夢見る少女の目指すもの
開け放した小窓の枠にとまった小鳥が、チィチィと鳴き声をあげる。
歌うようなその声は、午前の淡い光とともに室内へ流れこみ、書庫の静寂をいっそう際立たせる。穏やかな春の日だ。
小鳥の丸い目の先には一人の少女がおり、彼女は書架に取り付けられた可動式の梯子に腰掛けて、熱心に書物を読んでいた。
かすかなピンクと茶色がかった、光沢のあるブロンド。茶色と緑の入り混じったヘーゼルの瞳。その目に宿るいたずらっぽい光は、小作りで愛らしい顔立ちとあいまって、やんちゃな子猫を連想させる。
少女はキアラ・モルゴース、今年十六歳になるモルゴース家の末っ子である。
彼女の瞳は一心に書物の文章を追っていた。それは遠い昔、今は失われた地で、吟遊詩人が歌い継いだ物語だ。
――復讐の炎に身を焼かれた魔女が、今まさに悲願を遂げようとしている。
――こと切れた妻と息子の死体を前に、呆然と佇む男。
――復讐の相手である憎き男に、魔女は勝ち誇った声で告げるのだ。
――『待ちかねたぞこの時を!業火にも勝る我が憎しみ、思い知るがよい!!』
「……すてき……」
うっとりとしたつぶやきとともに、少女の口からため息がこぼれた。
感動にうるんだキアラの目は書物から離れず、もう一度同じ文章をなぞる。本を持つ手にもぐっと力が入った。
「こんな残酷な復讐を思いつくなんて……、なんて素敵なのかしら!」
興奮に顔を赤くしたキアラは、ねえ?と小窓のほうへ顔を向けた。視線の先にいた小鳥が、応えるように首をかしげたが、キアラの意識はすぐに物語へと戻った。
本当に素晴らしい――もちろん、この魔女の鮮やかな悪女っぷりが、である!
元々はとある国の姫であったその女は、己を利用し、捨てた英雄に復讐を誓い、恐ろしい魔女へと身を落とした。
そして、王となった英雄の、生まれたばかりの赤子を攫い、自分の息子として育てるのだ。その子に、王がお前の本当の両親を殺した仇なのだと言い聞かせて。
やがて成長した王の息子は、両親の仇をとるため、王に近づく。魔女の魔法の助けも借りて、そうとは知らぬまま、彼は実の母である王妃を殺してしまう。そしてその場に駆けつけた王をも殺そうとするが、逆に王の剣を受けて絶命してしまうのだ。
王妃の死を嘆く王の前にかの魔女が現れ、ついに真実を告げる。たった今、己が殺した男が誰であったのかを――……
「ただ殺すんじゃなく、死ぬより辛い思いをさせる。周囲の人間も不幸に陥れる……。見事な悪役ぶりよね!わたしもぜひ、こんな風になりたいものだわ!」
そう言った少女の目はキラキラと輝いて、まさに夢見る乙女そのものである。
キアラは胸に書物を抱え、梯子からひょいっと飛び降りた。スカートと、ゆるやかに波打つ髪がふわりと揺れる。
キアラが小窓から差し込んだ光の中に立つと、茶色の入ったダークグリーンだった瞳が、オレンジの入ったライトグリーンに変わる。彼女の目は光の具合で色が違って見えるのだ。
小窓を向いて立ったキアラは、まだ窓枠にいる小鳥にはりきった声で言った。
「よし、ちょっと練習してみるわね!この魔女の、恨みのこもったかっこいい台詞の数々を!わたしも将来、きっと言う機会があるもの!!」
ウォホン、とひとつ咳払いをし、キアラは息を吸い込んだ。
「『その絶望に満ちた顔!それこそ我が待ち望んでいたもの!なんと愉快な眺めであろう!』……うーん、なんか迫力が足りないかな?」
キアラは難しい顔で言う。長年の憎悪が結実した瞬間なのだから、それは凄まじい気迫のはずだ。
(もっとこの魔女の気持ちになって考えなくちゃ。魔女の気持ち、魔女の気持ち……)
ぶつぶつとつぶやきながら念じるキアラは、後ろのほうで遠慮がちにコンコン、と棚が叩かれた音には気づかなかった。
集中力を高めたキアラはカッと目を開き、今度は表情とポーズもつけて挑んだ。
「『苦しめ!苦しめ!!復讐は成れども、貴様への憎悪は消えはせぬ!この魂が朽ちるまで、呪いつくしてくれよう!』……はあー、かっこいいー」
「お取り込み中のところ失礼――」
「うひゃいっ!?」
背後から聞こえた声に飛び上がったキアラは、慌てて振り返った。
そこには、群青と白を基調とした騎士の服に身を包んだ、すらりとした青年が立っていた。
青年は柔らかい色味の金髪を無造作に額に垂らしており、目元がほとんど見えない。明らかに前髪が邪魔である。おかげで顔立ちも表情も分かりにくかったが、長い付き合いであるキアラには、彼が呆れた顔をしているのが分かった。
「驚かせてごめん、キーラ。でも一応、何度か声をかけたんだけど」
「い、いつから居たの、ヴィヴィ……というか、今の、聞いてた?」
おそるおそる聞くと、青年――ヴィヴィアンが口元に微妙な笑みを浮かべたので、キアラは盛大に赤面し、本で口元を隠した。ばっちり聞かれたようだ。恥ずかしい……。
ヴィヴィアン・フォーサイスはキアラの騎士である。キアラより三つ年上で、前髪のせいで面立ちがはっきりしないものの、整った輪郭と優しげな声は、いかにも好青年、といった雰囲気がある(とある人物の評では、「根本的には脳筋」とのことだが)。
出会って九年の長い付き合い、恥ずかしい場面など何度も見られているので今更だが、キアラは誤魔化すように咳払いをした。
「聞かれてしまったのなら仕方がない……で、どうだった?」
もったいぶって言った割に、最後のほうはこそっとうかがう様に声を小さくしたキアラに、ヴィヴィアンは首をかしげる。
「どうって?」
「だからつまり……様になってた?」
期待を込めて聞いたのだが、返ってきたのは生ぬるい沈黙であった。キアラはがくりと肩を落とした。
「うぬぬ……わたしに迫力と執念が足りないばっかりに……。やっぱり、地位も財産も何もかも失って国外追放されたり、愛する者に手酷く裏切られたりしないとだめなのかな?このお話の魔女みたいに」
キアラがそう言うと、ヴィヴィアンは「こらこら」、と呆れた声をあげた。
「とんでもないことを言うんじゃないよ。ちなみに、そのお話の魔女さんは最後どうなるの。結局死んだりするんじゃないの?」
「そりゃあもちろん、最後に華々しく散るのも悪の美徳ってものでしょう!」
拳を握って力説する主人に対し、彼女の騎士はため息をつき、少し屈んで顔を近づけた。
「一応言っておくけどね?マイレディ。僕がいるから、君が国外追放されたり、華々しく散ったりするような事にはならないよ。絶対に」
「えーっ!?そんなぁ!」
ショックを受けた様子のキアラだったが、すぐに神妙な顔になる。
「それもそうね。あなたは優秀ですもの、わたくしの騎士。……実を言うと、わたしも痛いのとか苦しいのとか、まったく得意じゃないのです」
得意な者がいたら大変である。
「よろしい。じゃあ、ふてぶてしく、しぶとく生き残る方向でいきましょう!」
「そうして」
キアラの宣言に、ヴィヴィアンがひとまず胸を撫で下ろしたその時。
「また情けない事を言いおるねぇ、このひ孫は」
「うひゃいっっ!?」
下のほうからいきなり聞こえたしわがれ声に、キアラは再び飛び上がった。見れば、ヴィヴィアンの横に小さなミイラ……ではなく、キアラの曾祖母・ディアドラが、ちょこんと立っていた。
「ひいおばあ様、いつからそこに!?」
「最初からさね」
杖をついてはいるが大変元気なこの曾祖母は、背が曲がっているせいもあり、横にいるヴィヴィアンの腰のあたりまでしか身長がない。声をかけられるまでまったく気づかなかった。
「……ひいおばあ様、一晩見ない間にまた縮んだんじゃ?」
「だまらっしゃい。この婆がわざわざ探しに来たというのに。部屋の外まで声が聞こえておったが、お前に役者の才能はないようだねぇ」
「まぁ、ひいおばあ様ったら、勘違いしないで下さいな!わたしが目指しているのは役者ではなく、立派な悪女です!!」
力強く宣言するひ孫に対し、老女はふむ、とうなずいた。
「その心意気だけは褒めてもいいね。《悪》は我が呪われしモルゴース家の、大事な家業なのだから」
「もちろんですわ!わたしも今はまだひよっこですけれど、いずれは世間に名だたる悪女に……」
このままでは延々と、曾祖母とひ孫による《悪》の夢語りが続く事を察したヴィヴィアンは、さりげなく会話に割って入った。
「失礼、お話中申し訳ありませんが、お二人とも。もう時間が」
「え、時間?」
きょとんとしたキアラは、ヴィヴィアンを上から下まで眺めて、首をかしげた。
「そういえばヴィヴィ、なんでよそ行きの格好してるの?」
「……キーラ、君ね、今夜は街の舞踏会に参加するでしょう。ここからじゃ会場まで遠いから、街に住んでいる叔母君の館にお邪魔して、そこで準備をさせてもらう手はずじゃないか、忘れたの?」
しまった、という顔になったキアラを見て、ディアドラもやれやれ、と首を振る。
「また気が変わって、逃げ出したんじゃないかとね、わたしも探すのを手伝ったんだよ。まったくお前ときたら、舞踏会に行きたくないと散々ごねてこの婆を手こずらせて。しかも理由が、知らない相手と踊るのが恥ずかしいなどと、情けないことこの上ないよ。そんな有様で一人前の悪女になれるものかね」
「うぐ」
痛いところを突かれたキアラは一瞬つまったが、弱気を隠すように胸を張った。
「ご心配なく。悪女(予定)に二言はございませんわ!さっきは忘れていた訳ではなく、ちょっと気持ちを落ち着けようと読書をしたら、物語に入り込みすぎてしまっただけです。今夜の舞踏会、モルゴース家の娘として今度こそ、立派に悪女デビューを果たしてきますとも!!」
「ほっほ、その意気その意気」
モルゴース家の女たちが不穏な盛り上がりを見せた時、窓の外から、キョッキョッ、ボーゥボーゥ、グルルル……という、更に不穏な“何か”の鳴き声が複数聞こえてきて、キアラははっとした。
「いけない、“悪の手先たち”のご飯を用意しておかなくちゃ。ヴィヴィ、出かけるのもう少し待って!」
「キーラ、それはダラに任せておきなよ、本当に間に合わなくなるよ」
慌てて部屋を出て行くキアラの後を、ヴィヴィアンもディアドラに一礼してから追う。残されたディアドラは再びやれやれ、と首を振った。
窓枠にとまっていた小鳥は、いつの間にかいなくなっていた。
* * *
モルゴース家は先祖代々続く《悪》の家系である。
ご先祖たちはときに稀代の悪党として、ときにはかませの小物として、その使命を果たしてきた。もちろん、あまりに表立って活動してはお家が断絶してしまうため、裏でつつしみを持ちつつもちゃっかりと、家業を営み続けて今に至るのだ。
厳重に秘されていることだが、系図を遡れば、この国・ヘリオドリスの英雄アスランを苦しめた九つの悪のうちの一人、悪女モルダーナが一族の始祖とされている(信憑性が如何ほどかは不明であるが)。
『世界には《悪》が不可欠である』という始祖のありがたい教えのもと、その信念と偉業を受け継いできた悪のモルゴース家だったが、時が経つほどにその活躍の機会は減っていった。
キアラの曾祖母、ディアドラの全盛期は性悪の悪女として大層名を馳せたそうだが、その反動なのか、祖父母と父母の代はしごくまっとうな貴族の暮らししかしていない。
ディアドラは血涙を流さんばかりの勢いであった。
ディアドラがなにより嘆いたのは、モルゴース家の人間の意識の変化である。
「悪党とか面倒」、「わざわざ悪役になる必要がどこに?」、「悪が家業とかまったく意味が分からない」などなど……モルゴース家の根底を揺るがす発言をする者が増え、もはや廃業の危機なのである。
そんななか、モルゴース家現当主の末っ子であったキアラは、十歳の頃より曾祖母の住む別邸へ移り、家業を継ぐための教育を受けることとなった。
両親はもちろん大反対したのだが、家業消滅の危機を前に、ディアドラも引かなかった。すったもんだの末、キアラ本人がなぜかやる気だったことも影響し、家業を賭けた家族間の攻防はディアドラが勝利を収める結果となったのだった。
それから六年間、曾祖母の教育を受けたキアラだったが、成果は正直に言って芳しくない。
騎士として常にキアラの側にいるヴィヴィアンは、(向いていないのでは……)とこっそり思っているのだが、口に出したことはない。泣くだろうから。
そんな有様だが、本人のやる気だけはディアドラも褒めるところなので、キアラの悪役修行は現在進行形で続いているのであった。
目指すは始祖もびっくりの大悪女なのだ!