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時計の針が突き刺す背中

「美鈴!」

 何度目とも知れぬ凛とした呼び声が、紅魔館の門に響き渡る。

 呼ばれたその名を持つ門番、紅美鈴は――のんきなものだ。まだ門柱にもたれかかって、静かに寝息を立てている。

「起きなさい! 美鈴!」

 ずいぶん赤くなった夕日を受けて、一層輝く紅色の髪が、前後に揺すられる。

「んあ……」

 やがて、哀れな門番は目を覚ました。

「ああ、ごめんなさい。寝てました?」

 歯ぎしりするのは、十六夜咲夜。この館の、紅の悪魔に仕える者たちを総べる者。

「美鈴、少し気が緩みすぎていますよ」

「ああ、すみません」

 努めて冷静に作った声に、なおもぼんやりとした返事がかぶさる。

 咲夜はきゅっとこぶしを握り締めて――すぐにふっと緩めた。

「まぁ、いいです。巡視の時間ですよ。周りを見て回ってください」

「はぁ、分かりました」

「良いですか。あの二人組の一件があってからというもの、興味本位の覗き屋が増えています。発見次第、必ず、私に引き渡すこと。いいですね」

「はい、分かりました」

 そう言って、のっそりと塀に沿って歩き始める美鈴。

 咲夜はそれを見送って、深い、深いため息をついた。

「……」

 その瞬間、周囲のすべてが、静止する。風鳴りすらも、日差しですらも。

 紅魔館のメイド長、十六夜咲夜。時間を操る程度の能力。その基本にして最大の武力だ。

 その凍てついた世界の中で、咲夜の青色の瞳だけが、爛々と燃えていた。

 歩き去ろうとする美鈴の背中には、覇気はおろか、生気すら感じられない。

 ちゃり、と咲夜の手の中でナイフが乾いた音を立てた。

 今、あの背中にこれを投げつけたら、どうなるだろう。三本同時に。

 おそらく、何の抵抗もなく全て突き刺さるに違いない。今なら。

 ――私が……。

 しかし、咲夜は空中にその凶器を消して、館へと戻っていく。黄昏時。逢魔が時。彼女の主人が、起きだす時分。仕事は山積みだ。一つの門番に、心からの気遣いの言葉をかける暇もない。

 ――私が追いかけた背中は、もうどこにもないのでしょうか……。

 美鈴の不調は、もう何年続いているだろうか。時の流れに疎い紅魔館の住人たちは、それを気にかけつつもはっきりとは覚えていない。

 固く閉ざした瞼は、そこから入り込んだすべてを拒んでいた。


「レミィ、今日は早いのね」

「ええ、ちょっと面白い糸が見えるもの」

「糸? 綾取りもほどほどにね」

「綾取りなんか、したことないわ。私が動かさなくても、勝手に絡まって、もつれ合って……。さて、どうなることやら」

「知ってるくせに」

「まぁ良いじゃない。少しだけ昔話でもしながら、行方を見守りましょ」



 戦乱の世を経てひとまずの平穏を得た西欧にあって、放棄された砦、というのは、珍しい存在ではない。旅の身にあれば、国境を超える間に二つか、三つは確実に目にするだろう。簡素な尖塔と、申し訳ばかりの塀。そして、戦士たちに一時の憩いを与えた、兵舎。戦の気配とともに存在の理由を失ったそれは、一言でいえば、荒涼。二言でいえば、うらさびれた廃墟。三言でいえば、不気味でできるだけ近寄りたくない。そんな存在だった。

「やーっ!!」

 そんな陰鬱とした雰囲気にそぐわない、勇壮な少女の声。凛と空気を震わせるそれは、幼いながらもかつての戦場を思わせる。

「……破っ!」

 それに応える、裂帛の気合いを乗せた声。

 大気が震え、朽ちかけていた木の柵がみしり、と軋んだ。

 少女の目の前で、鉄拳が蒸気のような筋を立ち昇らせながら、ぴたりと止まる。伸びっぱなしの銀髪と、澄んだ青い瞳を、突風が薙いだ。

「……っ!」

 しりもちをついた少女を温かい目で見下ろす、拳の主。

「大分、筋は良くなってきたね」

 紅の長髪をふわり、とはらって、美鈴は指の間に挟んだナイフを、その場に落とした。

「……なんで」

「ん?」

 悔しげにつぶやく少女。その名は――残念ながら、すでに運命の輪から失われている。

「見えてないはずなのに、なんで、一発も入らないの……!?」

 毎度涙目になる少女を、どう窘めるか。美鈴にとっては、ここからが本番だった。

「いや、実際、お前の力は強力だよ。時間を操る力。素晴らしいと思う。加えて、私のいいつけをちゃんと守ってるおかげで、体力もついてきたし、体術も身についてきた。士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし、というが、お前は日に日に、強くなっていくな」

 今回は――ひとまず上げる。

 少女は、しかしこちらを見上げて、食い下がる。

「でも……」

「でも、は無しだ」

 しぶしぶといった様子で彼女は従うが、それでもいい。ここは一先ず、黙らせなくてはならないのだ。

「志が高いのは結構。だが、成長がみられるとはいえ、過ぎた望みは妨げになる。愚公、山を移す、という教えがあるが、私たちは一代でもっとずっと長く、時間を使うことができるんだ。一歩ずつ着実に進めばいい」

 そうして、美鈴はこの日の演習を、子細に評価する。それを、少女は頷きながら吸収していくのだった。聡い子だ、と美鈴は感心していた。彼女は、一度教えたことは必ず次回に反映してくる。

「……と、いうわけ。何故当たらないか? 時が止まるタイミングが、見え見えなんだよ。その一瞬で、心の準備ができてしまう」

 少女が首をひねるのを、美鈴はやはり感心して見つめていた。

 それは、らせん階段のように永久に続く命題だった。タイミングが見えているなら、裏をかかなければならない、しかし、少女が裏をかいた、そのさらに裏を美鈴が用意していたならば? 当然、その裏をかかなければならない。でも、それも想定の範囲内だったとしたら――対戦相手は、どこまで自分の行動を読んでくるだろう?

 かつての美鈴が、武術を志す者として、妖怪の持つ長い時間をかけて何とか折り合いをつけた難題に、この少女は――若干特殊ではあるが――人の身で立ち向かおうというのだ。

「ま、よーく考えな。若人」

「……狩りに出てくる」

 ぽん、と肩を叩くと、少女はそれを振り払うように体をゆすって、どこかへと掻き消えた。

 見送りに、と小ぶりに手を振る美鈴。

 そして、背後で成り行きを見守っていた強大な気配に、振り向いた。

「日の光はお体に障るのではないですか? レミリアさん」

「別に、当たらなければ問題ないわ。そんなことより、どう? 仕上がりそうかしら?」

 くすくす、と湿った笑みを日傘の下から漏らすその存在――レミリア。彼女はその幼い容姿からは想像もつかないほど陰惨な笑みを浮かべ、美鈴にそう訊いた。

「ご覧のとおりですよ。筋はとても良いです」

「ええ、知ってる。間に合いそうかしら? と聞いてるの」

 美鈴は肩をすくめた。

「ご存じなんじゃないんですか? それもこれも」

「運命の糸は、とても流動的だわ。存在の行い次第で、いくらでも動く」

 レミリアの真紅の眼光が、怪しく光る。

「……そして、いくらでも切れる」

「物騒なこと言わないで下さいよ。私もいつやられるか、ひやひやなんですから」

 それは彼女の、期待に満ちた本音だった。

「ところで、ご朋友のところっていうのは、もうすぐなんですか?」

「ええ、あと一週間もあれば、たどり着けるでしょうね。楽しみだわ、広すぎる館の陰気を吸い込み続けて、どれだけ青白くなっているか」

「名の知れた魔法使いなんでしたっけ?」

「その筋じゃ、彼女の名を知らぬものはいないわよ。その叡智と、あまりの虚弱さをね。天は二物を与えず、といったところかしら」

 くくく、と口元だけをゆがめるレミリア。

 一緒に笑っていいものか悩んだ美鈴は、ひとまず主を兵舎の中へと促した。

「ところで、妹の様子はどう?」

「ちゃんと寝かしつけましたよ。疲れれば眠るあたり、かわいいもんですね」

「払い分の仕事をしてくれているようで、何よりだわ。食事は?」

「今、あの子が取りに行ってます」

「重畳。私は少し休むわ。あなたもたまには息抜きでもしたら?」

「このくらい、動いたうちに入りませんよ。まぁ、お気遣いありがとうございます」

 レミリアは厳かに、兵舎の奥へと消えていった。

 それを見送った美鈴は、表を向いて静かに目を閉じた。そよぐ風とはまた別の、「気」の流れが彼女の肌をわずかに撫でた。大気に満ちるその力の一端を彼女はようやっとつかみ、利用し始めたところだった。

十年ほど経ってなお、その道行は霧の彼方だった。しかし、涓滴岩を穿つ、とは彼女の座右の銘であった。



「……悪かったわね、虚弱体質で」

 本から顔を上げるでもなく、淡々とそう言うパチュリー。

「代わりに、ちゃんと褒めたじゃない。それに随分良くなったわね? パチェ」

「外の空気があわなかったのか、ここの空気が特別なのか……、それも研究中よ」

「そう、頑張ってね」

 そう言って、レミリアはゆっくりと席を立った。

「どこに行くの、まだ話半ばでしょ」

「語り部交代、聞き手も交代。妹の顔も見に行きたいし、それにあなたの道行きを邪魔するわけにはいかないもの」

「私の運命は読まないで、って再三お願いしたはずだけど?」

「ごめんなさい。でも馬に蹴られて死ぬのだけは、ごめんだったの」

「不死の鬼が何を。まぁいいわ。何のことを言っているのか、わからないけれど」

「その方が、きっと楽しい。じゃあね、豆もやし」

 がこん、と埃を巻き上げて、扉は閉じられた。メイドの手は、地上にまで増設したこの聖域には届いていない。それはパチュリーの意向だった。塵芥に属するものにも、何らかの知見に繋がる価値があるかもしれない。故に知識の礎たる書庫は、すべてを受け入れ、蓄えなければならない。そうした、彼女のある種貧乏性じみた信念を、完璧な使用人は汲んでくれているようだった。

 ため息とともに、パチュリーもゆっくりと立ち上がった。

 書庫はすべてを、受け入れる。窓の外に張り巡らせた索敵の陣に引っかかった、無遠慮な来客をも。

 かた、と鍵を外して薄汚れた窓を開くと、白黒の魔法少女と目があった。

「霧雨魔理沙……、だったかしら?」

「覚えてもらってて光栄だぜ。話が早くて助かる」

「どういう事かしら。ひとまず、上がりなさいな」

「土足でいいのか?」

 そう言いながら、窓をよじ登る魔理沙。

「まるで、盗人よ」

「あながち、間違ってもいないぜ。ここにある知識を掠め取って行こうって腹積もりだったからな」

「そう。なら歓迎するわ。この図書館の叡智、私一人の身に収めておくにはあまりに深遠で、膨大過ぎる」

「じゃあ、遠慮なく」

書の谷間へと消えていく魔理沙を、パチュリーは虎視眈々と見つめていた。

先の戦闘で、かの少女の魔法は、パチュリーの全力を込めた防御を見事突き破って見せた。

人の身にありながら、どれほどの鍛錬を積んだのか。それとも、強力な触媒のなせる業か。

パチュリーの、目下二つ目の関心事は、霧雨魔理沙という少女の解剖だった。対話によって、彼女の秘密を知ることができればそれでよし。そうでなければ、物理的に。

「よぉ、パチュリー」

 鷹揚な呼び声に、パチュリーは声だけで応えた。

「何?」

「ここにあるのって、魔術書だけか? 医学書はないのか?」

「あるといえば、あるわ。魔術は体の組成を組み替えたり、体を冷やしたりと医術に転用される場合もある。何かお探しかしら?」

 解体しようと思っているのを見抜かれたのかと、パチュリーは内心冷や汗をかいていた。

「いやー、里の方でちょっと厄介な物が流行っててな。ちょいとそのことが知りたかったのさ」

「厄介な物?」

「何だ、村の爺婆が、だんだん、いろんなことを忘れていくんだと」

「それは人間の常ではないの」

「そりゃ、そうだが。でも、さすがに家族の名前や、自分の家を忘れたりはしないだろ?」

 パチュリーは本から目を上げた。

「そんなことが、起こっているの?」

「ああ。どうした?」

 魔理沙は書架の間からひょいと顔を出した。

「……そういうことね、レミィ」

 首をかしげる魔理沙に、パチュリーはおもむろに視線を投げた。

「それと関係が、あるのかないのか。一人の、憐れな門番の話よ。知識をあげる代わりに、差し支えなければ、人間の意見を聞かせてもらえるかしら」



 緑深い森の奥深くに、その紅の館は唐突に佇んでいた。森の空ろに詰め込まれるような格好で、母屋と離れ、そしてそれらより少し高いばかりの時計塔が建っている。極端に窓が少ないレンガ造りの、その外観はいうなればのっぺりとした無表情だった。脈打つような壁面の紅が、どこか空々しい。

 その、地下室。

書斎、と呼ぶにはそこはあまりに広すぎた。見上げるような書架がいくつも、いくつも立ち並び、それでもなお収まりきらなかった書物が敷布の上に丁寧に積まれている。

「久しぶりね、レミィ。道行きで灰になってやしないかと、気が気でなかったわ」

「ええ、あなたも息災で何よりだわ。本に潰されてやしないかと、心配だったのよ」

 くすくす、と笑いあう二人の主たち。

 美鈴は足を組んで扉にもたれかかりながら、その会話を聞くでもなく聞いていた。饐えた、埃っぽい空気だった。喉がざらつく。気の流れも、この閉塞した場では幽かだった。

「まぁ、冗談はさておき。使いに持たせた話、考えておいてもらえた?」

「失われたものの集う場所、だったかしら」

「そう。もしかしたら、興味があるんじゃないかと思って」

「ある、なんて騒ぎじゃないわ。お誘いありがとう。なかなか踏ん切りがつかなかったのだけど、いい機会。乗らせてもらうわ」

「ふふ、そうこなくっちゃ。手がいるわ、お願いね」

「もちろん」

 二人は巨大な書架の合間に消えていった。

 美鈴は一つ深いため息を吐いた。外にでて、気を練る練習でもしたい気分だった。当座の主であるレミリアには、本来護衛など必要ない。その友人たるパチュリーとやらも、相当な手練れであるに違いない。会話も遠くなった今、この場に美鈴は不要だった。

「……どこに行こうっていうんだろうねぇ、一体」

 美鈴は戸をくぐって、地上へと続くらせん階段を無造作に上った。響く足音は、どこか虚ろだった。

 「失われたものの集う場所」。レミリアは、目的地をそう呼んでいた。彼女から聞いたところによれば、この世から忘れ去られたもの、存在を消し去られたものは、そこへと行き着くらしい。話してくれたのは、そこまでだった。常世の運命から失われた強者に興味はないか、とレミリアは美鈴を口説き落としたのだ。少なくとも、彼女はそう確信しているはずだ。

 しかし、当の美鈴にとっては、それは実際のところあまり魅力的な話ではなかった。強大な力を振るえば、良くも悪くも名が残るはずだ。即ち、失われた名という肩書は、歴史が歯牙にも掛けないような存在だった、ということを示している。そんな弱者に、用はない。

 扉を跳ね上げると、白銀のナイフがすでに眼前にあった。

「おっと」

 軽くそれを払ってその場にかがみこむと、頭上を無数の刃が通過していった。

 容赦がないな、と美鈴は苦笑した。いまだ非力な少女が投擲したナイフが刺さったところで、致命傷には到底なりえない。お互いにそれを分かった上で、全力でこのゲームに打ち込んでいるのだ。襲撃は一日に一度。一発でも入れば、少女の勝ち。美鈴が受け取る対価は、この遊戯を行うことそのものにある。

 美鈴の行動理念は、武の鍛錬にあった。その目的にあって、レミリアの持つ、絶大な不可侵の力、妹様――フランドールが持つ異形の破壊の力、そして少女の持つ奇怪な暗殺の力が、彼女を捕えて離さない。どれも十分に魅力的な、修行の場だった。

「美鈴! どうだった?」

 たたっ、と駆け寄ってくる少女に、美鈴は余裕の笑みをかまして見せた。

「全然。両方同じ方向から飛んでくるんじゃ、世話ないよ。折角どこからでも投げ始められるんだから、もっと多角的に攻めないと」

 それは美鈴の本心だったが、武芸者としての勘とは別に、気の流れによる敵意の察知を行っている事を、彼女はあえて伏せていた。敵の力がすべてわかった上での戦闘など、この世にありはしない。少女の成長を慮ってのことだった。

 銀髪の少女はこくりと頷いた。

「……狩りに出てくる」

「はい。気をつけなよ」

 外へとかけていく少女の背中を見送りながら、

 ――ぎりぎりだったな。

 美鈴はそう、胸をざわつかせていた。

 気の流れを追えるようになってから、くらいだろうか。体の動きが反射よりもわずかに遅れるのを、美鈴は感じていた。はじめはわずかな、しかし武芸者としては、致命的な遅延。軋みの音は、次第に大きくなっていた。

 ――そして、楽しいだけじゃあ、駄目なんだよな。

「美鈴、どうしたの。背中がすすけているわ」

 勢い振り向く動作も、一瞬遅れた。

「ああ、いえ。ちょっと、自分の道行きを考えていました。あと、体調を」

「そうね。あなたは別に、向こうに行く動機がないものね」

 見抜かれていたか、と美鈴は主への認識を改めた。

「まぁ、あなたはどっちでもいいわよ。妹とは、また私がやりあえばいいだけのこと。世界をまたぐような契約は、しなかったはずだわ」

「そうですね」

 そう言いながら、美鈴は自分の置かれた状況を改めて噛みしめた。

レミリアたちのことを知ってしまった以上、この世界に生きて残ることは出来ない。この世のすべてから、彼女らは忘れ去られる必要があるからだ。

生きたいと願うなら、レミリアたちとともに行かなければならないのだ。あの不死たちを返り討ちにできるだけの力量は今のところないだろう、と彼女は見積もっていた。

 穏やかに笑ったレミリアは、しかし唐突に、狂気をはらんだ吸血鬼特有の鋭い視線を向けた。

「でも、最後の仕事はしていってもらうわよ」

「はぁ、すると、もう準備ができたわけですか」

「まだかかるわ。でも、係わる時間が長くなると、情が移るでしょう?」

「違いないですね。分かりました。明日、物にならなかったら」

 美鈴は、頷いた。

「あの子を、殺します」



「なんだなんだ。あの門番、ずいぶん物騒じゃないか」

「そうでなければ、レミィの従者は務まらないわ」

 今の奴はとてもそうは見えないが、と魔理沙は首をひねった。

「入るときに一応挨拶しといたが、なんだかぼんやりした感じだったなぁ。入っていいのか悪いのか、ただぼんやり笑ってるだけだったな。とりあえず、入ってきてしまったわけだけど」

 霧の異変を解決しに来た時も、あのレミリアが一目置くほどの力を感じることは出来なかった。

 それをパチュリーに伝えると、彼女もまた深いため息を吐いて応えた。

「……そうね。それもあの子。大昔の、強大な一妖怪としての姿も、あの子。それが、いったいなぜなのか。人間としての、あなたの意見を聞きたいわ」

「どうしてか、って言われてもなぁ」

 首をかしげていると、音もなく、背後から紅茶の香りが漂ってきた。

「私も、非常に気になりますわ」

「……心臓に悪いぜ」

 唐突に現れた咲夜は、カップを慇懃にテーブルへ置くと、トレーを抱えてパチュリーのそばへ侍った。

「お客人、という事でよろしいのですよね?」

「ええ。コソ泥だけれど」

「門番にも、ちゃんと挨拶したぜ」

 露骨にむくれる咲夜に、魔理沙は首をすくめて見せた。

「そんな様子の門番が、昔は滅茶苦茶強かった、って話を、今聞いてたところだ」

「懐かしい話ですね。随分前のことですけれど、まるで昨日のことのよう」

「じゃ、ここに咲夜がいるってことは、何とか勝ったわけだな」

「まぁ、そうなります。辛くも拾った勝利でしたね」

 咲夜は、しかしすぐに頭を振った。

「いや、拾わせてもらった、というべきでしょうか」

「そのころから、すでに兆候はあった、ということね。随分根が深いわ」

 頷きあう二人の紅の住人。

 すっかり置いて行かれた魔理沙は、仕方なくもつれた情報をほぐし始めた。

「なぁ、これって、咲夜が小さいころだから、ちょっと前の話だよな? 十年とか、その位?」

「さあ、いつのことだか。私も年齢を数えるのをやめて久しいですからね」

「なんだそりゃ。若返りの秘法でもあるのか?」

 くすっ、とパチュリーが笑みを漏らした。

「教えてあげなさい。誰もが羨む、その秘法をね」

 咲夜も、自慢げに笑って見せた。

「私の体は、時間が経たないんですよ」

 咲夜は懐から懐中時計を取り出して一瞥すると、一瞬だけぎくり、とした表情を見せた。

「では、ごゆっくり」

 瀟洒なメイドは、涼しげな笑みを残して図書館から掻き消えた。

「おいおい、そんなのありか」

 大仰に驚いた魔理沙は、すぐにまじめな顔になって顎に手をやった。

「ん? すると、咲夜の歳があてにならないから……」

 魔理沙はそれに思い至った。

 吸血鬼と魔法使いは、種族として不死だ。

 人間、十六夜咲夜は、自らの能力で不死と化した。

 では、ただの妖怪、紅美鈴は。

「あいつ今、一体いくつなんだ?」

 この中で、彼女だけが、死へと向かってひたすらに老いるのだ。



 今日は、不意打ちを外したら外へ出て話をしよう。

 そう言った時には、少女は怪訝な顔をしたものだったが、了承したようだった。

「美鈴、話って何?」

 だから、そろそろ日も暮れようかというとき、瞑想の最中に真正面から話しかけられて、美鈴は柄にもなく動揺してしまったのだ。

「どうした? 小細工なしでやるかい?」

 冗談めかしてそう言いながら、美鈴はいまだ迷っていた心を固めていた。

「美鈴、話って何?」

 再びそう言った少女の視線は、幽かな不安と、それを覆い隠す決然とした意志に彩られていた。

聡い子だ。本当に、聡い子。美鈴は小さな弟子の出来をかみしめた。

「……今日、一発入らなかったら、お前を殺す」

 自らの子を千尋の谷に突き落とす気持ちで、美鈴はそう言った。

「ともに行けるだけの力がなければ、お前を置いていくしかない。でも、忘れ去られた場所に行くには、この世のすべてから忘れられなければならない。私たちの存在を知っているお前を、生かしておくわけにはいかないんだ」

 美鈴は服の裾をさばいて、すっくと立ち上がった。

「話は、それだけ」

「そっか」

 ちゃり、と金属のこすれる音が届いた。

「……じゃあ、今までと変わんないね!」

 眼前に現れたナイフを、美鈴は首を傾けて躱す。

 背後に、一瞬の気配。美鈴は振り向く代わりに、さっと左に跳んだ。

――遅い。

美鈴がいた空間を鋭く飛んだ刃が、空中で掻き消える。

 跳んだ先に待ち構えていた凶器を打ち落して、美鈴は一度身をかがめて、かかとで体の全周を薙ぎ払った。

 ――遅い、遅い。

「あっ、」

 手ごたえ。接近していた少女の足を刈ったのだ。転ぶさまを見せるほど少女が無様でなかったことに、美鈴は胸をなでおろしながらすかさず前方に跳んだ。

 ――遅すぎる……。

 頭上から飛来したナイフが、彼女のいた場所にびんと突き立った。

 美鈴はさっとその場に身をかがめた。空気にもつれた紅の長髪を、八方から飛来した銀の刃物が掠めた。

 ――駄目だ、間に合わない。

 美鈴は丹田にぐっと力を込めた。

「破ぁっ!」

 裂帛の気合いとともに、虹色の旋風が年老いた拳法家を中心に巻き起こった。宵闇の中で燦然と輝くそれは、眼前で刃を握り締めていた少女をあっけなく吹き飛ばした。

「……!」

 声もなく宙を舞う少女を、美鈴は着地点で待ち構えた。気の流れを纏った必殺の手刀を、右手に携えて。

 淡々と回想される思い出を、美鈴は冷たく眺めていた。

思えば、彼女とのかかわりからは、得るものが多かった。教えるは学ぶの半ばなり、との言葉の通りだ。彼女に伝えたことで、改めて分かったこともあったのだ。

『……タイミングが、見え見えなんだよ。その一瞬で、心の準備ができてしまう』

 思い出の美鈴が、優しく諭すのが聞こえた。

「……!」

 慢心。それを自覚した瞬間には、少女の姿はすでに消えていた。

 身を躱せ、と武芸者の勘が警鐘を鳴らす。

 しかし。

 その反射に追従する体は、ぎしり、と大きく軋んだ。

 ――やっぱ、駄目か。

 ふーっ、ふーっ、と、少女の荒い呼吸の音が耳に届いた。

 わき腹に突き刺さった鈍い痛み。その重さを感じながら、美鈴は大きく、とため息を吐いて座り込んだ。

「読み合いの果てを追求するんじゃなく、それを放棄させたのか。いいね。いい考えだ」

「大丈夫? 美鈴!」

 どこからか包帯を持ち出した少女を、すぐ止まるから、と美鈴は制した。

「完璧じゃない。決して、完全じゃない。でも、今のお前には精一杯の答えだ。完敗だよ」

 少女は遠慮がちに、美鈴の横に座った。こちらを見上げる視線は、心配半分、期待に半分で揺れていた。

「……連れてってくれる?」

「もちろん。いいですよね? レミリアさん」

美鈴はその気配の方向を顧みた。この数瞬を、レミリアは最初から、傍から眺めていたのだ。

「ええ、構わないわ。ひとまず、並の妖怪と渡り合う力は、付いたようね」

「たはは、並の妖怪、ですか」

「カエルは井戸の中しか知らない、だったかしら? そういうレベルのところに、行こうとしているのよ」

 夕日の残滓を巧みにかわしながら、レミリアは二人のもとへと歩み寄ってきた。

「そのためには、名を捨てなければならないわ」

「名を?」

「そ。この世で積み上げてきた記録と、自分を切り離さなければ。私たちはもう考えてあるから、後はあなたたち二人だけ」

「そうですか。ちなみに、どういった?」

「スカーレット。私たち姉妹は、そう名を変えるわ。ぴったりでしょう?」

 レミリア・スカーレット。緋色の積み重ねであった彼女の体を、よく表しているように思えた。

「じゃあ、私もそれでいいですか。英語じゃ変だから……、紅。そうだ、紅美鈴でいいです」

「本当に良いの? そんな感じで」

「どうせ、皆さんからは美鈴って呼ばれるんですから」

 あっけらかんと笑った美鈴の、腹の傷はすでにふさがっていた。

「で、この子はどうします?」

 少女の緊張が、腕を伝わって届いた。

「折角だから、あなたが決めなさい。その子の本質を一番良く知っているのは、あなたのはずよ」

 じゃあ、準備があるから、とレミリアは館の中へ消えていった。

「……私に、名前をくれるの?」

「んんん、今考えてるとこ」

 美鈴は少女の期待に満ちた表情を、じっと眺めていた。見つめ返してくるその蒼の瞳はどこまでも深く、蒼月のように奥底の方から輝いているように見える。そこに一点、影が差しているのは、戦いに身を置くことへの一抹の躊躇いか。それとも、師たる美鈴をいずれ使役することになることへの、抵抗か。

「……十六夜」

「いざよい?」

「月の形だよ。満月の一日あと、少しだけ欠けたお月様って意味」

 美鈴は優しく、少女の頬を両手で包み込んだ。ぴくっ、と跳ね返った少女の感触は、すぐに掌になじんでいった。

「人間は、迷うものさ。私らみたいに、行動理念が単純じゃないからね。だからお前は、ちょっと遅れてきて、ちょっとだけ欠けている、でも限りなく満月に近く、夜道を明るく照らす十六夜だ」

 いざよい、十六夜、と繰り返しつぶやく少女を、美鈴はただ優しく見下ろしていた。彼女は美鈴に、一つの道を示したのだ。

 美鈴をむしばむのは、老いだ。それを彼女は、仕方がないとひとまず受け入れた。しかし、武芸者としての歩みを止めるつもりは毛頭なかった。体の衰えの代わりに、手に入れた新たな力がある。技があれば、極めるのが武の道だった。

「ねぇ、これはファーストネーム? ラストネーム?」

「ラストネーム。名前は、自分で考えな」

 俯いて考え出す少女を、美鈴は館の中へ促した。従者の卵に教えなければならないことは、武道だけではなかった。



 やがて、体格が完成した少女は、その名を咲夜と決め、自らを流れる時間にぴったりと鍵をかけた。

 長い、長い、本当に長い時間をかけて、その能力に、また従者としての立ち振る舞いに磨きがかかるにつれて、咲夜は自分が美鈴に近づいていくのを感じていた。

 否、美鈴の方が後ずさってきているという現実から、目をそらし続けていたのだ。

 追いかけた背中は近づくほど大きくなるはずなのに、美鈴のそれは少しづつ縮んでいた。



 かれこれ、五分ほど経っただろうか。

 時の止まった世界で、五分というのも奇妙な話だけれど。咲夜は一対のナイフをもてあそびながら、そんなことをちらっと思った。

 視線の先には、花壇に水をやる美鈴。穏やかな表情だった。その足元には、あらわになった灰色の月が映りこみそうな鏡面が出来上がっていた。一体何度往復すれば、これほどの水溜りができるのだろうか。巡視をせよ、と命じられたことも忘れて、彼女はこうして延々と、根が腐り果てそうなほどの水を運んでいたのだ。

咲夜は首を振った。時間を区切って美鈴の仕事ぶりを確認し、こうしてため息を吐くのが、ほぼいつもの流れだった。

 そっと閉じた瞼の裏には、おぼつかない手つきで、しかし自信満々に家事を教える美鈴の姿が映っていた。

 ちゃり、と手の中の刃が乾いた音を立てた。

 かつての美鈴を取り戻すにはどうすればよいか。咲夜は、一つの仮説をこの時間で組み上げていた。

 様変わりしてしまった、美鈴。しかし、一つだけ変わらないものがあった。美鈴の――妖怪相手には――無敗の称号である。

現在においても幻想郷随一の道場として名を馳せる彼女の武力。その本質は、体術から気を操る能力に移っていた。それが、体術すらも忘れてしまった結果なのか、それとも他に理由があるのか。魔理沙の話を断片的に聞いていた咲夜は、前者の可能性に賭けたのだ。忘れたというのなら、思い出させればいい。記憶とは、芋蔓のようなものだ。一つ思い出せば、きっとすべてが戻ってくる。

そして、それが可能なほど、気の力では足りないほどに美鈴を追い詰められるのは、教えを受けた自分だけなのだ。だから、数多の挑戦者たちでは、彼女の記憶を掘り起こすことは出来なかった。咲夜はそう、何度も心に刻んでいた。

白銀のナイフ、の代わりに、咲夜は足元に落ちていた木の枝を手に取った。

 ――目を覚まして、美鈴。

 それは吸い込まれるように美鈴の頭へと飛翔し、寸前でぴたりと止まった。

 かちり、と世界が色を取り戻す。

 美鈴は確かに、その棒を目で追った。

しかし、

「あいたっ、何するんですか、咲夜さん~」

 気の抜けた声と、からんと棒が落ちる音が、呆然とする咲夜の耳に届いた。

「見てくださいよ、この見事な咲きっぷり……、あれ、水浸しですね。誰がこんなことを……」

 一人で憤慨する美鈴に、咲夜はそっと歩み寄った。

「美鈴」

「はい?」

「美鈴、なんで避けなかった?」

 視線が並ぶ。口調をそろえてみても、あのころとは、何もかもが違った。

「見えてたでしょ。なんで避けなかった?」

「いや、見えないですし、避けられないですって、あんなの」

 ぱぁん、と咲夜は美鈴の頬を張った。

「嘘。見えていたし、あなたなら分かるはずよ。現に、私の仕業とも気づいたじゃない」

「それは、どうしてでしょうね。塀の中だからでしょうか、ね」

 ぱぁん。今度は、左から。

「どうしちゃったの、美鈴。昔のあなたは何だって、そうよ、何だって出来た。今は、一体どうしちゃったの? 出来るのに、やらない。そう言う事なら、許さない。でも、そうじゃないでしょう? そうだよね、美鈴。じゃないと、私……」

 宙に震える咲夜の右手には、白銀のナイフが月光を浴びて鈍く輝いていた。

それを美鈴が優しくつかんだ。ぼう、としていた瞳には、在りし日の力強さが戻っていた。

「……、ればよかった」

「何?」

 瞬間、咲夜の直観に警告が走った。

轟然と振りぬかれた裏拳が、咲夜の頬をかすめた。

「あの日私を貫いたお前の強さに、いっそ殺されていればよかった。こんな思いを、するくらいなら」

「何を、美鈴!」

 距離をとる咲夜。

「『私……』、何だい、咲夜。ひょっとして、終わらせてくれるのか。この、ただ流れて落ちていくだけの時間を」

 大気の渦の流れが、咲夜の銀髪をかすめていく。その中心で陽として立つ美鈴の居姿は精悍で、湧き上がる活力に燃えていた。溶鉄を人の形に押し込めたら、きっとこんな熱量になるに違いない。咲夜はそう思った。幼い咲夜には引き出せなかった、美鈴の持つ真の武力が、そこにはあった。

「咲夜。いとしい弟子。いとしい主。私の最後の願いを、聞き届けてはくれないか……!」

「……!」

 反射的に時を止めると、眼前にはすでに、気を纏って七色に輝く拳があった。妖怪を相手にする際の一撃だった。当たればひとたまりもないだろう。

 物言わぬ美鈴の瞳は、微動だにせず冷たかった。

「……そういう事? 美鈴。もう終わりにしたいの?」

 十六夜咲夜はナイフを掲げて、悲しげに呟いた。



「すると? 美鈴は年を取りすぎて、あんなになってしまった、と。そういうわけ?」

「あー、私の知ってることからすれば、そうとしか考えられないな。今、里で起こってることと結びつけずにはいられないぜ」

「にわかには信じがたいわね。妖怪の身に、そんなことが起こるなど」

「そんなこと言ったって、あんたら、一体何年そうやって過ごしてきたんだ? 十年か? 百年で利くのか? 妖怪ったって、基本不老不死じゃないんだ。そうだろ?」

 パチュリーは眉間を抑えた。

 みしり、と天井まで届く本棚が軋んだ。

「……仮に、そうだとして。何故、年老いた者は、失うのかしら」

「おいおい、そこからか? 先ず、体が衰えるだろ? それで……」

「そんなことは、知っているわ。何故、記憶が飛ぶのか。忘れてしまうのか。そういう話をしているの」

 どう、と大気が震えた。

「……季節外れの花火でもやってるのか?」

「知らないわ。はた迷惑な話ね」

 二人が首をかしげるのとほぼ同時に、館そのものが、衝撃にびりっと身を捩った。

「……魔術防壁に欠損。派手にやるわね」

「とうとう門番はやられちまったのか」

「さあね。流れ弾かもしれないけど……。仕方ないわ。ちょっと行ってくる」

「私も行くぜ。火力の足しになるかは知らないが、詠唱の時間稼ぎくらいはできるだろ。私は速いからな」

立ち上がったパチュリーの後から駆けてきた魔理沙は、帽子をぴん、と跳ね上げて快活に笑って見せた。

最悪命に係わるというのに、この表情はいったい何故だろう。パチュリーは心の台帳にまた一つ、題目を書き留めた。

「……ご謙遜を。急ぎましょう」

 二人が玄関から飛び出すまでに、館は数えきれないほど震えた。その都度防壁を張り直しながら、パチュリーはこの襲撃者が何者なのか、うっすらと見当をつけていた。爆発に近いエネルギーの発散。この感じには覚えがあった。狙いの甘い美鈴は、腕試しの途中に時々、屋敷の壁に穴を開けそうになったことがあったのだ。

そして、それに張り合うのは、恐らくその上司。二人目の従者。これを、『面白い糸』と呼んだレミィは、いつだって少しだけ悪趣味だ。

 裏庭の花壇へ回ると、そこは目を疑うような有様だった。端正な芝生であったはずのそこは無残にもいくつもの円形に掘り返されていた。防壁の埒外であった花壇も、囲いの煉瓦が吹き飛んで、露出した土と同化していた。

 そして、ひときわ大きな土色の円の中心で、決着はついていた。全身に無数の刃傷を受けて、美鈴は横たわっていた。

「美鈴。何故?」

 静かに問う、咲夜。

 乾いた引き笑いが、それに応えた。

「気づいていただろう。私は、お前と出会ったころよりもはるかに、鈍くなっている。これが、老いか。そう思ったんだ」

 隣に立つ魔理沙がはっと息を呑むのが、いやに耳に響いた。

「失う事こそが、老いなのかと。それが、無性に怖くなったんだ。このまま何もかも失って、失っていって、命すら消え去ってしまうのが。積み上げてきたものすべて、この武もいずれ、みんなの、咲夜の記憶からも、無くなってしまう。失われた場所からなくなってしまったら、私はどこへ行くんだ? いつかやって来るその時が、私は……」

 虹色の老将は、その時初めて大粒の涙を流した。

「堪らなく、恐ろしかったんだ」

 咲夜は膝をついて、美鈴の頬を優しく包み込んだ。かがみこんで何事か呟いた様子の、その口元は見えなかった。

それを聞いた美鈴は、高笑いしたのちに、がっくりと気を失ってしまった。

 満月が静かに、裏庭を照らしていた。



「レミィ、今日も早いのね」

「ええ、感想を聞こうかと思って」

 本からわずかに目を上げて、パチュリーはレミリアを詰った。

「……綾取りはしないんじゃなかったの?」

「手前みそで話を振るほど、やんちゃじゃないわ」

「本当かしら」

「まぁ、そっちはいいのよ。あの人間の魔法使い、どうだった?」

 くくく、といつになく下衆な笑いをもらすレミリア。

パチュリーは本を少しだけ、持ち上げた。

「まぁ、あなたの言う通り、面白かったわ」

「それは良かった。じゃあね、もう少し休むわ」

 ばたん、と埃を巻き上げて扉は閉まった。

「……ほんとに、それだけ言いに来たのね」

 深いため息を拾ってくれる者はいなかった。

 魔理沙は、一つの仮説を立てて帰って行った。

 曰く、常命の存在は、ある日、失うことの恐ろしさに直面する。それがあまりに怖くて直視できなくなった時、彼らはそれを忘れようとするだろう。しかし、死とは生と表裏一体のものだ。結果として、その行為は生そのものから目を背けることに他ならない。

「だから、老いるにつれ、死に近づくにつれ、私たちはいろんなことを忘れていくんだぜ。多分」

 そう乾いた笑いをもらした少女の目は、しかし微塵も笑っていなかった。

 その鋭い眼光に、パチュリーは研究対象としての存在以上の、奇妙な感情を覚えたのだった。

「……」

 ページを繰る手は、僅かに上気していた。


 

「美鈴!」

 何度目とも知れぬ凛とした呼び声が、紅魔館の門に響き渡る。

 呼ばれたその名を持つ門番、紅美鈴は――のんきなものだ。まだ門柱にもたれかかって、静かに寝息を立てている。

「起きなさい! 美鈴!」

 ずいぶん赤くなった夕日を受けて、一層輝く紅色の髪が、前後に揺すられる。

「んあ……」

 やがて、哀れな門番は目を覚ました。

「ああ、ごめんなさい。ちょっと今日は挑戦者が多くてですね」

「ほお、それであなたの本分を放り出して、こうして居眠りをかましていたわけですか」

「いや、ほんとすみません。じゃあ、見回り行ってきますね」

 塀に沿って駆け出す美鈴を追いかけようとして、咲夜はふっと微笑んだ。

 人の時間を操ることは、そう容易ではない。だから、今はあの有様でいい。

 だから、せめて。

「私は、忘れないよ」

 無造作に放ったナイフを、美鈴は振り向きざまに受け止めてにっこりと笑って見せた。


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