舞踏会と悪の華:〈後〉
(目が回った……くそう、あのちんちくりんめ、思いっきり振り回してくれて……)
あのあと二曲ぶっ続けで踊ってお互いへろへろになり、「今夜はこのくらいにしといてあげましょう」と言い合って別れたキアラとカルヴィンである。
ステップを踏むたびに勢いよく(もちろんわざと)振り回されたので、少し気持ちが悪くなってしまった。
(でも、こっちも六回は足を踏んでやったもんね)
今夜はもう帰ろうかなぁ、とキアラは気弱に考えた。華麗なる悪女デビューが目的であったのだが、ダンスで気力と体力をすっかり使い果たしてしまった。
(悔しいけど、戦略的撤退だから……逃げる訳じゃないから。ヴィヴィはどこだろ?)
ヴィヴィアンを探そうと方向転換したキアラは、親しげな表情でこちらへ近づいて来る人物に気づき、目を見開いた。
「ああ、やはりあなたでしたか。お久しぶりです、キアラ嬢」
「まあ、ユークリッド様!」
話しかけてきた男性にキアラは慌てて淑女の礼をとった。
背が高く、明るい髪と目の色をした青年は、彼特有のからかうような笑みを浮かべてキアラに挨拶をする。
「お元気そうですね、キアラ嬢」
「はい、ユークリッド様も。でも驚きましたわ、どうしてここに?王都からはそれなりに離れていますのに。それに、今はお勤めがお忙しいのでは?聖乙女様の……」
「聖乙女様に関する王都での祝典や祭りなら、だいぶ落ち着いてきましたよ。それで少し休暇を得られたので、羽を伸ばすついでにあちこちの親族を訪ねてまわろうかと。思わぬ出会いもあるかもしれませんし。ほら、素敵な女性との出会いの機会を逃すのは罪でしょう?」
「あはは。ヴィヴィから聞いています。とってもおモテになるって」
ユークリッドは王立騎士団の騎士の一人で、ヴィヴィアンの友人である。
先日、国の護り手である聖乙女の最後の一人が顕現したため、ここしばらくは国を挙げてのお祭り騒ぎが続いていた。特に王都では式典が大々的に行われたため、国の騎士団に属しているユークリッドは警護の任に忙しかったのだ。
王の騎士の一人であり、容姿も抜群のユークリッドが女性たちの関心の的であるのは事実だが、それは彼本人の信念に寄るところも大きいのだった。ユークリッドは厳かな顔で重々しく告げた。
「騎士というのは、モテなければならない職業なのですよ。ところで、先ほどはだいぶ鬼気迫る様子で踊っていらっしゃいましたね」
「ご、ご覧になったのですか?」
思い出し笑いをするユークリッドに、キアラもさすがに顔を赤くした。ユークリッドはキアラの頭上あたりを見て更に笑った。
「キアラ嬢、今、あなたの頭の上で、妖精が妙ちくりんな踊りを踊っているのですが……ダンスの真似事でもしているのかな?」
「えっ、本当ですか?」
キアラは頭の上に手をやったが、もちろん何の感触もない。
「ヴィヴィアンの守護妖精ですね?」
「はい。ユークリッド様は見ることができるのですよね、いいなぁ」
私にも見えたらいいのに、と残念そうに言うキアラに、ユークリッドはまた笑った。
「あなたの忠実な騎士も当然、ここに来ているのでしょうね」
「もちろんですわ。会っていかれますか?ヴィヴィも喜びます」
「そうですかね?毛虫でも見るような目をするんじゃないかなぁ」
「ふふ、仲が良いのですね。ちょうどヴィヴィを探しに行くところだったんです。ぜひご一緒にいらしてくださいな」
移動を始めた二人だが、進むうちに周囲がなにやら騒がしくなっていることに気がついた。見回すと、ホール内の一ヶ所に人だかりができつつある。
「なにかあったのかな?」
ユークリッドが探るように首を伸ばす。
誰か有名人でも現れたのだろうか。社交界で名の知れた人物なら人だかりができたとしてもおかしくはない。
キアラとユークリッドは顔を見合わせ、好奇心のまま自分たちも人だかりの輪に加わった。
興味津々でのぞいたキアラだが、渦中の人物を見て「あらまあ」と声を上げた。
騒ぎの中心にいたのは彼女の騎士だったのである。
髪から酒のしずくをしたたらせたヴィヴィアンは、さてどうしたものかなぁ、と他人事のように考えていた。
彼の目の前には酒と怒りで顔を真っ赤にした貴族男性、後ろには青ざめておびえている下級貴族のご令嬢。そして貴族男性の後ろには、困惑した様子の騎士二人が控えている。
事の次第はごく単純で、壁際のスペースで主人の帰りを待っていたヴィヴィアンの眼前で、酔っぱらってからむ貴族男性と、それをあしらおうとする令嬢との攻防が始まってしまったのだ。
酒が振舞われる場ではしばしばこういう事も起こるので、場慣れした女性ならあしらい方をちゃんと心得ている。
ヴィヴィアンは失礼にならないようさりげなく目を逸らしていたのだが、ご令嬢はあきらかに不慣れな様子で、誘いをかわせずに困っていた。ちらりと見れば、キアラよりも年下そうで、おびえた表情なのが気の毒になってくる。
居心地の悪い思いをしながら成り行きに注意を払っていると、業を煮やした貴族男性が女性を強引に外へ連れ出そうとしたので、さすがに見咎めて声をかけてみたのだが。
結果はこうである。
身分の高い貴族ほど礼節と体面を重んじるもの。冷静になってもらえればと期待したのだが、逆上した男性に酒を浴びせかけられてしまった。とりあえず、酒が白ぶどう酒だったのは不幸中の幸いかもしれない。
騎士が二人駆けつけてくる。パーティ主催者がわの衛兵かと思いきや、この貴族男性のお付きの騎士のようで、男性は彼らに「こいつをホールから追い出せ」と命令している。
騎士を二人も付けているということは、やはりそれなりの身分、もしくは財力のある貴族なのだろう。騎士たちは悪酔いした主人に困惑しつつも、ヴィヴィアンとその背後に庇われている令嬢をじろじろと観察した。だが、ヴィヴィアンが胸に付けている騎士章を認めると、顔色を変えた。
それから二人の騎士は主人を宥め始めたのだが、男性は余計に怒って、今度は彼らを罵倒しだした。
(いっそ殴って眠ってもらえたら話は早……いやいや)
根は能筋、と言われても仕方がないことをついヴィヴィアンは考えてしまったが、これ以上面倒になってもらっては本当に困る。
目元を覆っている前髪が濡れて張り付くので視界が悪いが、人が集まってきているのだ。このまま大ごとになれば己の主人にも迷惑をかけてしまう。それは一番避けたい事態だ。そう思ったヴィヴィアンだったが、――遅かった。
「何をしているのです?わたくしの騎士」
どこか楽しげにも聞こえる声が響き、彼の主人が現れたのだ。
気まずい思いで振り返ったヴィヴィアンだが、近づいてくるキアラを見てあきれた。
貴族令嬢らしく振舞おうとしているが、澄ました微笑の裏の好奇心が隠しきれていない。少なくとも、ヴィヴィアンには彼女が「なにか おもしろいことに なっている」と考えているのが分かった。瞳がきらきらしているからだ。面白がるとこじゃないんですが、レディ……
目の前に来た主人にヴィヴィアンは跪いて頭を垂れる。
キアラは酒で頭を濡らしているヴィヴィアンの顔を覗き込むと、おかしそうに笑った。
「しばらく見ないうちに、随分男前になりましたね?わたくしの騎士」
「……申し訳ありません、マイレディ。お手を煩わせるつもりは」
「いいよ」
そう言うと、キアラは髪をまとめていた銀の留め飾りをひとつ抜き取った。髪がひとふさ垂れたがかまわず、その飾りでヴィヴィアンの額に張り付いている髪を留めてやる。あらわになった騎士の素顔に周囲の人々は息を呑んだ。
ヴィヴィアンは上流貴族と見まがうような美貌の青年だった。バランスの取れた目鼻立ち、その瞳は優しげだが凛として、青みのあるエメラルドグリーンが鮮やかな光彩を放つ。身のこなしは品がありつつも騎士らしい精悍さをはらんで、見る者の心を捕らえる。
ヘリオドリスでは優れた容姿の人物を「妖精に好かれる人」と言い表すことがあるが、ヴィヴィアンは正にその言葉に相応しい容姿をしていた。
人々は目を奪われて、特に女性たちの中にはうっとりため息をつく者もいる。ヴィヴィアンの後ろで青ざめていた令嬢も、今はぽーっとその横顔に魅入っている。
立ち上がったヴィヴィアンは多少居心地悪そうにしているが、キアラは「これでよし」と満足げに笑って、ようやく渦中の貴族男性へ向き直る。キアラは丁寧にお辞儀をした。
「申し遅れました。わたくしはキアラ・モルゴースと申します。わたくしの騎士が、なにかご無礼でも?」
男性はヴィヴィアンの思わぬ美貌にたじろいでいたが、我に返って傲岸に見返してきた。
「君の騎士なのかね、その男は。彼は、私とそちらのお嬢さんが楽しく語らっていたのを邪魔してきたのですよ。随分と無粋ではありませんか」
「まあ、それは……」
キアラはヴィヴィアンの背に庇われている少女を見やった。少女は再びおびえて縮こまってしまっている。ヴィヴィアンへ視線を送ると、彼はわずかに肩をすくめた。
キアラは再び貴族男性と向き合い、にっこりと邪気のない笑顔を浮かべた。
「わたくしの騎士は、この方とわたくしを見間違えて声をかけてしまったのですわ。だってわたくしたち、とてもよく似ていますでしょう?」
――――全然、まったく似ていないのだが、キアラは堂々とそう言いきった。
集まっている見物人はあっけにとられてキアラと少女を見比べる。キアラがあまりに悪びれないので、確かに似ているのかも……という錯覚に陥る者までいた。
貴族男性はぽかんとして、言葉の意味を図りかねている様子だったが、キアラが真面目に言っていると分かると憤然とした。
「ば、馬鹿にしているのかね、どこが似ていると言うんだ!背格好から全然違うじゃないか。髪やドレスの色だって」
「あら、ドレスの色なんて。二、三曲ダンスを踊ったら色が変わっていた、なんてよくある事じゃありませんか?」
「はあ!?」
「わたくしの騎士は心配性なんです。あなた方の語らいを邪魔してしまったのなら、それは主人を思ってのこと。人違いなど可愛いものではありませんか。どうかお許し下さいな」
人好きのする笑顔でぬけぬけと言ってのけるキアラに、貴族男性は目を白黒させた。
主人から心配性と評されたヴィヴィアンは、その本領を発揮して男性の様子を注意深く伺う。キアラの態度は、下手をすれば火に油を注ぐ結果を招くものだ。
男性の表情には怒るべきか許すべきか、という葛藤が表れている。さすがに少し酔いがさめてきたようだが、怒りが完全におさまった訳でもなく、納得しかねている様子だ。
(なかなかしぶとい……もうひと押し何かないと駄目かしら)
キアラが笑顔の裏でそう考えていると、男性はふとふんぞり返って、攻撃の矛先を変えてきた。
「ふん、己の主人を見間違えるなど、騎士としての格が低いのではありませんか?私の騎士たちとは比べ物になりませんな」
キアラはきょとんとして男性を見た。
「あら、わたくしの騎士は優秀ですよ。あなたの騎士にも劣らないくらいに」
「それは顔だけの評価なのでは?例えば、私の騎士と君の騎士とで、剣の腕くらべをしてみせたなら、とても騎士などと名のれなくなるでしょう。もちろん、そんな意地悪なことはしませんがね」
得意げに言う男性をキアラはまじまじと見つめる。そして不意に、ふわりと微笑んだ。眠たげな子猫のように無心な、甘くて愛らしい笑み。
「それはもちろん、おやめになったほうがよろしいでしょう。あなたと、あなた様の騎士のために」
当事者はもちろん、興味本位でなりゆきを見守っていた人々の間にも緊張が広がった。
これはまずい、とヴィヴィアンはいつでも主人を庇えるようにさりげなく身構えたが、貴族男性は、あからさますぎる返答が予想外だったのか、うまく意味を飲み込めていないようだ。ぼんやりと視線がさまよい、やがてその目はヴィヴィアンの騎士章の上で止まった。怪訝そうに騎士章を凝視した男性は、まばたきをくり返した。
「“セイクリッドセブン”……?」
驚愕の声がぽつりとこぼれたその時、その場の空気を打ち破るさわやかな声が響いた。
「――失礼、ダグエス卿ではありませんか?」
にこやかな笑顔で現れたのはカルヴィンだった。
宿敵の登場にキアラは半目になったが、カルヴィンは彼女を素通りし、呆けたような表情の貴族男性――ダグエス卿へ話しかけた。
「ダグエス卿も来ていらしたのですね。先日の夜会の折はどうも。またお会いできて嬉しいですよ」
「あ、ああ……貴殿はカルヴィン殿ですね。先日はどうも……」
突然現れた知人に、ダグエス卿は状況が飲み込めないまま応じている。
「仕事のお話などは特に興味深かったですね。こうしてお会いできたのもよい機会ですし、どうでしょう、またお話を聞かせてもらえませんか?お伺いしたい事がまだまだありましたし……そんな小娘の事は放っておいて」
カルヴィンが最後にこっそりと耳打ちした一言を、キアラはもちろん聞き逃さなかった。
「そ、そうですな、では……」
戸惑い気味のダグエス卿だったが、促されるまま歩き出した。
カルヴィンが去り際、“貸しにしといてやらぁ”という視線を寄越してきたので、キアラも“頼んでないですぅー”と視線に込めて返した。
「ハハハハ」と笑い声を残しながら紳士たちは去り、ダグエス卿の騎士たちも一礼して去ってゆく。
なんともしらけたような空気がその場を満たしたが、集まっていた見物人も次第にその場を離れ、再びパーティの喧騒が戻ってきた。
皆が離れていく中、ひとりだけキアラ達に近づいてくる人影があった。ユークリッドだ。
「助けに入るタイミングを見計らっていたのですが。ロエル家のご子息にもっていかれてしまった……やあ、我が友。今夜はひと際いい男ぶりだな?酒臭いぞ」
「なんで君がいるんだ……」
にやついているユークリッドに、ヴィヴィアンはじと目で尋ねる。「野暮なことを聞いてくれるなよ」と笑ったユークリッドは、戦友に対するような目をキアラに向けた。
「思いっきり喧嘩を売っていましたね?」
「あら、本当のことを言っただけですよ?」
悪びれず言ってのける少女にユークリッドは破顔した。
「まあ確かに、腕試しとは。そんな事にならずに助かったのはあちらでしょうね」
そう言ってユークリッドはヴィヴィアンの胸の騎士章に目をやった。
胸元で光る騎士章には、剣と盾、そして七つの星を戴く宝石が彫られている。
この紋章は、“セイクリッドセブン”――妖精族の残した七つの遺産のひとつ、“妖精の騎士”である証の紋章だ。ユークリッドの胸にも同じ騎士章が光っている。
「おや、今頃来ましたね、衛兵」
人の波を掻き分けてこちらへ近づいてくる衛兵と使用人を認めてユークリッドが言った。
こうして思わぬ騒動の起きたキアラの四度目の舞踏会は、やっぱり悪女デビューを果たせないままで終わってしまったのだった。
「……大丈夫?キーラ」
「何のこと?全然大丈夫ですわよ?」
乾いた笑いを浮かべる主人にヴィヴィアンは苦笑を浮かべる。
帰りの馬車の中、主従二人だけである。他人の目がなくなった途端、緊張の糸が切れたキアラの足は震え出した。悪女の意地と見栄にかけて人前では堂々と振舞ったが、今は冷や汗までかいている。状況を面白がったくせに裏ではこの有様……「見栄っ張りなんだからなぁ」とヴィヴィアンは感心して言った。
「その調子じゃあ、悪女デビューはまだ遠そうだね」
「うるさいな、こういうのは慣れでしょ。場数を踏めば平気になるし!……たぶん。だいたい、意地と見栄がなきゃ悪女なんてやっていけないんだから」
むすー、とキアラはふくれっ面になる。
「あーあ、また悪の華になりそこねた……」
心底残念そうに言うキアラに、ヴィヴィアンは少し笑った。
館の衛兵に騒動の詳細を聞かれたあとは、衆目の視線が痛かったのですぐ帰ることにしたのだ。ヴィヴィアンが助けた下級貴族の令嬢はひたすら感謝の言葉を述べ、真っ赤な顔でハンカチを差し出してきた。それをにやにやしながら見ていたユークリッドとは、後日モルゴース家別邸でのお茶の約束をして別れた。
「僕も悪の手先らしくない事をしちゃったかな?」
そう話すヴィヴィアンに、キアラは訳知り顔で「馬鹿ねぇ」と応じる。
「悪役だって善行ぐらいするわよ。むしろ、いつも悪事ばっかり働いていたら、悪のありがたみがなくなるってものよ」
悪のありがたみとは。疑問の声をあげる者はもちろんいない。
「それにね、ヴィヴィ、いつも言ってるじゃない。ヴィヴィは自分の思うとおりにしていいんだって。悪女の騎士だからって、自分を偽ったりしないでいいよ。いざって時に、わたしを守ってくれればそれでいいんだから」
迷いなく言うキアラに、ヴィヴィアンは心からの笑みを返した。
「お望みのままに、僕のレディ」
揺られる馬車の中、いたずらを成功させた子どものように二人は笑いあった。
明るい表情になったキアラは「よし」、と拳を握りしめる。
「華麗に悪女デビュー、とはいかなかったけど、また機会はあるわよね!まだまだ修行が足りないって事でもあるし、今夜の反省点をふまえて、また明日から頑張らなきゃ!」
力強く宣言して、悪女見習いは満面の笑みを浮かべた。
理想への道はまだ遠く、少女の修行の日々は続くのであった。