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恋愛恐怖症候群  作者: アルタ
恋愛栄養補給法
38/42

9 走った軌跡 side:近衛将

「近衛、またな」

「おー、また明日」

 毎日そんなに忙しくしているつもりはないのだが、気がつくと時間がたっている。それは充実している証拠だと義姉は言ったが、今は空を眺めてぼーーっと考えていた日々が懐かしい。勿論今は今で楽しいのだが。


 少し暗くなった道を歩く。

 充実した日々を送ると、時間が早く過ぎるというのならば、環はいったいどんな時間の流れの中に立っているのか想像もつかない。外国へ行くと決めた彼女は、それはそれは多忙だったに違いないのだから。


 ……先日、伯父から合格を知らせる電話がかかってきた。「受かったってよ!」と興奮気味に話す母さんの横で、妹の正美がわんわん泣き出して大変だった。

「たまきちゃんが遠くにいっちゃうよう!」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている姿を見て……わがままにも似た気持ちを素直に態度に出せる妹を羨ましく思ったのは、俺もわずかな寂しさを覚えていたからかもしれない。


 それは、会えなくなることに対してというよりも、自分の中に強烈な光として焼きついている彼女を次第に忘れていくことに対してといった方が近い気がする。「合格おめでとう」と携帯越しに環へ告げた言葉に全く含めたつもりはなかったなのだけれど、なんとなく察したのか、彼女は少しの沈黙をおいて「ありがとう」と呟いたのだった。


 ――時間がたつと忘れてしまう。

 ――年をとると時間が過ぎるのが早くなる。

 長く生きれば生きるほど、肩にかかってくる荷物は重くなり、そうしたつらいことをどんどん忘れるために時間が早く通り過ぎていく気がする。

 全力疾走し終わって、振り返ったとき……自分の描いた軌跡の上に何が残っているのだろうか。




「ん?」

 一瞬何かが光ったような気がしてそっちに目を向けると、見慣れたシルエットが浮かび上がった。

「将だ」

 やっぱり環だ。


 その手に収まっているスマホを見れば、先ほどの光はカメラのフラッシュだったのだろうと見当がつく。

「何撮ってんだ?」

「なんとなく」

 上を向いて写真を撮る――そんなことをしても夕焼けくらいしか写らないだろうに、彼女はカシャリとシャッターボタンを押した。


「今日は門限破りか?」

「なんとなく」

 寮に帰りたくないらしい。

 けれどそんなことは一言だって言わない。

 俺や正美よりも……誰よりも寂しく思っているのは他でもない、環だろうに。


「将は練習帰り?」

 肩に担いだ鞄がずしりと重みを増した。

「まあな。俺も門限破りだぜ」

 少し笑って見せると、安心したように彼女も微笑む。


「正美ちゃんは落ち着いた?」

「大丈夫。そういやあいつ、A学園に追っかけ入学する予定だったらしいぜ」

「ありゃ、悪いことしちゃったね」

 そうやって話をそらして、弱音を隠すようにする。この人は……


「環、携帯貸してくれるか?」

「家に電話入れとく?」

 そうやって上ばかり向いていても、首が苦しくなるだけだろうに。

「まあ、そんなとこ」


 プルルルルル……


 呼び出し音が何回かして、

「おう。環か?」

 目当ての人物が出たことに、自分でも人の悪い笑みが浮かんだと認識した。

「もしもし、近衛将だ。環は預かっている。A学園正門を左折して約500メートルの公園にて待つ。全力疾走でこないと――」


 ――今夜は帰さねぇぜ。


 ニヤリと口角を上げれば、通話がプツンと音を立てて……ぶち切られた。後に残ったのはお馴染みのツーッツーッツーッというあの音だけだ。

「ククク」

 なんだか電話口で慌てるあの人の顔が目に浮かぶようで面白い。


「将ー! ちょおおおおっと! みかみんに電話したわね!? もー、何言ってんのかな~? 今推薦入試の勉強で忙しいのに」

 そして滅多にみられない彼女の慌てる顔。

「なんだ。それでルームメイトの邪魔にならないよう出てたのか」


 自分は合格したから、気を使ったのか? 大切にしたい気持ちは分かるけどな、

「そういう遠慮を魅上さんにまですることはないだろうに。変な見栄張ってないで、甘えちまえ」

 無理なときは無理だって――言ってくれるはずだから。


 まあ、環が実家に帰ってくるなら、正美と俺でオールナイトでも付き合ってやれるんだがな。

 スマホを返すと「人のことばかり気にしてないで、たまには自分のことも考えなさい」と、苦笑交じりの声が返ってきた。


 この時期にあの人が練習しなくてもいいってのは、長い目で見ると幸運だったのかもしれないな。選抜落選オメデトー。


 足音が聞こえてきて、そちらに目をやれば、すらりとしたシルエットが走ってくるのが映る。おー、早い早い。さすがA学園サッカー部一軍だけあるな。

 しっかり受け取れ。



 トン……



 環を軽く突き飛ばすと、丁度走ってきた魅上さんの腕の中に収まった。

「……っぷ」

 サラサラと環の髪が流れる。

「今夜は帰りたくないってよ」

「そんなことは言ってない!」

 ま、いえるわけねーか。


 状況が分からなくてぽかんとしている魅上さんを置いてクククと笑ってしまう。俺って本当に天邪鬼なんだ……って、思ったから。

 気になってた人の前でそんなこと一言も言わず、さも良い協力者のように振舞って、そうして近くて遠い距離を保ちながら、それでいいだなんて……満足感に浸ってる。


 でも……環が弱音を吐けるのが魅上さんの前でしかないというならば、仕方ないじゃないか。

「ちゃんと報告しろよ、魅上さんに。自分の口で」

 一人で抱えていないで、言え。

 それから、

 大切にしてもらえ……。


「じゃあな。………………………………“姉さん”」


 今度は環がぽかんとしている。――今まで名前で呼んでいたから、な。

 そのままスタスタと歩いていく。

 何も言わず、振り返りもせず、二人を残して離れていく。

 俺の心も。


 人のことばっかりだなんて、嘘だ。俺はいつも自分のことしか考えない。

 だから俺はもう環を名前で呼ぶことはないんだ。それが自分自身へのケジメだから。




「映画観に行くぞ」

「……へ?」

「その前に夕飯でも食いに行くか」

「……は?」


「イタリア料理でいいか?。パスタかなんか……」

「……???」

「受かったんだろ? 高校」

「……うん。でも」


「合格祝に付き合ってやる。寮のほうは任せとけ。何のために今まで醍醐が善行を積んだと思ってんだ」

「少なくとも了のためじゃないと思う」

「きのことレタスとベーコンのパスタが美味いらしい」

「話そらしてない?」


「美味そうだとおもわねぇか?」

「……おいしそう」

「だろ? 部活引退して、暇で暇で……勉強くらいしかすることがなくてよ。身体もなまってるし……付き合え。走るぞ」

「――――!?」





 全力疾走し終わって振り返った時に何が残るかなんて分からない。

 けれどもその先に受け止めてくれる人がいるというなら、

 振り向かず、前だけを見て、それだけを見て、

 一生懸命に手を伸ばし、


 ……走りつづけていくしかないんだ。

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