犯行現場
その日は期末テストの最終日だった。あぁ、英語は特に厳しかった。
回収されていく地獄の解答用紙を見届ける今の僕の気持ちは、なんとも
清々しい。英語のテストを集め終わった担任の山ちゃん先生が教壇の
上に立つと、両手をパンパンと叩いた。
その音に、僕らは山ちゃん先生の方へと注意を向ける。
「明日から休みだからといって気を抜かないように。来年は受験ですよ」
そうして山ちゃん先生が簡単に話を終えて、教室から出て行く。
すると、クラスは一気に解放感に包まれた。中学2年の6月。
私立の中学校だからといって、来年には高校受験があると釘を刺されても
正直、ピンと来ない人の方が多いだろう。時計を見れば、もうすぐ昼に
なろうとしていた。午後は完全に自由で、しかも明日は土曜日となれば、
この束の間の休暇は、期末テストを終えた僕らへのご褒美のように思える。
クラスを見渡せば、教室に残ってテストの出来を話し合ったり、さっさと
部活に向かったり家に帰ったりと、みんな好き勝手していた。僕も友達と
少し話をしてからリュックを背負うと、カラリと晴れた外に出る。
今日の昼飯はきっとまた、素麺だろう。
夏服の半袖シャツから出た腕に当たる日射しが、じりじりと熱い。
春と夏の季節の変わり目を感じながら、僕は一人、黙々と家に向かって
歩いた。ふと顔を上げると、前の方に、同じクラスの井上君の姿を見つけた。
彼は少し先の横断歩道を渡っている途中だ。僕はそれに気づくと、わざと
歩くペースを落として、その横断歩道が赤になるのを待つ。そうして僕は
立ち止まると、井上君が一人で歩いて行く姿を眺めていた。
僕は彼と、仲が悪いわけじゃない。けれど、足を早めて「一緒に帰ろう」
と声を掛けるほど、仲が良いわけでもない。しばらくして信号が青に
変わると、僕はバレてもバレなくても、お互い気まずくならないような
距離を保って歩き始めた。
彼とこうして下校が一緒になるのは、珍しいことだった。確か井上君の
家の方向は、こっちではなかった気がする。もしかすると、この先にある
大きな本屋にでも用事があるのかもしれない。テストが終わって気楽な僕は、
どこか探偵気取りでそんな推測をしながら歩き続けた。そして、自分は
わざと彼の後をつけているのではなく、家がこっちにあるのだから仕方が
ないと思いながらも、意識がつい彼へと向かってしまい、まるで尾行する
ようにチラチラと見ていた。
彼はクラスの中でも背が高く、普段は目立つグループで過ごしている
のだが、決して騒がしいタイプではなかった。勉強はそこそこで、英語を
除けば僕の方が上だ。半袖シャツから伸びた白い両腕が、右に鞄、左に
小さなペットボトルを持っていた。
あの鞄は入学当初、学校側が買わせようとする高価なものだ。学校
指定ではないので僕はリュックを使っているが、井上君は初めからずっと、
その鞄を持ち続けているようだった。左手に持っている、赤いラベルの
小さなペットボトルはコーラだろう。飲みかけらしく、小さな容器の中で
気だるそうに揺れていた。テストから解放されたせいか、彼はいつも以上に
のんびりとしていたけれど、どこか退屈そうにも見えた。その後ろ姿を
ぼんやり眺めていると、うっかり追いついてしまいそうで、気づけば
本屋も通り過ぎていた。
だが、この先にある道を曲がれば、もうすぐ僕の家に到着する。
彼がどこに行こうと正直どうでもいい僕は、さっさとその道で分かれて
しまおうと、歩くペースを上げた。すると、井上君が分かれ道の手前で、
いきなりペースを落とした。僕は予想外の行動に驚いて、つい足を
止めてしまった。傍から見ればその時の僕は、とても怪しいやつだろう。
井上君は、生い茂る緑に目を向けていた。僕もその目線の先を追うと、
そこは簡易裁判所の敷地だった。色々な種類の植物がきちんと管理されて
いて、道行く人々にその美しさを分け与えるような場所だ。僕達がいる
歩道と敷地の間には低いフェンスがあって、井上君はじっと、その
フェンスの近くで、鮮やかな緑色を見つめている。僕も目をやると、
青々と茂る木々の向こう側に、確かな存在感で佇む無機質な建物が
目につく。重々しい見た目でやけに威厳ある、あの建物がきっと、
簡易裁判所だろう。そこで裁判をしているのだと思うと、通いなれた
道であっても、どこか緊張してしまう自分がいた。それを和らげるためにも、
こうして整然と草木が植えられているのかもしれない。
井上君は立ち止まったまま、一向に動こうとしない。彼の目の前には、
大きなキンモクセイの木があった。この木は秋になると黄色の花が咲き、
思わず顔を上げるほど、華やかな香りがしていたのを覚えている。
だが、今は花も咲いていないし、どう見てもただの木だ。何が彼の気を
引いているのか分からないし、このままでは埒が明かないので、もう
思い切って声を掛けようとした瞬間、突然、井上君はポーンと、
大きく左手を振り上げた。
飲みかけのコーラのペットボトルが、晴れた空のもと、大きな木の中に
吸い込まれていくのを僕は見た。スローモーションになった世界で、青空を
くるりくるりと、コーラの赤と黒が軽やかに回転する。そして、鮮やかな緑に
消えていく。だが、ペットボトルが木にぶつかって、カサカサと音を立てると、
確かな重みを持って地面に落ちた。そして、フェンスの向こう側に、
異質な赤と黒が残された。ハッと現実へ戻った僕は、思わず井上君を見た。
彼は、落ちたペットボトルを、ぼんやりと見つめたままだった。だが、
僕よりも少し反応が遅れただけで、次の瞬間には彼も、なぜかひどく
動揺した表情を浮かべた。
「こらーっ!お前、なにやってんだ!!!」
大きな声が聞こえて、僕も、井上君もビクッと体を震わせた。
井上君の向こう側に、帽子をかぶって、杖をつくお爺さんが見えた。
その人は怒りを露わにしながら、杖を地面にガンガンつき立てて、
井上君に近づいて行く。その迫力に僕達は焦り、身動きなんて
取れなかったし、何も言葉を発することができない。
「お前!ゴミか何かを投げただろっ、見ていたぞ!」
お爺さんはすごい剣幕で、井上君を追い詰めるように間近で見上げた。
たじろぐ井上君はお爺さんよりもずっと背が高いのに、なんだか
小さく見える。そして、お爺さんはフェンスの向こう側に落ちている
ペットボトルを杖で指しながら、
「お前があれを捨てたのを、俺は見ていたぞ!」と、言い逃れできない
証拠を見つけた刑事のように、犯人である井上君を鋭く睨みつけた。
言葉を失ったまま井上君は抵抗もできず、下を向き、力無く
立ち尽くしている。僕はそれを見て、駆け寄る勇気は出なかった。
むしろ、同じ制服を着ているから仲間だと思われるのではないかと
咄嗟に考え、サッと電柱の影に身を隠したくらいだ。
お爺さんは杖で何度も、敷地の中に入ってしまったペットボトルを
指し示し、井上君の「罪」を責め立てた。通り過ぎる人達がジロジロと
横目で見ていたが、平日の昼間で忙しいらしく、みんな面倒ごとには
巻き込まれたくないので足早に去っていく。そして、ずっと黙ったまま
反応が無い井上君に、お爺さんもやり方を変えてきた。
「どこの学生だ?」
恐ろしいことに、そのお爺さんは、絶対に答えられる質問に切り
替えてきたのだ。それでも、井上君は真っ直ぐに口を結び、なぜか
答えようとしない。このままでは彼の立場が悪くなる一方だと思い、
僕は助けたいけれど、どうしたらいいのか分からずに、2人から
目を離せずにいた。そして当然、井上君の態度を気に入らない
お爺さんが、再び語気を強めようとした時、「どうしましたか?」と、
女性が声を掛けた。
女性は心配そうに、お爺さんと井上君の顔を見比べている。
その人は、離れていてもお腹が大きいことが見て取れて、どうやら
妊婦らしい。お爺さんもそれに気づいたのか、第三者の介入に一呼吸
置くと、その目で見たことをそのまま伝えた。話を聞き終えた
その女性は「そうですか」と頷くと、とても悲しそうな表情で井上君と
向き合った。そして優しい声で、
「君も、説明してくれるかな?黙ったままだと、分からないよ」と、
穏やかな口調で尋ねた。それはまるで、幼稚園児くらいの子どもを
相手にしているような聞き方で、僕はなんだか見ていられない気持ちに
なってきた。それでも井上君は目を伏せたまま答えず、女性は困った
表情を浮かべる。すると、しびれを切らしたお爺さんがフェンスの
門を通り、簡易裁判所へ向かって行ってしまった。
女性は慌てて「ちょっと待ってください!」と呼び止めたが、
どうやらキレてしまっているお爺さんは聞く耳を持たない。
すると、井上君はその瞬間、初めて顔を上げた。
あぁ、彼は今、駆けだそうとしている。その場から逃げ出そうと
しているのだと僕は感じ取った。僕と同じように、女性もそれに
気づいたようだった。
「逃げないっ!」
その強い言葉で、井上君はハッと動きを止め、初めて、女性を見た。
女性は真っ直ぐ、井上君のことを見ていた。その人は妊婦だから、
井上君が走りだしてしまえば間違いなく逃げ切れる。だが、彼は
そうすることができない。その女性の瞳が、毅然とした大人の態度が、
彼を動けなくさせていた。そして、戸惑う井上君を諭すように、
その女性は冷静な口調で話し始めた。
「その制服、どこの中学か知ってるよ。それに今逃げたら、
あのお爺さん、あなたのことを見つけるまで探すかもしれない。
もっと大ごとになってもいいの?中学生なんだから、自分がやった
ことにちゃんと向き合いなさい」
その声には、どこか鬼気迫るものがあった。それまでの優しい態度は
一変し、女性は険しい表情で井上君を見据えている。彼は少し迷い
ながらも、完全に諦めたらしく、再び力無く地面へと視線を落とした。
木々の向こうから、杖をついたお爺さんが「あいつだ」と言いながら、
簡易裁判所の敷地を管理しているらしい作業着姿のおじさんを連れて
来るのが見えた。僕はもう、これ以上この場に居られなくなって、
背を向けた。そして来た道を引き返し、やっとの思いで自分の家へと
辿り着いた。