1 不幸ケース1:入学日に誘拐される
U県H市。
現代の日本にある、人口100万人には届きそうで届かない地方都市。
鉄道に高速道路も通っているので、公共交通機関に不便はしない。
ここは県立H市西高等学校。平均を絵に書いたような高校であり、制服はブレザーを着用している。
そして今日は、西高校の入学式だ。
子供から大人への過渡期にある新入生たちは、水溜りに反射する春の太陽と、水滴のコーディネートをした桜並木の歓迎を受け、ある人は希望を抱き、ある人は不安を抱き、ある人は脱童貞を掲げ、校門をくぐる。
部活の勧誘攻撃をかわし、無事1年F組の教室へとたどり着いたとある男子は、こう呟いた。
「不幸だ……」
彼の名は幸多真幸。
4月1日生まれ、身長162センチ、痩せ型。顔は整っているが、モテた事はただの1度も無い。
真に幸福を受けそうな名前だが、しかし彼の日常は、異常とも言えるほどの不幸で彩られている。
例えば今の彼は、頭の天辺から足の先までずぶ濡れなのだ。
話を数分前に戻そう。
真幸は自らの不幸体質をよく理解しているので、とにかく慎重に登校をしていた。
列車には1時間も手前のものに乗り、曲がり角では食パンを咥えた女の子とぶつからないようにし、横断歩道では青信号になってもしっかりと車が停車するのを待ってから渡る。
しかし彼の不幸体質はそんな努力をあざ笑う。
校舎が見え、あと少しの所。
彼の背後からは、荷台を緑の保護シートで覆ったトラックが迫っていた。
校舎前にある右カーブ。真幸の横を通り過ぎるトラックは、少しのオーバースピードにより外側へと大きくロール。そして昨日の雨により保護シートに溜まっていた雨水は、津波となって真幸を襲った。
入学式だというのにずぶ濡れで現れた真幸は、すぐさまクラスメートの好奇の目に晒される。
彼の体質を知らないクラスメートは「なんだあれ」等とヒソヒソ声で近寄らず、逆にその体質を知る中学からの知り合いは「お前またかよ!」と笑う。
元から背の小さい真幸は、不幸体質もあり気弱な性格。なので、周囲の声に反論も出来ない。
ただ1人――。
「真幸、また腐れ縁だ。っつーかビショ濡れじゃねーか! 保健室行ってタオル借りてくるか。保健室どこか知らねーけど」
「悠児も僕の不幸が移ったんじゃないの? 保健室行ってくる」
「待て待て。真幸1人じゃ安心できねーよ」
真幸がタメ口で話せる鈴木悠児だけは違う。
まだ15歳ながらも身長191センチ、茶髪オールバックに強面の彼が睨めば、クラスメートは目を逸らさざるを得ない。
真幸と悠児は小学校入学以来の腐れ縁で、真幸は様々な理由から遠慮がちに接しているが悠児は親友だと思っているほどの仲。当然、真幸の不幸体質も理解している。
背の高い悠児が真幸の肩に手を回して歩く姿は、まさにヤンキーのカツアゲ。実際中学時代に悠児は、他校の番長と喧嘩をした経験もある。
だが真幸の中では、根はとてもいい奴との評判だ。
保健室への道すがら、2人は知り合いの教員を見つけた。
幸多一弘。苗字から分かるとおり、真幸の父親だ。
一弘は現在3年生を受け持っているので、2人と校内で会う事はほぼ無いはずだった。その”ほぼ”が入学式で、しかもずぶ濡れの息子に会う事になろうとは。
しかし――。
「無事に学校へはたどり着いたみたいで良かった」
ずぶ濡れの息子を見ても、全く驚かない一弘。
腐れ縁の悠児が真幸の体質を知っているという事は、家族ならばそれ以上によく知っているという事である。
「俺ら保健室でタオル借りてきます」
「悠児君いつもすまないね」
「いいっすよ。親友っすから」
保健室でタオルを借り、1-Fの教室に戻ってきた2人。なお真幸は往路の階段で1度、濡れた床に滑り転げ落ちそうになっている。悠児がいなければ大怪我は間違いなかった。
教室のドアを開けると、既に担任教師が来ていた。
「あーこいつ転んでビショ濡れになってたんで、保健室でタオル借りてました。俺付き添いです」
「はい。保健室に行ってました」
「分かりました。座りなさい」
素直に訳を話し、急いで座る2人。
悠児は最後列だったが、真幸は教卓の目の前だ。
「では自己紹介を致します。私はこれから1年間皆さんの担任を勤める、柳と言います」
担任の柳は、頭髪と育毛剤が残量を賭けてチキンレースを繰り広げている男性教師。
丸顔かつ体型もふっくらしているので、以前のあだ名はダルマ先生。先生もネタとして昇華しているので、これを早速披露。ほどなく今回も柳先生のあだ名はダルマ先生に決まった。
ダルマ先生の先導で体育館へと向かい、粛々と入学式を済ませた新入生たち。
下校後に待つのは、先ほどよりも更にヒートアップした部活の勧誘。
「真幸、一緒に帰るぞ」
「いいよ、1人で帰れる。それに悠児だったら引く手数多でしょ? ってもう引っ張られてるし」
悠児はその体格ゆえに運動系の部活全てに勧誘を受けている。
一方真幸には存続の危機にある同好会すらも声をかけない。
「お、おい真幸! ってちょっと先輩痛いって!」
「頑張ってー」
「真幸ぃー! 貴様ぁー! 気ぃ付けて帰れよぉー!!」
絶叫と共に、悠児はむさ苦しい男の輪に埋もれ消えた。
こうして真幸は悠児と離れ、1人での帰宅を開始。
しかし彼が歩けば不幸もまた寄り添う。
マンションの前を通れば植木鉢が落ちてきて、工事現場の前では鉄骨が降ってくる。信号無視の自転車はもはや当たり前で、犬に驚いた自転車を避けるために車が突っ込んでくるというピタゴラ的不幸も、当然のように起こる。
しかし当然のように起こるという事は、これも真幸にとっては日常茶飯事の出来事。警戒は怠らず、またこれを回避する能力――すなわち反射神経は常人以上に鍛えられているため、実際に怪我をする事はあまり無い。
駅が見えてきた。
前出の通り真幸は列車通学であり、3駅分を乗る。
行きは遅延を考えなければいけないが、帰りは遅れてもどうにでもなる。そう思った真幸は、駅前の大通り交差点に警戒を移す。
その大通りの一本手前。信号の無い、車一台分の狭い路地。見通しは悪い。
真幸はあまりこの周辺には詳しくなかったので、この路地を見逃してしまった。
小さな交差点の中央まで歩を進めた、その時。
真幸の目線は路地へと向かい、その路地からは運転席に誰も乗っていないシルバーの商用バンが、クリープ現象では済まない30キロ以上の速度で現れた。
真幸の反射神経でも既に回避可能なボーダーラインは超えている。事故は確実。
ここで真幸の脳内には2つの選択肢が現れた。
・ボンネットから屋根伝いに跳び、回避する。
・足を犠牲に背中からボンネットに当たり、頭だけは守る。
真幸は即座に後者を選択。その理由は昨日の雨にある。不幸体質の自分ならば、ボンネットで足が滑ると予想したのだ。
かくして1秒とない猶予の中、真幸は車に背を向け後頭部を腕で守る防御体制を取った。
ドンッ!
(骨が折れて入院かなぁ………………あれ?)
鈍い接触音が聞こえ、骨折を覚悟した真幸だったが、衝撃が来ない。
それどころか、キュルキュルと甲高いスキール音とゴムの焼けた匂い、そして煙が辺りを包んでいる。
この状況を把握できない真幸だが、振り返り車を見れば、女性が片足で車を押さえ込んでいる。ますます状況を理解できなくて、動けない真幸。
この状況に一番に我に返ったサラリーマン風の男性が、全開になっている運転席側の窓へと半身を突っ込み、無理矢理鍵を抜いて車を止めた。その窓からは「にゃ~ん」と野良猫が2匹逃げ出して、周囲も状況を理解するに至る。
だが真幸の不幸は終わりではない。
暴走車を足で止めてしまった女性に感謝と謝罪をしようと立ち上がった真幸。すると女性は真幸を睨むと唐突に胸倉を掴み、かと思ったらひょいと持ち上げ真幸をお姫様抱っこで誘拐!
抵抗しようにも、足も腕もかなり強く抱かれていて身動きが出来ず、しかも鼻と口が女性の豊満な胸部のふくらみに押さえつけられ、息ができない。
(不幸中の幸いだけど……マジ息できない……死ぬ……)
真幸は大きなおっぱいに埋もれて死にそうになっている。
過去様々な不幸に見舞われてきた真幸でも、女性のおっぱいで死にそうになった事は2度しかなく、そのどちらもが赤ん坊の頃の話。
対処法が分からないながらも、豊満なおっぱいはとても柔らかくよく揺れるので、たわんで出来るわずかな時間のわずかな隙間に息を吸い、どうにか生き延びる。
その頃女性は道に迷いながらも走り続け、誰もいない空き地を探していた。
交差点では左右をしっかりと確認し、車のいない方向へと進み、直線でも後方の警戒は怠らない。
そうしてしばらく走り続け、丁度良く更地になっている工事現場を見つけ、入り込んだ。ここならば飛行機がピンポイントに墜落してくる以外の不幸は起こらないはず。
真幸を少々乱暴にドサッと落とした女性は、真幸から3歩遠のき、真幸が息を整え、彼から話し掛けてくるのを待った。
息を整えた真幸は、助けてくれた女性の容姿を改めて確認した。
日本人とは全く違う西洋風の端整な顔立ちに、それを証明するかのような綺麗な金髪。それをポニーテールにまとめてあり、長さは腰に届きそうなほど。しかしその表情は一目で機嫌が悪いと分かるもので、真幸はおっかなびっくりが抜けない。
真幸を睨む瞳は炎のように赤く、この世のものとは思えないほどに美しい。そして素晴らしく機嫌が悪そうだ。
身長は真幸よりも少し高い、165センチ以上170センチ未満。真幸は目測で167センチではないかと予想。年齢は18歳以上にも見えるし、真幸と同年代にも見える。
しかし服装は明らかに異質で、どう見てもファンタジー世界から飛び出してきた軽剣士。口を覆い隠すほどだが胸の上部までしか防御していない鎧に、茶色の皮製グローブと一体となっている篭手、臑までを覆うブーツ。この3点は全て金属製で、フチには赤色の細工が施されている。
インナーは白く、ノースリーブで体のラインが分かるタイトなもの。スカートは赤く、ライン等はなくシンプル。そして膝上まである黒のソックス。
そんな女性の腰には、明らかに銃刀法違反で検挙される、1.2メートルはあろうかという西洋剣が下がっており、女性の右手は常にグリップに添えられている。現在は鞘に納められているので、その剣身は見えない。
一通り見回した真幸は、これが逃れられない不幸であると確信し、冷静に真剣に口を開いた
「あ、あの……おっぱいありがとうすみませんっ!」
真幸はこれでも本当に冷静で真剣だった。真剣がゆえに、男女として謝罪をしなければという気持ちと、先に助けてくれた感謝をしなければという思考が混線し、結果とんでもない着地点へとすっ飛んでしまったのだ。
だが女性は無言、無表情。
「チッ」
「うわっ……す、すみま、せん……」
舌打ちが飛んできて、真幸は女性が大層お怒りなのを肌でひしひしと感じている。
「……あなた、マサユキ・サイダで間違いありませんか?」
「ま、まさ……あ、はい。幸多真幸15歳です。すみません……」
何故女性が自分の名前を知っているのか、等という疑問はこの状況では浮かばず、ただ気弱な性格から謝ってしまう真幸。
そんな女性は再度舌打ちをすると、胸に手を当て、真幸に頭を下げた。
「わたくしはマギナクリエ王国の第三王女。名はベアトリクス・エスメラルダ・スタールビーと申します。わたくしは500年前の英雄によりマサユキ・サイダの守護を仰せつかり、異世界より参上致しました。唐突な話で驚きもありましょうが、今後ともよろしくお願い致します」
「……あ……はい。えっと……お名前長いですね」
「チッ」「ひぃっ」
「ベアトリクス。それだけで構いません」
「は、はい。よろしくお願いします。ベアトリクス……様」「さんで」「あ、さん。あ、はい」
冷静なのだが、持ち前の気弱な性格が祟り、ボロボロの真幸。
「……あの、聞いてもよろしいですか?」
「ええ、何なりと。先に申し上げておきますが、Eカップです」
「え、え、え、いや、い……嬉しいけど、そうでなくて、ですね……」
思わず嬉しいと漏らした事には気付いていない真幸と、また舌打ちをしているベアトリクス。
しかしベアトリクスの目では、自身が異世界から来たと話しても内心では冷静さを保っている真幸が、異様な存在に見えていた。
「そのご様子でしたら、こちらから先に要点だけをお話致します」
「お、お願いします」
「まず、わたくしの世界はおよそ500年前まで、長きに渡り邪悪なる魔王との戦いが繰り広げられておりました。しかし500年前、英雄の手により魔王は討ち滅ぼされ、世界に平和が訪れた。英雄は死の間際に遺言を残し、500年後の異世界にいる、自分と魂を共にしている者を守護してほしいと願ったのです」
「……えっ、それが僕?」
「端的に申し上げればそうなります。そしてマサユキ・サイダ。あなたは様々な世界の様々な英雄と魂を共有しており、彼らにその幸運を全て吸われたがゆえの、不幸体質なのです」
「なんか納得しました。やっぱり僕の身の回りに起こる事は、全部不幸で引き起こされているんですね」
ほっとした表情と声色の真幸。しかしベアトリクスはそんな態度の真幸に、心底怒りが煮え滾っている。
「チッ。もうひとつ、これはわたくしの個人的な話でありますが……わたくしはあなたのような、努力を怠り失敗を運命のせいにする人間が、大嫌いです」
親の敵でも見るかのような鋭い眼光を真幸に飛ばすベアトリクス。真幸もこれには何一つ言い返せず、ただ防衛本能として口をつぐみ立ち尽くすのだった。