9 焦げたパンは苦い
「環先輩聞いてくださいよー! 魅上先輩にラリアットかまされたっすよ~。部内暴力っす~」
笑いながら抱きついてくるサッカー部員と肘鉄で迎え撃つ黒髪の美少女。サッカー部員は緩いパーマがかかった髪をなびかせて「ノン!」と額を抑えながらよろめいた。
「甘いな」
オレンジ色のシュシュで髪をまとめた少女は、整った口元を軽くつり上げて勝利の笑みを浮かべる。それだけで何故か1枚の絵になってしまいそうなくらいポーズがきまっていた。
「ちぇーっ。魅上先輩には優しいのに、俺には冷たくないっすか?」
「愛情の差だよ、愛情の」
「俺にも惜しみなく愛情を注いでくださいよー」
ぷくーっとフグのように頬を膨らませるサッカー部員もとい嵐山に向かって、彼女は勝ち誇ったように言う。
「やだよ。みかみんのほうが可愛いから」
「可愛い……っすか? あんな無表情の色気駄々漏れ、女子ホイホイの先輩が?」
「そう言いながらも笑ってるじゃないか」
三輪の指摘に彼は肩をすくめた。
「可愛いとは思いませんけど、優しい先輩だとは思ってるっすよ?」
「そういえば、怖がらずに結構じゃれてるよね」
「入部テストの際、先輩がアシストしてくれるシュートのテストがあったんすよね。で、わざと蹴りにくい位置にボールを出す先輩の多いこと多いこと。まあ、新入生から1軍行きのやつを出してたまるかと思ったのか分からないっすけど」
「そんなことになってたんだ」
「そうそう。俺もちょっと覚悟して臨んだら……驚いたことに胸がすくくらいジャストタイミングで俺の足にピッタリボールが来て、もうビックリ。あんまりにも嬉しかったから、人生で一番スカッとするシュートを打ち込んで、こんなパスをくれる先輩ってどんな人だろーって、顔を見たら……」
「みかみんだったのね」
その答えに満足したように彼は大きく頷いた。
「無茶苦茶タラシっぽい人だったけれど、無茶苦茶無愛想な人だったけれど、優しい人なんだな……って思った」
少なくともサッカーに関しては誠実な人なのかなって思ったら、怖くなくなった。
みかみんらしいなぁと彼女はふわりと笑う。きっと、彼はいつもどおりのパスをいつも通りに出しただけに違いない。
「みかみんをよろしくね」
「それはどうっすかね。俺、意地悪しちゃうかも?」
もはやエースストライカーといっても差し支えないほどの戦力となっている嵐山は、くるりとその場で一回転してみせた。
彼にとって、自分に物怖じせず言葉遊びに付き合ってくれる三輪環という先輩は貴重な存在で、同時に、自分の才能に嫉妬しつつも対等であろうとする魅上了という先輩もまた貴重な存在だった。それは決して庇護の対象ではない。
「ま、1軍は甘いところじゃないからね。ビシビシ鍛えてあげて」
「任せるっす! 代わりにマネージャー復帰は……」
「ええ、任せなさいな」
頼もしい言葉は、本当は誰に向けられたものなのか。
さきほどまでここにいた魅上の姿はもう見えない。けれど、嵐山はあの繊細で無骨な先輩の方が、隣にいる自分よりも彼女の近くにいるような気がしてしまう。
「環先輩は魅上先輩のことが好きなんすか?」
だからこんなにも気にかけるのだろうか。
けれど、三輪は人差し指を唇に持ってきてニヤリと笑っただけだった。
『企業秘密』
そう言っているような気がした。
◇◇◇
寮に帰った俺はルームメイトに聞いてみた。
「はあ? 女友達と恋人の違い? そんなもん肉体関係がつくかどうかだけじゃねーの?」
に……肉体関係とか言うな。
「それにしても魅上が今更そんなこと聞いてくるなんて、三輪となんかあったのか?」
「なんにもねーって」
こいつは俺と環が本当は付き合っていないことを知らない。
カバンを下ろすと冷蔵庫からハムとチーズと、冷凍してあったパンを取り出す。大食堂が共用スペースにあるが、2年になってから割り当てられた部屋には、小さいながらも一応自炊できるようキッチンは付いているのが有り難い。ただ、このキッチンのせいで例のゴーヤカレーが生産されてしまったのだと思うと、少し項垂れたくもなるが。
「たまにはエロ雑誌も読めって。いっぱいあるぞー。お宝ショットとか! 俺のベットの下にいっぱいあるからな! いつでも読んでいいぞ。あ、ちゃんと返せよ」
「……」
ごそごそ2段ベットの下に何か隠していると思ったらそんなもん隠してやがったのか!
見つかったら……いや、多分俺が疑われることはないだろうな。二次元の女は卒業したと思われているから。
オーブントースターにパンを突っ込んだら、ルームメイトは宿題を手に隣の部屋へ移っていった。こちらに背中を向けたまま椅子に座り、宿題を広げながら、そういえばと付け加える。
「あー、段々綺麗になっていくよな。三輪。以前はもっと近寄りがたい感じだったのに、お前といるようになってから、少し雰囲気が柔らかくなって可愛くなったと思う。……と思ったら段々エロ本を渡すのが惜しくなってきたぞ。本物の彼女がいるのに浮気なんかするなよ!」
「そういうお前も、なんで彼氏持ちの女子をちゃっかり観察してんだよ」
「鑑賞だよ。美人は世界の至宝だぜ? 独り占め、ヨクナーイ」
コップに牛乳を注ぐとオーブントースターからプスプスと焦げ臭い匂いがして、真っ黒になった食パンが救出された。
「妬けるねぇ~」
「茶化すなよ」
捨てるのは勿体無い。仕方なくパン皿に載せてかぶりつくと、少しだけ苦い味がする。
なんだか部屋に帰ってホッとしたのか、いろいろなことを思い出した。
一軍に昇格したこと。
環を名前で呼ぶ謎の男の存在。
そして俺が環に恋愛感情を抱き始めているということ。
嬉しかったり、
嫉妬したり、
幸せだったり、
悲しかったり、
あきらめに似た感情と、
素直になりたい思いと、
本当に今日の俺の心は忙しくて……なんだか涙がこぼれた。
――これはパンが苦いから。
嫉妬で焦げ焦げの俺の心のようなパンが、見せつけるように真っ黒だから。
隠すように上にハムとチーズとレタスを乗せる。
色とりどりにトッピングされたサンドイッチは、やっぱり苦くて。テーブルに突っ伏した。
今だけは、隣にいるのは俺だと自負してもいいのかな。
「魅上~。テレビつけていいか? 見たい番組あるんだよ」
「ああ」
丁度あいつの死角になっていることに感謝しながらテーブルに頬を押し付ける。
冷たい。
レタスから落ちた水が涙と混じって……
焦げたパンは、かじりかけのまま。