の嗚咽を聞いていた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。ことりの泣き声が小さくなり、身体の震えがおさまる頃、慎司はずっと考えていた言葉を口にした。

「麻倉さん、僕と駆け落ちしよう」

「…………えっ、?」

「僕と一緒に遠くへ逃げよう」

 彼女の目に希望の光が灯った。それから、本当に? とか細い声が上がる。

「逃げられるの? お父さんから」

「逃げられるよ、二人一緒なら」

 確信はなかった。それでもはっきりとした口調で、ことりの目を見て言ったのは、彼女に信じてもらいたかったからだ。

 希望はあること。彼女は籠の中の鳥なんかじゃない、人間だ。自由に生きる権利がある。そのことを伝えたかった。

「麻倉さんの家の近くにバス停があるでしょ。あそこで待ってる」

 荷物をまとめて、こっそり家を出てきて、と慎司は言った。

 駆け落ちは思いつきで口にした言葉ではなかった。今朝家を出る時点では、ことりが自殺しようとする理由は知らなかった。それでも彼女が何かに苦しみ、逃げ出したくて自殺を考えているのだとしたら、どこか遠くへ逃げればいいのではないかというのが、昨日丸一日かけて考えた慎司の結論だった。

 慎司自身はすでに荷物をまとめてきていた。だから大荷物になってしまったのだ。大切なものだけを持っていこうと思っても、なかなか選びきれなかった。

 お金はカメラを買おうと思って貯金していたものを全て持ってきた。これで何日もつだろうか。そもそも高校生が二人でどこかへ逃げて、本当に生きていけるのか。分からないことだらけだ。

 それでも、彼女が自殺しようとする理由を知ってしまったからには、もう他の選択肢はなかった。ことりを連れて、父親の元から離れる。それが最善なのは間違いない。

「一緒に逃げよう」

 もう一度繰り返した言葉に、ことりがこくんと頷いた。涙で目の前がにじむ。

 彼女は家に向かって走り出した。どうかことりの決意が揺れないうちに、戻って来られますように。そう願いながら、慎司もバス停へと向かった。

 どれくらい待っていただろうか。バスを二本見送ったので、短い時間ではないだろう。

 近くでサイレンの音が聞こえる。

 嫌な予感がした。冷や汗が背中を伝う。

 この音は、救急車、そして……。

「パトカー……」

 呟くと同時に、慎司は走り出していた。

 予想した最悪のパターンは、ことりが一人で自殺してしまうことだった。自殺のための道具は慎司が持っているが、その場にあるもので決行しないとも限らない。しかし予想は外れた。

 慎司は考えつかなかったのだ。予想していたよりももっと最悪な、ことりが今日父親に殺されるかもしれない、という可能性に。


 月曜日。

 お通夜のような天気の日だった。

 麻倉ことりの父、麻倉亮佑が傷害及び殺人未遂の容疑で逮捕された。

 ことりは一命をとりとめたが、ガラス瓶で頭を割られ、重傷のまま眠っている。集中治療室のガラス窓から見える彼女は、顔が痛々しく腫れていた。きっと激しく殴られたのだろう。どれだけ痛かったか、想像も出来ない。こんなことになるならば、一人で家に向かわせるべきではなかった。慎司が一緒に着いていけばよかったのだ。

 父親を除く唯一の肉親であることりの祖母は、ぼろぼろと泣いていた。どうやら彼女が虐待を受けていることを、祖母も知らなかったようだった。

 彼女は本当に一人戦っていたのだ。慎司に伝えるまで、誰にも話すことなく、ひとりぼっちで。

 父親が逮捕されたことを受けて、ことりの祖母は言った。

「ことりちゃんは私が引き取ります。あの子が大人になるまで、絶対にあの人には近寄らせない」

 ことりの祖母は意志の強い目をしていた。住んでいるところは少し離れた田舎町らしく、祖母の言うことが本当ならば、彼女は転校することになるだろう。

 それでいいと思った。ことりのことが好きだ。彼女のそばにずっといたい。しかしその気持ちよりも、ことりが安心して暮らせる環境を手に入れてほしい。その願いが勝っていた。

 ことりが目を覚ましたのは月曜日の夕方のことだった。個室に移動し、面会謝絶が解除される。

「麻倉さん、おはよう」

 いつものように朝の挨拶をして、ことりの顔を覗き込む。痛々しく腫れてしまった顔ではうまく喋れないらしく、おはようといつもよりももごもごとした口調で答えた。

「お父さんは逮捕されたよ。暴行傷害と……殺人未遂で」

 彼女の目が大きく見開かれる。それから、小さな声で、そっか、と呟いた。

「麻倉さんのことはおばあちゃんが引き取ってくれるって。少し話をしたけど、いい人そうでよかった」

「…………うん」

 歯切れの悪い返事だったので、何か気になることがあるの? と訊ねる。ことりは静かな声で、おばあちゃんのところに行けるのは嬉しいと呟いた。

「でも、せっかく筒井くんと両想いになれたのに……離れ離れになっちゃうね」

 悲しそうな声に、胸がつきんと痛む。慎司は出来るだけ明るい声で、夢があるんだ、と語った。

「麻倉さん、僕の夢を聞いてくれる?」

「夢?」

「春になったら桜の下で麻倉さんと写真を撮るんだ。疲れたらコンビニで買った桜餅を食べて、一緒に花びらまで食べちゃったりしてさ」

 ことりが目をつむる。慎司の語る夢を想像しているのかもしれない。

「梅雨になったら大きな傘を買おう。二人で入っても濡れないくらい、大きな傘。さすのがたのしみになるように、麻倉さんの好きな水色の傘がいいかな」

 そんなに大きな傘があるかなぁ、とことりは笑う。

「夏になったら浴衣を着て夏祭りに行こう。麻倉さんはきっとどんな色の浴衣でも似合うだろうなぁ。それからかき氷を食べて、シロップで色が変わった舌を見て笑い合って」

 ことりがぎゅっと唇を噛む。何かを堪えているような表情だった。

「秋になったら紅葉狩りに行こう。疲れたら麻倉さんの手作りのお弁当を二人で食べながら、ゆっくり紅葉を眺めるんだ」

 彼女の目に涙が浮かぶ。大きな瞳が涙に濡れて、綺麗だった。

「冬になったら雪うさぎを作ろう。いつかのラテアートに負けないくらいかわいい雪うさぎ。寒くなったらコンビニに寄って、ホットココアと肉まんを買って二人で半分こするんだ」

 ぽろぽろと涙がこぼれ出す。ことりは肩を震わせながら、泣きじゃくった。彼女の身体が痛くないようにそっと抱き寄せて、優しく背中をさすった。

「僕の描く夢にはいつも麻倉さんが隣にいる。遠距離なんて関係ない。いつでも会いに行くよ」

「……でもお父さんが」

「麻倉さんはもう自由なんだよ」

 どこにだって行っていいし、好きなことが出来る。もうお父さんの顔色を伺わなくていいんだよ。

 慎司がそう言うと、彼女はしばらく呆然とした後、そうなの? と首を傾げる。

「私、お父さんから逃げられるの?」

「うん。今まで一人でよく頑張ったね」

「…………私、自分が死ぬ以外にお父さんから逃げる方法はないと思ってた」

 筒井くんのおかげだよ、と笑うことりに、胸が痛くなる。駆け落ちしようと提案してのは本気だった。でも彼女は今、大怪我をして入院している。慎司は何も出来なかったのだ。お礼を言われることなんて、何も。

 それでも彼女は笑う。筒井くんが駆け落ちしようって言ってくれなかったら、私は今日自殺していたかもしれない、と。

 ぎゅっと拳を握り、自分の不甲斐なさを責める。それでも、これから先は絶対にことりを傷つけない。そう強く誓ってみせた。

「麻倉さん、もう一つ」

「ん?」

「お誕生日、おめでとう」

 それは、彼女の誕生日を祝う言葉だった。ことりはまるで初めて誕生日を祝われたかのように目を丸くする。

「麻倉さんがこの世界に生まれてきてくれて、僕は嬉しい」

 少し恥ずかしいけれど、嘘偽りのない本音だ。

 ことりの目に再び涙が浮かぶ。

「そんなこと言ってくれるの、筒井くんだけだよ……」

「これから先、いっぱい現れるよ。麻倉さんがいてくれてよかった、っていう人が、たくさん」

 そう言いながら差し出したのは手製のアルバムだ。日曜日に渡せなかったそれは、半分白紙のままだった。

「これ、半分しか……」

「残りの半分は、一緒に撮っていこうよ。これから先、一緒に」

「一緒に?」

「うん。僕の夢、叶えてくれる?」

 麻倉さんが一緒じゃないと叶わないからさ、とおどけて笑うと、彼女の目からぽつりと涙がこぼれた。そして泣き笑いの表情で、喜んで、と頷くのだった。


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