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黒猫奇譚

作者: ツヴァイ

 僕はある日、子猫を拾った。

 空き地のダンボールの中で、みゃあみゃあと鳴いていた、黒い毛色の子猫。

 抱き上げれば震えて、僕に寄り添う。

 放っておけなかったから、家に連れて帰った。

 抱いたまま上がって、母さんに見せたら、眉根顰めて。

『捨てていらっしゃい』

 そう、言われた。

 母さんは動物嫌いで、清潔好きで。

 猫は、特に嫌いだった。

 僕は子猫を抱いて、夕暮れを歩いた。

 とぼとぼ、とぼとぼ、と。

 そして、空き地の前。

 子猫は腕の中から僕を見上げて、みゃぁとひと鳴き。

「ごめんよ、家じゃ飼えないんだ」

 子猫を段ボール箱の中に戻す。手を離そうとすると、子猫は僕の手にじゃれ付いて。

「ごめん、本当に……ごめん」

 無理やりに手を引き抜いて、その場を後にする。

「みゃぁ……」

 背後から聞こえる、寂しそうな鳴き声にも、振り返らずに。

 僕は、子猫を捨てた。

 僕は、何かを捨てた。

 幼い日の──思い出。

 

 

 

「すみません! 本当にすみませんでした!!」

 ぺこぺこと、ひたすらに頭を下げる。

 僕の前には、気難しげな顔をした、男。

 腕組みをして、じっと僕を睨んでいる。

 先ほどから言葉も無く、僕の謝罪を聞いているのかいないのか。

 だが、それでも謝る事はやめない。

 非は僕にあり、損害を与えてしまったことも事実。今僕がすべき事は、まずは自分の誠意を見せること。

 やがて、重々しく、男は口を開く。

「反省だけなら、猿でもできるんだがね。君、具体的に今回の失策、取り戻せるのかね?」

「それは、僕ができる範囲で……」

「それじゃ困るんだよ。わが社が必要としているのは、具体的な保証だよ。今回の君の不手際で生じた損失を、どう取り戻してくれるのかだ」

「もちろん、それはいくらでも頑張って……」

「当然だ。取引先をひとつ失ったこと、穴埋めしてもらわなければ困る」

「すみません」

 男……僕の上司は、バンッとデスクを叩いて。

「謝罪の言葉はいいんだよ! そんな暇があるのならば、何とかしたまえ!」

 僕は上司の前を退散する。とぼとぼと、歩く。

 そしてコートを自分の席から引っ掴むと、それを羽織って部署を出た。

 

 

 

 会社を出て、公園のベンチ。

 深く腰掛け、ため息ひとつ。

 空を見上げる。都会の中の公園は、空も狭くて。

 そんな切り取られた空に浮かぶ、千切れ雲。

 場違いにふわふわと、風に流されていく。

「情けないな、自分が……」

 ただひたすらに、目的も夢も無く、僕は今日まで生きてきた。

 挫折ばかりで、思い通りに世の中は進まず、その度に仕方が無いと諦めて。

 結局何ひとつ、成す事もできぬまま、今日に至り。

 そしてまた今日、ひとつ失敗をして。

 全て悪いのは自分、そうは分かっている。分かっているのだけれど。

「それでも、辛い……」

 辛ければそれを打破すればいい。

 だが僕にはできない。その勇気がない。

 だから結局僕は、現状のままで進むしかないのだ。

 でも、それが結果として他人に迷惑をかけるだけならば。

「……限界、かな」

 もうひとつの選択肢。それは、全てを捨てて、逃げること。

 諦めて、自分の責務を放り出して、去ること。

 無責任だとは、分かってる。でも、他に方法も無く、何よりも僕自身の限界を感じた今ならば。

 箱庭の公園。そこに1人。こうしていても仕方が無いとは、分かっているのだけれど。

 だからと言って、何ができるのか。

 とりあえず、ベンチから立ち上がる。

 そして公園を出て、街を歩いた。

 

 

 

 気の迷いを表すかのように、足の向く先は裏通り。

 無計画な都市計画が生み出した、暗くて薄汚れた路地。

 そこをふらふらと歩く。

 目の前には、うっすらと差し込む光。僅かなビルの隙間を潜り抜けてきた、陽光。

 そこを目指して、歩いた。そこに何があるというものでもないのだけれど。

 何となく、暖かに見えたから。

 そして、僕はその光の下に辿り着いた。歪むことなく、円形に、スポットライトのように地に落ちる光。

 その中に1人、古ぼけたギター片手に、少女の姿。

 爪弾くその周りには、猫たちがゴロゴロと日の温もりを楽しみながら。

 ボロン、ボロンとかき鳴らす。

「疲れた時 丘に登ろう 一休み 風は吹き 花は揺れ ほら見てごらん 海が見えるよ あの青の先は きっと空と繋がってるんだ」

 通俗な詩。きっとそれには意味も無くて。

「二人並んで 海を見ようよ わざとくしゃみしたり 明後日の方を向いたり でもいいんだ 空と海のように きっと二人、繋がってるから そう、繋がってるんだよ」

 僕には音楽も、詩も分からないから。

 ただじっと、その場で。

「ずっとこうしてたら なれるのかな? 空と海のように、青く蒼く 広く広く 夕日が海に沈むように 朝日が昇るように 切れない二人に、なれるのかな」

 僕はそっと近づく。少女は気づいてるのかな?

 猫も少女も、僕の足音にも、気配にもまるで無関心で。

 もしかしたらこの光景は、僕の見間違い、幻覚で。

 ここには何も、光すらなく、僕は、僕は。

「この丘から見えるのは 海と空の欠片 隣にいるのは 君の欠片 でも分かるよ 欠片でも、それは本物 分かるんだ 真実はいつだって その中にあるんだから」

 少女はギターを爪弾くのをやめると、ちらりと僕を見る。猫たちも一斉に僕を見て。

「あ、その、邪魔してごめん」

 その雰囲気にいたたまれなくなり、思わず謝る。でも少女は気にも留めず、再びギターに手を伸ばし。

「散文的な詩の中で 私は何を伝えられるのかな きっと誰にも届かないこの歌は 君1人のために歌ってるのにね」

 きっとこれは歌じゃなくて、あの少女の。

「捧げるよ この詩 この曲 私の全てを 君ならきっと私より 大切にしてくれるから 君ならきっと私より 憶えていてくれるから ずっと ずっと……」

 歌が終わり、少女は立ち上がり。

 僕が声をかけるかどうか迷っている間に、猫たちを引き連れて、路地の奥へと去っていく。

 追いかけることなんて、できない。その理由も無いし、必要もない。

 でも、それでも、瞼の裏に刻み付ける。

 少女の後姿。そしてちらりと振り返ったその表情を。

 それは何となく、そう何となくだけど。深い記憶の底に沈んだ、何かに似ていたような……。

 そんな、気がした。

 

 

 

 あれから数日、僕はどうにも茹だっていた。

 どうにも何かに向かう気が湧いてこない。やる気が出ない。

 それでも何かを成さねば生活すらできないのだから、仕方なく仕事をする。

 でも身が入らないのであれば、脳裏に浮かぶのは余計なことばかり。

 仕事を辞めるか、それとも続けるか。それは当然の如く沸いてくる思考。

 でもそれ以外に、僕が気になること。

「あの娘……何だったんだろ」

 裏路地に佇み、まるで猫たちの主のように。

 もしかしたら、ただ餌付けをしていただけなのかも知れないけれど。

 何となくそんな普通の答えは、求めなかった。

「ちょっと外に出てきます」

 上司に断りを入れ、会社を出る。向かう先はあの路地。

 そこに彼女がいるなんて、期待はしていなかったけれど、それでも。

 そして円形の光のステージの中、そこに少女はいた。

「だから、ねぇ 一緒に歩こう 君の歩幅は広すぎて 私は追いつけないかも知れないけど きっと、必ず 隣にいてあげるから そして、手を繋ごうよ」

 古びたギターを鳴らし、他の何も興味を持たず。

 少女は、歌っていた。

 僕はそこら辺に転がっていたビールの空きケースの上に、腰を下ろす。

 そしてじっと、その歌を聴いていた。

「……こんな歌、何でもない。誰の心も動かさない、ただの言葉の羅列……」

 不意に歌をやめ、少女は呟く。

「あなたも、そう思うでしょ?」

「僕は……よく分からない」

 確かに彼女のそれは、歌じゃなくて。

 ただ思いのままを言葉にした、そんな印象を受けるけど。

「ほんとは、歌いたいんだ。でも、あたしは歌が歌えない。歌ってどういうものか、知らないから」

「なら学べばいいんじゃないかな? 歌の見本なんて世の中には溢れているし、それに触れればきっと」

「それが本物の歌だって、誰が保証してくれるの?」

 少女の言葉に、僕は返せない。

 僕は漠然と、全ての歌は歌であると理解していた。

 しかし、そもそもの歌の定義とは、なんだろうか。

 一番初めに歌を歌った人間、その人は何を、どのように歌ったのだろう。

 何も分からない、ただ何も知らない自分が情けなくなって。

 ため息をつき、辺りに目をやって。そして、気づく。

「……今日は、猫はいないんだ?」

 ピンピンとギターの弦を弾く少女。少しチューニングがずれている。

 それを気にしているのか、僕に目も合わせぬまま。

「あの子達を縛る権利は、あたしには無いから。好きなように今日という日を生きている、そのはず」

「そうか、野良猫だもんね……。人間にはどうにもならないことだって……」

「違う、野良猫なんて猫はいないわ。いるのは『捨て猫』だけよ」

 僕の言葉に、少し怒ったような顔で、少女は言葉を返して。

「ごめん、そうだよね。外で暮らしてる猫なんて、僕ら人間が捨てたものだ。野生種なんて、猫にはそう存在しないし」

「……それが分かっているのなら、何であなたは……」

 初めて少女は、僕に瞳を合わせて。

 その切れ長の瞳、どこか憂いと、怒りと、そして悲しみを秘めていて。

 圧されるように、僕は立ち上がる。少女はその黒い着衣を翻し、僕に詰め寄る。

「あなたは何故、あたしを捨てたの?」

「君は、何を言って……?」

 捨てた、その言葉。僕にはまるっきり身に覚えがない。

 少なくとも彼女に出会ったのは、この前が初めてで。

 その時別れたのだって、一方的に彼女が。僕が捨てたという事実は、無いはずなのに。

 ……分からない。何もかも。

「よく分からないけど、僕が悪いのなら、謝る。ごめん」

「……っ!」

 ───バリッ!

 僕の頬に、鋭い痛みが走る。

 そっと手をやれば、僅かにこびりつく赤いもの。

 引っ掻かれた……そのことに気づくまでに、暫しの時間が過ぎて。

「……なに、を……?」

 少女はついっと手を引くと、複雑な視線で僕を見ながら。

「あたしが受けた苦しみは、こんなものじゃ終わらない……でも、それを仕返す方法も、意味も分からない……」

 一瞬だけ深い悲しみの色を見せて、少女は振り返り、去っていく。

 痛む頬をさすりながら、僕は思う。

 あの少女と僕は、何時か何処かで出会っていたのだろうか、と。

 

 

 

 幾日も、過ぎる。

 その間僕の状況は、ますます鬱屈していくだけだ。

 何もかも嫌になり、全てを捨てたくなる。

 でも、その勇気も、方法も、僕には足りない。

 だからそのまま、日々を生きる。

 しばらくあの路地裏にも足を踏み入れなかったある日。

 久しぶりにそこを覗いてみた。

 その場所には、あの少女が、うつむいて屈み込んでいて。

 近くに寄って、覗き込む。

「……その猫は?」

 少女の手の内には、小さな子猫が、力なく。

「子猫が生きるのは、辛いこと。ましてや捨てられたのなら、一匹で生きなきゃならないから」

 そう、子猫は死んでいた。

 少女は悲しんでいるのだろうか。それとも、その言葉のトーン通りに、何も感じてはいないのだろうか。

 それは、分からない。でも、僕にはそのまま眺めている事は、辛かったから。

 少女の隣に屈み込み、そっと手を指し伸ばす。

「……?」

 子猫を受け取り、路地の片隅、アスファルトが剥がれた一角。

 素手で穴を掘っていく。

 爪の隙間には土が詰まり、じんじんと痛む。でも、手は動き続けて。

 やがて小さな穴が掘られると、そこに僕は子猫を横たえる。そして上からそっと土をかぶせる。

「この子猫にとって、もう辛い事は全て終わったんだよな」

 1人ごちる。そんな僕の姿を、少女はじっと眺めて。

「辛くても苦しくても、生きていた方が……ずっと幸せなのに……」

 その彼女の言葉は、真実なのだろう。

 でも、素直に頷けないのも、今の僕。

 僕は多分、楽になってしまった子猫にすら、嫉妬しているのだろう。

「今日は君は、歌わないのかい?」

 少女に尋ねる。それに少女は首を振って。

「歌、忘れちゃったから……」

 それは、残念なことだ。

 歌を歌えるということは、とても大切なことなのだろうに。

 僕にはできない、大切なことなのだろうに。

 歌を忘れた少女には、何が残るのだろう。

 歌を歌えない僕には、何が残るのだろう。

 子猫を埋めた場所、そこをじっと眺めていた僕に、差し出されるもの。

 古ぼけた、ギター。

 少女の差し出すギターは、僕にはとても似合わないもので。

 だから素直に受け取れない。

「ねぇ、歌って。あなたの歌、聞かせて」

「僕には、歌は歌えないよ……」

「それでも、聞かせて」

 恐る恐る、手を伸ばす。ギターに触れて、手を引っ込めて、それでももう一度手を伸ばして。

 そしてしっかりと、受け取った。

 でも、僕にはギターは弾けない。その才能がない。

 少し弦を弄ってみる。ピックは空回りし、調子外れの音を奏でるだけ。

「やっぱり、僕には無理だよ」

 少女にギターを返す。これはきっと、彼女にこそ相応しいもので。

 僕みたいな人間には、それで何かを奏でる資格すら、ない。

「あなたが弾けないのなら、あたしが弾くから。だから、歌って?」

「……君が僕のために、曲を奏でるのかい?」

 僕のために、誰かが旋律を作る。

 そしてそれに併せて、僕が歌う。

 そんなことが、できるのだろうか? 何かを歌うこと、表現すること、それができるのだろうか?

 少女はギターを奏で始める。その旋律は、きっと上手いものでは無いのだろうけど。

 少し、僕の心は震えたから。だから。

「……子供の頃のこと 思い出してくれないか……」

 歌というのは、きっと表現の一種にしか過ぎない。

 話すこと、活字に表すこと。それと同列の、人間に許された表現のひとつ。

「僕が捨てたもののこと 思い出してくれないか」

 思うが侭に、言葉を連ねる。歌なのか、散文なのか、或いはただの独白なのか。

 それは分からない。けれども。

「あの時の僕ら きっと何もかも 信じる物は全て 叶うと信じていた」

 歌ってみよう。リズムも詩も、何もかも忘れて。

「捨てたもののことなんて 過ぎ去る季節と同じに また巡ってくるものだと信じて 気に留めることも無く」

「だけどそれは 二度と触れることもできない 幻になっていく 夢の欠片だったんだね」

 あぁ、僕のこの声。この歌。

「もしも 思い出すことができたなら 触れることができたなら 今度こそ間違えない、その手を離さないのに」

「どうして僕らはいつも 失って初めて その大切さに気づくのだろう 全てはもう遅いのに……」

「君は儚く消えて 取り戻すこともできずに 僕はそれを悔やみもせず 過ぎていく日々に追われて」

「そして不意に思い出すんだ あの頃は良かったねって でもそこにはぽっかりと 君の姿は抜け落ちて」

 止まることの無い、内面の吐露。

 もう歌じゃない、もっと別な、何か。

 君は聞いてくれるかな。そのギターの音色に乗せた、僕の言葉を。

 きっともう二度と歌えないこの歌を、忘れないでくれるかな。

「Can You Feel……? Can I Feel The Dream of fine dust?」

「Can You Feel……? I Can Feel The Particles Dreams!」

 路地裏を越えて、日の光を辿って、僕の歌……。

「きっと また 明日には忘れるはずさ その欠片は───」

 ……望む人に、届け。

「───君と共に消えたから」

 

 

 

 路地裏の隅、やや斜に構えた日の光が差し込む、その場所に。

 僕は彼女と二人、寄り添って座り込んでいた。

 少女は僕の肩に頬を寄せて、うつらうつらとしている。

 まるで子猫のようで、ちょっと微笑ましくもあり。

 でもこんな僕に気を許す、その心が分からない。

 尋ねれば、答えてくれるのだろうか? でもそれを聞く事は、怖くて。

 だから僕は何も言えず、彼女をそっと支え続けるんだ。

「ねぇ……憶えてる?」

 少女の甘やかな言葉。僕の耳に囁かれる。

「あたしのこと……憶えてる?」

「いや、僕には君が、未だによく分からない。そろそろ教えてくれないかい? 君は、誰なんだ?」

 このどこか不思議な印象を与える少女。その正体は分からない、名前すら知らない。

「……昔、あなたが捨てたもの……憶えてる?」

 僕が捨てたもの。

 それはたったひとつの大切なことであり、もしかしたら数多の夢だったのかも知れない。

 どちらにしても、僕にはそれを思い出すことができない。

 だって、もう捨ててしまったものだから。

 ゴミ箱から拾い出せるような、そんな半端なものではないのだから。

 今頃はきっと、時の彼方に埋もれて、風化してしまって。

 さっきの子猫と同じ。じわりじわりと土に返り、何も無くなって、記憶からも失われて。

 それを今更思い出すことは、僕にはできない。

「ごめん、憶えていない」

 僕の隣の気配。それが急に鋭くなったかと思うと。

「……かぷっ!」

 僕の手をとって、その先に噛み付いた。

 痛い、と感じたのも束の間。すぐにそれは甘噛み程度の力になって。

 この娘は歯が尖っているな、そんなことを感じて。

 そして、解放される。僕が何の反応も示さなかったことを、責める様な目つきで。

「何も、感じない?」

「そういう訳じゃないけど……こういう僕だし、怒られても文句は言えないなって」

「……そうやって、何でも自分の責任にして、辛くない?」

 そう尋ねられても、それが僕なのだし。

 特に何も思うことは無い、はず。

「あの時も、そうやって何も感じなかったの? 自分を押し込めたの?」

「あの時……何時の事かな?」

 僕の質問に、少女ははっきりと答えることなく。

 ただすっと、僕の胸に頬を寄せて。

「あの時も……この音が聞こえた。とくん、とくんって……心臓の音」

 見上げるように、僕の顔を見て。

「憎んではいないの。ほんの少しでも、あたしのことを抱いてくれた、温もりをくれたあなただもの」

 不意に視界がぶれる。その身にかかっていた重みが、露と消える。

 そして気がつけば、僕に抱かれているのは、小さな黒猫。

 みゃぁとひと鳴きして、僕の手の内から飛び降りる。

「君は……何で……こんな……」

 今まで僕は、猫を相手に幻覚を見ていたのか。

 何処から何処までが真実で、何処からが嘘なのか。

 あの少女は、何だったのか。この猫は何なのか。

 理解できない全てを背負い、僕はそっと手を伸ばす。

「君の、名前は……」

 黒猫はその手をひらりと掻い潜って。

 うみゃぁ……

 路地の陰に、消えていった。

 

 

 

 ボーっと、座っている。

 僕の前には、パカリと開かれたギターケース。

 その中には、小銭が少々。申し訳程度に置かれている。

 僕がいるのは、賑やかな駅前。そこの一角、ベンチの前。

 僕の手にはギター。少々古ぼけている。

 今の僕にとっては、これ以外に頼るものはない。

 僕は、会社を辞めた。これ以上忘れたくなかったから。

 元からそんなものがあったのかも疑わしい、そんな夢だけど。

 歌っていればいつか、思い出せる日も来るかもしれない。

 捨ててしまったものは、もう戻ってこない。それは真実だろうけど。

 僕には、完全にはそうは思えないんだ。だって誰だって、過去の素敵な夢を見る事は、あるだろう?

 人の流れは絶えることなく、時間に押し流されるように、僕の前を行く。

 さぁ、そろそろ始めよう。この流れの中から、たった一人でもいい。立ち止まってくれる人がいたなら。

 それだけで僕は、きっと許される。

 何事にも構わなかった日々を送ったこと、いろんなものを捨ててしまったあの頃のこと。

 それも全て、許されるはず。

 憶えたてのギター。ピックを立て、爪弾く。

「……目が覚めて最初の君は まだ瞳を閉じて 触れてみる その優しい唇に……」

 届くかな。聞こえるかな。

 まだ名も知らぬ、君の元へ。

 もしも、もう一度、出会えたなら。

 君にプレゼントするよ。素敵な名前を。

 君にぴったりの、どんなものよりも眩しく輝く、名前を。

 実はもう、考えてあるんだ。詩を書きながら、夜空を眺めて、思いついたんだ。

 そして、一緒にプレゼントするよ。君が歌う歌を、一緒に。

「……微かな瞬き 漏れる吐息 僕は慌てて離れるんだ 朝日が滲んでいく 憂鬱は晴れたかい? 言葉も無く 君に問うよ……」

 そしたら、一緒に歌ってくれるかい?

 そんな夢を持つ僕を、君は笑うかい?

「答え代わりに君は 僕を小突く 些細な悪戯に 頬膨らませ そんな低い温度に 僕は火傷をするんだ」

 いいよ、笑っても。君がそれを望むなら、きっとそれが僕の望み。

「君の甘やかな香りは 僕を絡めとり 離さない離れない 本当の夢が覚めるまで……」

 だから、僕は歌うんだ。

 ここにいるって、示すために。

 君が僕を見つけられるように。

 ここで、歌うよ。いつまでも、きっと。

 君にまた出会える、その時まで。

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