帰宅
「おかえり、テストどうだった?」
家に帰ると台所に母さんがいて、素麺を茹で始めていた。
そういえば今日、自分はテストを受けたのだと思い出しながら、
「普通」と適当に返事をした。そして、僕はぼんやりしながら
出てきた素麺を食べつつ、先ほどの出来事を何度も思い返していた。
なぜ井上君はあんなことをしたんだろう?そもそも彼はどこに向かって
歩いていたのだろうか?簡易裁判所の敷地にゴミを捨てる罪は、
どれくらい重い?やっぱり裁判所だから、あの場で叱られるだけじゃ
済まされなかったかもしれないとか、次々と疑問が湧いてくる。
そして最後に、僕の探偵チックな部分を一番刺激する謎が残った。
あの時、誰がどう見ても井上君は、飲みかけのペットボトルを
「わざと」投げた。それなのに、地面に落ちたそれを見て、
彼はひどく動揺したのは、どうしてなのだろう。
「遊び感覚で木の上に乗せたかったのに、失敗したから?」
「飲みかけのコーラを捨てるのが面倒だったのに隠せなかったから?」
どちらも違う気がした。わざと悪いことをしようとしたやつが、
直後にあんな後悔するような顔をするとは思えない。
「カッとなってやってしまって、すぐに後悔したから?」
僕はそう思い当たると、前にテレビで報道されていた、とある事件の
ことを思い出した。証拠も揃っていて、誰がどう見てもそいつが犯人の
殺人事件だった。けれどその犯人には、元々精神的な問題があった。
そして精神鑑定の結果、そいつは自分で善悪の判断ができず、誰かを殺す
ことさえ止めることができない「心神喪失状態」だったと判断された。
そうして結局、そいつは人を殺したというのに、無罪になったという。
僕はそれを観て、とても驚いた。「この人間には責任能力が無い」と
認められれば、誰かを殺しても、罪には問われないのだ。それはもはや、
「人」として扱われていない気さえする。あの時、井上君がぼんやりと
ペットボトルを見つめていた姿が、どこか虚ろな目をした殺人犯の横顔と
重なって、僕は箸を置いた。
その日の夜、嫌な夢をみた。そこは裁判所、僕は裁判員の一人で、
被告人は井上君。重苦しい空気に満ちた部屋の中央で、一身に注目を
集める彼は、感情も無くうなだれたままだった。
僕は、自分よりも上の席に座っている裁判長の様子を窺った。裁判長は
眼鏡でスキンヘッド、そして痩せていて、日本版ガンジーといった風貌だ。
「有罪がいいと思います」
裁判員の一人が、そう発言した。すると、僕の隣に座っていた裁判員も
「有罪に賛成!」と大きな声を発した。そして次々に、僕を除く裁判員
達から「あぁ、有罪だ」「絶対に有罪ですよ」「そうだ!有罪に決まって
いる!」と、井上君の罪を非難する声が上がった。僕はどんどん恐ろしく
なって周りを見渡すと、いつの間にか満員になった傍聴席には杖を持った
あのお爺さんが立ち上がって、「ほらな!やっぱり有罪だ!!!」と
唾を飛ばしながら叫んでいた。そして、最も後ろの席でただ一人、
妊婦の女性だけが何も言わず、井上君のことを見つめていた。
つられて僕も、井上君を見た。だが、裁判所が揺らぐほど罪を訴える
声が響く中、彼はやはり下を向いたまま、何も答えない。
「静粛に!」と言いながら、ガンジーみたいな裁判長がガンガンと、
机の上に置かれた木製のハンマーを鳴らした。すると、急にしんと
静まり返った法廷内で、裁判長が一言だけ、井上君に尋ねた。
「あなたは、人間ですか?」
その言葉に、井上君は初めて、その顔を上げた。
彼は笑っていた。そこには、感情が全く伴っていない、空虚でどこか
底知れない笑顔が貼り付けられていた。僕はパニックになって、
こんなにも恐ろしい表情をするなんて、彼は人間と呼べるのだろうかと
逡巡していると、井上君は僕のことを見つけて、その笑顔をこちらに
向けた瞬間、「わああああっ」と僕は叫んでしまい、目を覚ました。
バクバクと音を立てる心臓に、暗闇の中、浅い呼吸を繰り返しながら
スマホを手に取る。まだ夜中の2時。こんなの、悪夢以外の何物でもない。
もう井上君のことは忘れてどうにか眠ろうと、僕はスマホでお気楽な動画を
必死に探すと、寝落ちするまで延々と見続けた。