ワスレナグサノキヲク × 肆
旧華族邸宅として屈指の敷地面積を誇る櫛名田子爵邸―――
その屋敷地を、彼らは自身により『聖域』と呼び慣わし、室町末期の頃から『神社の境内』として護り続けてきた。
そして 世が明治と改まってからも、この地をそのまま『累代の所有地』として新政府に認めさせ、周囲に強力な結界を張り巡らせることによって、度重なる戦火や災害などからも護り抜き、今日に至るのである。
この櫛名田邸内には 主屋が二棟存在しており、それらは各々 西側が『洋館』、そして東側が『和館』と称せられていた。
このような形態を成すものは 他の華族邸宅では殆ど見られず、離れが幾つか存在するといった例は勿論 複数件あるものの―――
櫛名田邸のように、まるで広さを持て余して二つ建ててしまった…… とでもいったような節操情緒のなさは、一体どうしたことであろう。
実のところを言えば、昭和期の屋敷の再建当時、一族内で邸宅の設計をどうするかが話し合われた席において、『洋館 / 西洋式庭園』が良いとの玉依・槍慈組に対し、まだ宗像子爵家から嫁いできたばかりであった新妻 瑞穂の希望は『和館 / 和風庭園』であり―――
またそれに、離れの茶室も併せて設けたいというものであった。
その家族会議の席上、瑞穂は常にふぅわりとした面持ちで終始 にこにことしながらも、新参でありながら自らの意思は頑として譲らず―――
結果、槍慈は一瞬で瑞穂の側に寝返ったものの、玉依もまた西洋式に強く拘って頑なに譲歩しなかったため、致し方なく『和洋二棟の主屋』と『二種類の庭園』を持った、国内でも珍しい様式の華族邸宅となった訳である。
しかしそれが、今となっては文化財としても非常に貴重なものとなり、また現在も現役で旧子爵家の末裔一族が棲み…… いや、住み続けている建造物であることから、一部の邸宅マニアたちの間では異様な人気を誇る 超優良有形文化財物件であるらしい。
しかしながら――― この物語の中では、それは余談。
その和館の離れである茶室前で―――
この日、およそ74年ぶりの再会を果たしていたのが、前当主夫人である櫛名田 瑞穂と、そして 当時まだ11歳の少年であった三峰 滝次… なのであるのだが……。
漸くにして念願叶い、瑞穂との感動の対面を果たした彼のその姿は、紆余曲折あって、あろうことか黒猫の姿に成り替わっているという面妖な状況であった。
「えぇっとぉ…… アナタ、玉ちゃん… なのよねぇ……?」
話し方や佇まいなどに若干の違和感を覚えたのか、瑞穂は目の前の黒猫を独特な間で しげしげと見つめ、顎に軽く手の甲を添えて小首を傾げている。
それに対して黒猫滝次の方も、待望の再会を果たした喜びは一入でありながら、それよりも相当に大きな疑念の渦に苛まれ、ただただ呆然と目の前の瑞穂の姿を見上げていた。
これは… 何という……
紛うことなき、本物の瑞穂様だ……
当時のお姿のままの、大変にお美しくお淑やかな……
だが…… だがしかし―――
これは一体、全く以て どういうことにゃんだ!?
そうした困惑も無理はない。
黒猫滝次は現在85歳であるのだが、それに対し更に年長であった瑞穂は、今年で108歳となっているはずであり―――
しかしながら、目の前の彼女は どう見ても20代後半か30歳そこそこといった、本当の意味での『当時の姿のまま』なのである。
今日の滝次にとっては、昼頃から今現在までのほんの数時間の間、本当に様々な不可思議極まりない出来事の連続であった。
八十年近くも前に見知っていた黒猫が家に現れ
あまつさえ、その猫が人語を喋り出し
それが更に「実は宇宙人である」などと宣い
その宇宙人猫と自分の身体をそっくり入れ替えられ―――
そして、もう完全に諦めていたはずの『瑞穂との再会』を果たし得たものの、目の前の状況は、もう『どう考えても普通ではにゃい』のである。
黒猫滝次は混乱し 本来の目的も忘れ、また再会出来たことへの喜びは言うに及ばぬものの、それよりも疑問の方がどうしても先に立ってしまって如何ともし難く―――
そうなるともう思考は完全に白化停滞し、ただただ大きな金色の目をあちこちに泳がせつつ、まだ扱い慣れぬ身体をもぞもぞと拗らせたり毛を逆立ててみたりしている他はにゃいといった 体たらくである。
しかし そうこうしていると、瑞穂が突然「あらぁ?」と言って手を伸ばしてきた。
かと思うと、黒猫滝次の首から下げられた『青い花の栞』に少し触れ…… そして唐突に、両手を「ぱんっ」と合わせると言ったのだ。
「ねぇ、アナタもしかしてぇ…… 三峰さんのところの… 弟さん? えぇーとぉ… お名前はぁ………… たき… そぉそ、滝次さん! ねぇ、そうよねぇ!?」…… と。
黒猫滝次はその言葉を聞くと まるで弾けるように慌て驚き、そして それまで完全に思考停止し悲嘆の景色一色であった頭の中は、再び様々な光彩を放つ電気信号で目まぐるしく逡巡し始めた。
それは、彼がこれまでに体感したこともないような、正に痺れて焼き切れそうになる程の脳神経細胞の乱酷使であったろう。
何故だ!?
一体どうして お解りになられたんだ!?
持ってきていた『青い花』で何事かを思い出された… というのはまぁいい
けれども儂は今、黒猫の姿になっておるんだぞ!?
滝次のこと自体、覚えて下さっておるかどうかも危ぶんでいたというのに……
それに、そもそも猫が喋っとること自体、特段おかしいと思われているご様子もにゃい
いやぁ それどころか、この黒猫がお玉さんではにゃいということすらも
瑞穂様にとっては『想定内』だとでも仰られるのか……
いやいやぁ、普通であれば そんなことを思うはずがないではにゃいか
……………… そう、『普通なら』… にゃ………
と言うことは…… もうこれしか考えられん……… のか?
う~ん… とても信じられん話ではあるが……
もうこの結論しかにゃいだろう
そう、『瑞穂様も宇宙人』であったのだ!!!
「あっ そぉそ、ワタシは『宇宙人』さんでは、ありませんからねぇ~ うふふっ♪」
えぇぇぇー、もう!!!
せっっっかく それなりに腹を括って
儂の理性に巣喰う固定観念どもを
ばっさりと薙ぎ払ってまで折り合いつけたというのに!
じゃあ一体、どういうことにゃんだぁぁぁあ~!!?
◇
瑞穂は、荒れ狂う黒猫滝次をまずは宥め賺し―――
そして、滝次がこの姿で現れたことから おおよその事情を察した旨とその経緯を、ひとつひとつ丁寧に説明してやった。
まずは改めて、自分が嫁いできたこの家が『宇宙人一家』であること
自分は地球人だが、この家に嫁した際に身体をいろいろと改変されたこと
また、この家のモノたちには様々な特殊異能力と優れた先進技術があること
そして何より、自分たちは通常の地球人の優に百倍は長寿であること
だから、猫が喋ったり身体が入れ替わったりなどということは
別に『よくあること』くらいにしか思えないような日常に、身を置いて暮らしているのだということ
そして―――
「昔、アナタに差し上げた このお花はねぇ? そぉんな不思議なこのお家のお庭で生まれ育ったものなの。 だからぁ…… それで今でも、こぉんなに色鮮やかで とぉっても綺麗なのよぉ♪ 本当、吸い込まれそうなくらいに澄んだ青色…… ねぇ、アナタもそう思わない?」
と、屈託のない ふぅわりとした満面の笑みを湛えて、そう黒猫滝次に問うてくる。
「えぇ… はい、本当に…… 」
滝次は、どうやらもうすっかり心の動揺や昂りを落ち着かせることが出来たらしく、屈んでにこやかに語りかけてくる瑞穂の足元に寄り添うと…… 彼女の顔を見上げながら、時折耳をぴくりとさせつつ じっと黙ってその話を聞いていた。
だが、何故だろう。
心はちゃんと落ち着いた…… 落ち着いたはずなのであるが―――
またも胸の本当に奥深いあたりから、『何か』が大量に溢れ出してくるような感覚を覚える。
そうなるともう、自分でもどうしようもないくらいに 目から大粒の涙をぽろぽろと…… それはそれはたくさんの数の雫をぽろぽろと、地面に幾つも落としてしまうのだ。
そんな様子を見て瑞穂は、黒猫滝次の黒く小さな体をひょいと抱え上げる。
まるで、泣く子をあやすような優しさで…… ゆらりゆらりとした愛しさで……。
◇
世の中には、信じられないような不思議なことがある
だが、「信じられぬ」ということは、偏に自分の知識の浅さ
そして、それに倍する度量料簡の狭さのせいに他ならない
特に、儂のように物旧りたつもりの老人となり
この世の全てを知ったような気になって
頭をかちこちに凝り固まらせてしまったならば
今日のような粗忽醜態を晒すのは
至極当然の結果ではないだろうか
生い先短いこの後に及び
このような些細で大事な理に
よもや気付かせて貰えることになろうとは、何と幸いであることか
そしてまた、こうした普通で奇妙で幸せな
素晴らしい巡り会わせと これまでの全ての事々に
心からの感謝を申し上げたい
アリガトウ
◇
瑞穂の暖かな腕の中に抱かれ
どれくらいの刻が経っただろう
先程 零した大量の涙のせいか
顔中の毛が ぱりぱりしてちょっと可笑しい
何だか喉が渇いたにゃ……
そんなことを思いながら、瑞穂に抱えられて微睡んでいると―――
最後に瑞穂が、急に思い出したように教えてくれた。
「そぉそ… そう言えばアナタ、このお花の名前はご存知ぃ?」
そう問われ、黒猫滝次はひょいと顔を上げて ふるふると子供のように首を振る。
そうすると瑞穂は微笑んで、悪戯っぽい笑みを浮かべて言うのだった。
「このお花はねぇ……『勿忘草』って、いうのよぉ。 うふふ♪」
黒猫滝次としての記憶と五感は、何故かそこでふっつりと途切れた。
心地良くはあるが真っ暗な空間を漂うような感覚の中、遠くで微かに瑞穂と…… そして知らない人物の声が聞こえたような気がした。
あらぁ 鹿沼先生ぇ、ごきげんよぅ♪
それじゃぁ この子のこと、お願いねぇ?
はい、瑞穂様
なぁに、いつもやってることですからな、ご心配なさらず
カレが知ってしまった『肝心な部分』の記憶を処置しておくようにと
先刻、中佐殿から承っておりますのでね
先生ぇ… どうかくれぐれも、痛くしないであげてねぇ
そぉそ… あと、このお花のことくらいは消さずに…… ねぇ?
あ、そぉだ! … れと身体… あち…… もねぇ……
せっか…… から 治…… てあげ…… ぃ… けれ…………
◇
滝次は、台所から漂ってくる夕餉の香りに激しい空腹感を覚えて目を覚ます。
いつも通りの静かな家の中の空気。
カチャカチャという炊事の音と共に、しず姉の足音が時折聞こえ、その響きが床に敷かれた布団を通して 背中からも微かに感じられる。
何か、とても良い夢を見ていた気がするなぁ
そう、遠い遠い昔の夢と…… あとは、とても懐かしいお方の夢
内容までは詳しく思い出せないけれど
その風景には確かに、鮮やかな『青色の光』が差し込んでいた気がする……
それにしても、どうしたことかものすごく身体が軽い
呼吸も至極 楽ちんだ
頭は冴え、何事をも受け止められそうな心の余裕もある
気力も、恐らく歳の割には結構 漲っていそうだし
今すぐにでも起き上がりたい衝動に駆られてしまう
そうして滝次は ゆっくりと、しかしごくごく自然に半身を起こす。
今朝までは間違いなく体中にあった きしきしと音が聞こえるような痛みも、今は嘘のように消えている。
嬉しさと戸惑いが ない交ぜになりながらも、試しにそのまま立ち上がってみる。
なんだ、平気で立てるじゃないか
滝次はそのまま、夕餉が置かれ始めている居間の卓袱台のところまで歩いて行き、昔よく自分が座っていた場所に今でも座布団が置き敷かれているのを観止めると、膝や腰に痛みを覚えることもなく すとんとそこに腰を下ろした。
滝次の分と思われる茶碗には、梅干しののった粥が少量盛ってある。
普通の飯を、もう少したくさん食べたいなぁ
そんなことをぼんやりと考えながら、テレビが点いていたのでそれを眺めてみるが―――
いつもより視線が高いせいか、もしくは耳目それ自体が良くなったものであるのか、画面が隅々まではっきりと見え、音も良く聞こえる気がする。
「なぁ しず姉ちゃん、今日の夕飯のおかずは何かねぇ?」
思わず 至極普通に、台所にいる しず江に声を掛けてみる。
しず江はその声に驚き、振り返って暫し呆けたように滝次の方を見つめると、持っていた金属製のおたまを流しの中に ガチャリと取り落とす。
すると その音で我に返ったのか、顔をくしゃくしゃにして泣きながら大声で何事かを言うと、滝次の方によろよろと駆け寄って、強く強く抱き付いた。
滝次は、泣きじゃくる愛しい姉の細く小さな身体を抱き留め―――
「しず姉、結構 力強いなぁ」
などと笑って言いながら、ふと 部屋の隅で丸くなっている一匹の黒猫に気付く。
この猫は…… 確か『黒ちゃん』とかいう、ここらの野良猫だったか
黒猫は、二人のその様子を横目使いに少しだけ見遣ったものの、さもつまらなさそうに大きな欠伸をすると、またすぐに寝入ってしまった。
何とも太々しい様子であるのだが、それを見て滝次は―――
「ははぁ、相も変わらず 可愛げのない黒猫様だなぁ」
と、特に気にすることもなく『いつも通りだ』という気になっていたのだが……。
何故この愛想のない野良の黒猫に『様』などという呼称を付けたのかは、滝次自身にもよくは解らなかった。
その後は「ほらほら」と姉を促し 自らも共に立ち上がると、台所から夕餉を運ぶのを手伝い始めた。
『ワスレナグサノキヲク』 …… 完
< 旧家 ❀ 櫛名田一族の聖域【余噺譚】>
このお話は、第4話にて一応の完結となります。
ですが、この後にもう少しだけ―――
エピローグ的な『後日譚 (台詞のみの構成) 』をご用意致しておりますので、
宜しければ是非、ご覧いただけますと幸甚です。
それではどうか今後とも、
『旧家 ❀ 櫛名田一族の聖域』を、宜しくお願い申し上げます。
漣 ✾ 黒猫堂 拝