ワスレナグサノキヲク × 貮
本来、老人と猫が互いを見つめ合っているという図は、どこかほのぼのとした優し気な雰囲気を抱かせるものであることが、おおよそ一般的であろう。
しかし、今ここで行われている視線の交錯と互いの思考精神の折衝は、ある種の緊張感を伴わせるものであり、しかも更に滑稽なことには、現状 完全に老人の側の方が猫に気圧されているのである。
「ふん、では仮にワガハイがその『お玉さん』とやらであったとしてだ、それは一体どういうことにゃのだとオマエは考察する? そして、それをどうしたい?」
滝次は、老いですっかり血の巡りが悪くなった頭を自分なりにフル回転させ、そして85年分の人生経験を総動員させて考えた。
大昔に櫛名田屋敷で飼われていた黒猫が突然目の前に現れ、あまつさえ人の言葉を発し、あろうことか自分に即断を迫っている―――
このような異常な出来事が、まさかこの歳になって自らの身に降りかかろうとは……。
ここはもう、腹を決めてこう答えるしかあるまい。
「儂にはぁ…… わがらぁん」
「いや滝次、諦めるにゃよ…… 」
と そこへ、自分用の昼餉と二人分のお茶、そして牛乳を入れた皿を持って、しず江が台所から戻ってきた。
「あらあら黒ちゃん、タッキーとなんのお話しをしてくれていたの?」
「ぉ… んにゃ… にぃやぁぁぁあ…… 」
しず江は相変わらず満面の笑みで、盆を食卓に置くと早々に滝次に寄り添い、半身を起こしてやったり撚れた蒲団を整えてやったりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてやっている。
だが…… 滝次の方はというと、心なしか先刻よりも幾分顔色が悪い。
ふむ、ちと年寄りを揶揄い過ぎたか
それにしても地球星のヤツらというのは……
幾ら短命とはいえ、たかが85歳そこそこでこの老いさらばえ様
何と脆く儚いことだ
ワレワレ、所謂『宇宙人』とは違い過ぎるにゃあ
『お玉さん』もしくは『黒ちゃん』こと、櫛名田 玉依がそんなことを考えつつ、しず江から供された牛乳を舌でぴちゃぴちゃやっていると、急に滝次が目を大きく見開いて叫んだ。
「ぁあ、あんだぁぁあ…… 『宇宙人』なんがぁぁあい!?」
「ぶっふぁあっ!! な… なな゛なんにゃあ!!? ぐ… げっはぁ! かはっ… げぇっほ! …… くはっぁ゛!!」
玉依は突然のことに驚き、飲んでいた牛乳を辺りに盛大に吐き散らす。
しず江はそれを見て驚くやら、また弟の突然の世迷言に困惑するやら心配するやら。
一見、辛うじて和やかさを保っていた年寄り宅のランチタイムは、見せかけの平穏が決壊して そこそこ酷い惨状となった。
「あらあらまぁまぁ… 黒ちゃんったら…… 変な病気の菌が飛び散ったらどうするの! あ~んもう、何か拭くもの拭くもの…… あと消毒の しゅっしゅするやつもいるわねぇ…… 」
しず江が慌てて雑巾やら除菌スプレーやらを取りに 離れの物置に行ってしまったあと、その場に残された一人と一匹は暫し見つめ合い―――
そして、玉依の方が口火を切った。
「おいオマエ…… まさかワガハイの心の中を読んだのか?」
そう問われた滝次は、あまりにも整理しきれない程に頻発する不可解な出来事に困惑しながらも、堰を切ったように答える。
「ゎわ… 解るぅ…… 昔っからぁ… たまぁぁにだげどぉ、どど… 動物の考えてるこどとがぁ…… いろいろ… 聞ぃごえんだぁ…… 」
それを聞いた玉依は、瞬時に思考を巡らせる。
ふむ、櫻子の異能に似た能力か
しかし地球星人の特殊能力だ…… これは興味深いにゃ
そう考えると玉依は、まだ顔を小刻みに震わせ 大きく見開いたままの滝次の目を更にじっと見つめて考察を続ける。
いやそれよりもだ、ワレワレの『秘匿事項』も漏れてしまった
先日 槍慈のヤツに「気を付けろ」などと言った手前、こいつはちとまずいにゃ
已むを得ん…… これはどうにかして、処置せねばなるまい
そこで ちょっと下を向いて目を瞑ると、やれやれというように首を振ってから、ゆっくりと言って聞かせる。
「おい、三峰 滝次よ。 察しの通り、ワガハイは櫛名田 玉依…… オマエが昔見た『お玉さん』だ。 そしてにゃあ、地球星人が言うところの、『宇宙人』というやつだにゃ」
◇
1944(昭和19)年6月23日の正午過ぎ―――
櫛名田子爵邸の中庭には 子連れの付近住民が数多く集まり、その中には母親に連れられた 三峰 しず江・滝次 姉弟の姿もあった。
このところの日本の戦局は芳しくない。
国内に齎される戦況報道は「未だ益々優勢」と勇ましさを讃える内容が多くみられるものの、既に昨年の内に同盟国であったイタリアは降伏―――
しかるに、敵である連合国側の参戦国は日ごとに増え、日本とドイツは たった二国で世界を相手に戦うような、何とも厳しい構図となりつつあった。
また数日前には、ついに米軍による本土への爆撃も始まり、事ここに至っては、銃後の一般民といえども、いよいよ身の危険を感じざるを得ない状況となってきている。
そうした中、陸軍参謀将校として大陸に赴いている櫛名田家当主の槍慈から、屋敷への電報があった。
シユウヘンノ コドモラノ ソカイサキ タノム ソウジ
これを受け、早速 付近住民らが屋敷地内に招き入れられ、子爵夫人である瑞穂が、不在の当主に代わって皆への説明を行っていた。
「皆さぁーん、まぁそういうことですのでぇ、お子さんがおられて疎開先の当てがないと仰る方はぁ、こちらにいる龍岡さんたちに言ってくださいねぇ~。 皆さんのお子さんたちはぁ、全員必ず 無事にお守りいたしまぁ~す」
櫛名田 瑞穂は、こんな差し迫った情勢下とは思えぬ、何ともふぅわりと気の抜けたような雰囲気を周囲に盛大に撒き散らしており、始めは不安と緊張とで表情を強張らせていた住民たちも、次第にその肩の力を抜いていった。
また、この旧領主家は元々由緒ある大社『櫛名田神社』の宮司という家柄であり、古くからこの地に住む者の多い此処いら一帯の住民たちの間では、既に廃社となっているとはいえ、この地の不思議なご利益に根強い信奉を持っている者が多い。
そのことは、特にこうした情勢不安の中において 大いに幸いした。
結果、遠くの親戚に可愛い我が子を預けて邪険に扱われるよりはと、疎開先の手配りを櫛名田家に託す家は相当数に上った。
そうして そのあたりの話がまとまった後には、最近ではめったに手に入らない食料や様々な物資などをふんだんに振る舞われ、皆 恐縮しながら両手と背中に土産を山と担いで、各自の家々へと帰って行った。
瑞穂が漸く一息つき、撤収作業をしている執事の龍岡たちに声を掛けようとした時、視界の端に一人の子供の姿が映った。
歳の頃は10歳前後、登下校の時間帯によく見る顔だ。
瑞穂は、躊躇いもなくちょんちょんと軽く跳ねるような足取りで子供の方へと近付き、少し屈んで目線の高さを合わせると、何とも屈託のない声音で話し掛けてみる。
「ねぇ僕ちゃぁん、アナタ 近所でよく見かけるわねぇ。 え~とぉ…… どちらのお子さんだったかしらぁ?」
するとその子供は「あっ」と驚いたような素振りを見せ、それまでじっと見つめていたものから目を離すと、少し慌てて答えた。
「えっと… その、櫛名田の奥様…… あの、どうも… ごめんなさい。 えーっと、僕… じゃない…… 私は、三峰 滝次っていいます… その…… すみません」
滝次は そう話し終えた後、自分が帽子を被ったままであることに漸く気付き、慌てて取ろうとして耳を一緒に引っ張るなどの粗忽も重ね、更に表情を強張らせてしまう。
その様子を見て瑞穂は また楽し気に笑い、何を見ていたのかと尋ねる。
どうやら彼は、周りに誰もいなくなっていることにも気付かず、庭の一角に植えてある素晴らしく鮮やかな青色の花々を、ずっと無心に見ていたということであった。
「あの…… 申し訳ありません!」
「いえいえ、全然いいのよぉ。 そう、三峰さんのところの…… あらぁ、じゃあ しず江ちゃんの弟さんなのねぇ?」
しず江のことは、瑞穂も良く知っている。
昔から家の使いなどで屋敷にもたまに来ていたし、彼女が高等科に上がる際には祝いの品を渡したりもした。
また、つい先程は疎開先の件でいろいろと相談を受けたばかりでもある。
「あ、はい… その…… このたびは、しず姉… 姉が大変お世話になります!」
しず江は、現在通っている國民學校高等科から、「親戚や知人などの当てがあるものは極力そこを頼るように」と言われているようで、学校での集団疎開は難しそうであった。
しかしながら、三峰家の分家筋がある東北の農家には、滝次と幼い妹の みち江が行くことになっており、さすがにこのご時世で三人までもは厄介になれないと、しず江だけが櫛名田家の斡旋を受ける方向で話がついていたのだ。
「はいは~い、他ならぬ しず江ちゃんのためですものぉ。 どぉ~んと任せてちょうだいねぇ~、うふふっ」
滝次はこの時11歳。
元々 体が小さい方ではあったが、食料の少ない戦時中ということもあり、外見的にはまだ8~9歳くらいに見えた。
そんな彼が、とても真剣な眼差しで瑞穂の顔をじっと見つめ、しかし遠慮しているのか、唇を噛んで何やらもぞもぞとしている。
その様子を見て瑞穂は―――
「うん、いいわよぉ~。 アナタのお願い、ワタシが聞き届けてあげましょう~ 」
と、何も聞く前から突然言ってきたもので、滝次も始めは事の次第が解らず、きょとんとしてしまった。
「何かぁ、ワタシに頼みごとがあるのでしょう~? ほらぁ、遠慮なんかしないでぇ、言ってごらんなさいよぉ、ねぇ?」
瑞穂の厚意に漸く気付いた滝次は、ぱっと輝くような表情を見せたあと、堰を切ったように話し始めた。
自分はもう五年生にもなるのに、姉と離れるのが耐え難い程に寂しいこと
でも自分は、幼い妹を連れて東北に行くため、兄としてしっかりしなければならないこと
ただ最後に、大好きな しず姉に何か贈り物をしたいこと
「それでその… ここに咲いている綺麗な青い花を押し花にして…… お守りというか、えと… 栞のようなものを作って、しず姉にあげられたらいいなって…… 」
滝次は一生懸命に話し、そして自分でも気付かぬ内、何故だか解らぬまま瞳に一杯の涙を浮かべ…… それでも更に訴え続けた。
「疎開で遠く離れ離れになって、戦争がまだ何年も何年も続いたら… 僕たちはずっと会えなくなって…… そしたら、しず姉は僕のことなんか… 忘れてしまうかも……。 それにもし、疎開先… でも… 空襲が…… ぅう… 空襲で…… 僕が… そのせいで…… 」
その涙の雫が頬を幾筋にも分かれて伝い、顎先から幾滴も幾滴も落ち零れるのにも構わず、ただひたすらに話し、そしてお願いをした。
「だから…… だからどうか、この青い花を… 少しでいいんです…… 僕に… 分け…… 分けてくだ… さい…… 」
ただひたすらに、自分や他の弟妹たちの面倒を優しく見てくれた しず姉
物心ついた頃から、いつも一緒にいてくれた しず姉
自分の物事は全て後回しにして、滝次や妹たちに与えてくれた しず姉
そんなしず姉と、ただただひたすらに『離れ離れになることが寂しかった』のだ。
そして 滝次が ふと我に返ると、目の前には何故か、自分以上に涙で顔中をぐしゃぐしゃにして大声で泣きじゃくっている、櫛名田子爵夫人の姿があった。