ワスレナグサノキヲク × 參
三峰家の南側に設えられた小さな縁側―――
そこには、しず江の後ろ姿を見送る一匹の黒猫の姿があった。
どうやら彼女は、除菌用のスプレーを買いに出かけるらしい。
しず江め…… ワガハイを完全に病気持ちの猫と決めつけおってからに
「ふん… にしてもだ、なかなかに良く手入れされておる庭ではにゃいか……?」
黒猫は そう独り言ちると、滝次の方を振り返って小首を傾げる。
確かに、庭木はどれも手入れが隅々まできちんと行き届いており、また 澄んだ水を湛える小さな池には、紅や白色の金魚までが きらきらと泳ぎまわっていた。
これらのことを、しず江がたった一人で手間暇かけて維持している…… などとは、到底思えない。
滝次は、首を傾げながらじっと見つめてくる黒猫の様子を、半ば放心したように暫し見返していたが―――
やがて自分が発言を促されているのだということに気付き、漸く我に返る。
「んあ? ぁああ゛~…… ぅぅ、うちん庭ぁのぉ… 手ぇ入れぇぇ……? そ… そいづはぁぁ…… く… 櫛名田ぁ様んとごのぉぉぉ…… ぁぁぁあ~… まぁ… まぁごめぇ…? さんとやらがぁぁ… よぉぐぅ…… 来でぇぐれでぇぇ…… はいぃぃ…… 」
「ん? あぁ、馬籠軍曹か…… うちの庭師役をやっておるモノだにゃあ。 そうか、アイツそんなこともやっておるのか」
そうそう、三峰の家のモノらとは、確か瑞穂のヤツが昔っから随分と親しくしておったよにゃあ
では、瑞穂の指示で馬籠のヤツが…… 成る程にゃ
「ではあれか? うちの瑞穂とは、今でもたまに話をしたりしておるのか?」
と、黒猫…… 今は『黒ちゃん』こと 櫛名田 玉依が口にした瞬間、滝次の表情や佇まいが一変した。
「!? み…みみぃ…… みぃずほぉぉぉ…… さまぁ… ですどぉぉぉおお!!?」
滝次はこれまでにない程 気迫のこもった眼で、玉依を 喝っと見据えて問い返す。
「わっ… 何だ一体…… 吃驚するではにゃいか。 どうした突然…… 瑞穂のヤツが何だというのだ?」
「み… みぃずほぉぉさまはぁぁあ…… まぁだ、ごご ごけ… ごけんざいぃ… なぁんですかぁぁあい!?」
と、そこで漸く玉依も、自らの失念と失言に気付く。
あぁ… そう言えば瑞穂のヤツ、確か今年で108歳だとか言っておったにゃあ……
櫛名田家に嫁いで生体強化やら遺伝子改変やらを身体に施されておらねば、もうとっくに逝ってしまっておる年齢か
ふむ… 昔を知るであろうコイツに今の話をするのは、ちとまずかったにゃあ……
すると滝次は、急に目に涙を浮かべながら蒲団から這い出し、玉依の方に鬼気迫る表情で近付いてきた。
「ぅわ!? にゃにゃ… 何だどうした!? 怖いから取り敢えず落ち着け…… 近い近い! それ以上こっちへ来るにゃ!」
玉依はそう言って辟易ろぐが、滝次は尚もぐいぐいと迫ってくる。
「みみ… みぃずほぉ… さまぁにぃぃぃ…… ひとめぇ お会いぃぃ しでぇぇえ……。 ぉお…お礼をばぁ…… どうがぁぁぁ…… 」
滝次は瞳を潤ませ顔をくしゃくしゃにし、震える掌を合わせて拝み込むような勢いで懇願してくる。
何だ、礼だと?
急に必死になりおって… 一体どういう話なんだにゃ……
そして、玉依は瞬時に様々な考えを巡らせる。
先程の様子から察するに、コイツは瑞穂の健在を知らなかった
いやまぁ、それは当然だが… と言うことはだ……
相当な昔に、ある特別な何かがあった… ということなのであろうにゃあ
ほぉ? ふぅ~~~ん、成る程―――
「ふふん…… おい滝次よ、ワガハイがそのオマエの願いを、叶えてやらんことも…… にゃいぞ?」
その言に、滝次は 自らの遠くなった耳を一瞬疑い、しかしどこか得意げな玉依の にゃあとした顔を見つめると、それに縋るような思いで心の丈を滔々と口にした。
今からおよそ七十年以上も前、瑞穂が自分の『願い』を聞き届けてくれたこと
今現在 自分たちがこうして生きていられるのも、瑞穂の尽力のお陰であること
そして、もし叶うなら……
この世を去る前にひと目会って、どうしても感謝の念を伝えたいこと
その他、櫛名田邸の『青い花』の記憶などについても、思い出せることは全て語り―――
そして粗方の想いを話し終えた頃には、もう息も絶え絶えといった体であった。
そうして滝次は、部屋の隅まで よろよろとはしつつも懸命に力を振り絞って這って行くと、そこに置いてある木箱から 件の『押し花の栞』を取り出す。
それを震える両掌で大事そうに包み持ち、玉依に向かっておずおずと差し出した。
「ほう…… この薄汚れた紙の札が、当時 瑞穂から貰った花で作ったものであると… そういうことなのだにゃ?」
玉依の問いに うんうんと首を縦に振る滝次。
そして 震える節くれた掌の中のそれは、台紙の部分こそ茶色く変色し ぼろぼろに傷んではいるものの、そこに貼り付けてある『青色の花』自体の鮮やかさは、まるでついさっきまで元気に咲き誇ってでもいたかのような、異様な生気に満ち溢れたものであった。
この気配は…… ふん、成る程――― 屋敷の『聖域』のチカラか
ふむ…… 滝次が持つ特殊な能力、そして何より この花自体の特異な変容も、なかなかに興味深い
此処はひとつ、その『願い』とやらに乗っかってやり、いろいろ調べさせてもらうとするか
それに… そう、コイツの『記憶』の方も 少々いじくっておかねばならんしにゃあ
かつて、櫛名田神社のご神体として崇め奉られていたこともある、玉依こと『涅之玉依』。
神様だったという割には、願いを叶えるにあたっての計策や打算はいちいち吝い―――
いや…… そもそも『神様』などというものは、そういったものなのかもしれないが。
◇
どれくらいの刻が経ったろう―――
滝次は、いつの間にか眠ってしまっていた。
あれは、やはり夢だったのであろうか……?
まぁ、それはそうだ
大昔に見かけた黒猫が突如 生きて目の前に現れ
しかもあろうことか、言葉を話して「願いを叶えてくれる」だにゃどと
滝次は、ぽかぽかした縁側の陽溜まりの中で大きく欠伸をし、ふと部屋の奥を見る。
そこには、滝次が蒲団の中からテレビを見ている姿―――
………………… え?
にゃにゃにゃにゃ…… 何だぁ?
そう、そこには誰あろう『自分の姿』があった。
滝次は内心、相当に取り乱し 混乱し 困惑した。
これが世にいう『幽体離脱』というやつにゃのだろうか……
だとすれば、自分はもう死んだのか?
だが…… 部屋の中の儂はテレビを見て呑気に笑っておる
どうやらちゃんと生きてはおるようだにゃあ
まさか、儂の自己像幻視か?
三峰 滝次、85歳―――
何かそっち系の趣味でもあったのか、意外とハイカラな超常系用語を知っていたりもする。
うーん… 一体 儂は、どうなってしまったんだにゃ……
って、え? 「だにゃ」?
そうして滝次が、恐る恐る自らの手を見てみると―――
そこには黒く丸い手先と、そしてその内側に並ぶ灰色の肉球……
肉…… 球ぅぅぅう!??
とと… と言うことは……
向こうでだらしなく寝そべっておる自分は……
「ゎゎわ… 儂ら、身体が入れ替わっとるんにゃぁぁああああ゛ーーー!!?」
にわかには信じ難い状況に、訳が解らず半ば恐慌状態の黒猫滝次。
顔に両前脚をあてて叫ぶそのポージングは、さながら某有名絵画のようだ。
「ほう、漸く事態が飲み込めたか? 三峰 滝次… いや、『櫛名田 玉依』よ」
肉球の付いた真っ黒な滝次に対し『主家の姓を冠した猫の名』で呼び掛けてくる、滝次の姿をした玉依―――
正直 何もかもが常識も理解も超えており、どうすれば良いのかさっぱり判らにゃい……
ん? いやいや待てよ…… そうか!
考えてみれば、儂の願いは『瑞穂様に会うこと』―――
しかしながら、老いさらばえ寝たきりとなっておる滝次の身体ではそれも望めにゃい……
だ・か・ら~の『黒猫姿』かぁ!
なぁるほどにゃあ~、さぁっすがは喋る黒猫様だにゃあ
ん? と言うか…… 儂の頭、いつになく冴えとるぞ?
そうか、お玉さんになれたおかげで、滝次だった頃よりも脳の働きが良いのだにゃ?
うんうん…… って、ちょっと待て
幾ら生い先短い年寄りとはいえ、猫よりも頭脳的に劣っておるとか
複雑だにゃあ…… あ、語尾が「にゃあ」になっとる
と、こうしてはおれん!
まずは彼…… そう、方法はどうあれ、とにかく願いを叶えてくれた お玉さんのところへ行って、いろいろと話さねば!
そう考え、いざ玉依の身体を動かしてみると、その軽さや滑らかさといったら!
更にまた素早い!!
しかも、ちゃぶ台の下を余裕で潜り抜けられる程に小さい!!!
こいつは、素ん晴らすぃぃにゃぁぁあ~ん!!!!
黒猫滝次はほんの一瞬で、滝次の姿をした玉依のところへ辿り着く。
すると目の前の『年寄り』は、どことなく にゃあとした顔で ただ一言―――
「行ってこい」
その言葉を聞くや否や、黒猫滝次は縁側から庭に飛び出し、疾風のように道路を横切って櫛名田邸周囲の筋塀をも軽々と飛び越える。
そして、敷地の広い庭を真っ直ぐに突っ切ると、そこから見えてきた大きな洋館の外側手前にある、テラスらしき場所を まずは目指した。
その一角は、白い欄間のような透かし彫りの手摺で囲われたデッキとなっており、白いテーブルとゴシック調のガーデンベンチが二組み並べられている。
そして、洋館の中へと通ずる開けっ放しの扉から、するりと内部へ潜り込んだ。
すると中は喫茶室のような設えとなっており、カウンターの内側では初老の男性が一人で珈琲を淹れ… て…………
「 ……って、そそ… 槍慈様ぁぁあああ!!?」
黒猫滝次は、思わず小さな喉から あらん限りの声で叫んでしまう。
「うわぁ! 何です? びっくりするではないですか玉依さん…… って… 『さま』? え… 本当に一体 何なのです?」
咄嗟に「まずい!」と思い、しかし相当に混乱しながら、今入ってきた扉を通って急ぎ逃げ出す黒猫滝次。
「ももも… 申し訳ございませぇ~ん、槍慈様ぁぁぁあ!!」
あとに残された槍慈は何が起きたのか解らず、玉依であったはずのモノが出て行った方を独りぽかんと見つめながら、呆然と立ち尽くしていた。
びっくりしたぁ……
それにしても、あれはやはりご当主の槍慈様だったのだろうか
でも、それにしては随分とお若くて…… もしかするとご子息? いや、お孫様?
まぁいい、それよりも今は瑞穂様だにゃ
一体どちらにおいでにゃのか……
こんなに広いお屋敷の中で、瑞穂様をどうやって探せばいいんだにゃ
黒猫滝次は考えあぐねつつも、庭園内に美しく咲き乱れる花々の間や、揺蕩う池の畔などをぴょんぴょんと機敏に駆け抜け、庭のあちこちを闇雲に探し回る。
すると、前から見知った顔…… 庭師の馬籠が歩いてくるのが見えた。
「ぁあ! 馬籠さぁ~ん! いやぁ~、いつもどうも有難うなぁ。 お会いできて良かったぁ~。 おっと… そうそう、早速でそのぉ~ 悪いんですけれどもにゃ? 瑞穂様がどちらに居られるかとかって、ご存知ないでしょうかにゃあ!?」
そう聞くと馬籠は、慌てて肩に担いだ脚立を地面におろすと、少し怪訝な表情を浮かべながらも恭しく礼をして言う。
「ぇえっ… と…… あ、いや… これは玉依様、ご苦労様であります。 瑞穂様でしたら、和館の水屋の方においでのようありましたが…… その、えーっと… 玉依様?」
そこで漸く黒猫滝次は、またも粗忽を仕出かしてしまったことに気付く。
まずい… ここはどうにかして取り繕わにゃければ―――
「あ… あぁ~ごほん! そのぉ~何だ…… うむ、ゎわ 解ったである……。 ぁあ… 有難う、だ… です…… その… どうも……。 ささ、さらばだ!!!」
もう何を言っているのか自分でも解らなくなり、反射的にその場から脱兎の如く逃げ出しつつも―――
半面、馬籠が『喋る猫』には まったく驚かず、それどころか まるで配下ででもあるかのような態度をとっていたことに、少しく違和感を覚えた。
だが、今はそれどころではないし、そもそも今更 改めて訝しむ必要もない程、既に『非常識極まりにゃい状況』の真っ直中である。
黒猫滝次は、もう『些細なこと』について気にするのをやめ、今聞いた『和館』という言葉から、敷地内の南西側に見える優雅な素木造りの日本家屋に目星をつけ、更に脚の運びを速めて駆け抜ける。
そう言えば、瑞穂様は お茶道をなさっておいでだったにゃあ……
それを思い出した瞬間、日本家屋の右側裏手に離れの茶室らしい建物を見付け、そこをめがけて更にスピードを上げた。
こんなにも速く走ったのは何十年ぶりだろう
っていやいや…… そもそも人間はこんなに早くは走れにゃいか
それにしても、何と身体の軽いことか!
そしてもうすぐ瑞穂様に会える
恐らく74年前の『あの日』以来の再会だにゃあ……
嬉しい、有難い、楽しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しぃぃい~!
そうして黒猫滝次は、ついに目指す茶室の前に辿り着いた。
庵に掲げられた扁額には、この茶室の庵号であろうか、『煩悩庵』とある。
「あ… あのぉぉお! 瑞穂様ぁぁああ! 中に居られますかぁぁあ!? 瑞穂ぉ様ぁぁあー!!」
黒猫滝次が小さな声帯を目一杯に奮って震わせ呼びかけると、奥から何とも本当に懐かしく、あの頃と変わらぬ優しい声が返ってきた。
「あらあら、どなたぁ? はいはぁ~ぃ――― えーっとぉ…… あらぁ、玉ちゃぁん?」
そう言って出てきたのは、紛れもなく『あの当時の姿そのまま』の、瑞穂子爵夫人、その人であった。