8 絶対泣くと思った
夏の全国大会はA学園が制した。
湧き上がる応援団。
拍手で迎えてくれた監督。
号泣するチームメイト。
――けれど、そこに環の姿はなかった。
「俺、絶対魅上先輩は泣くって思ってたっすよ」
話は少し戻る。
「はあ?」
俺は豚肉を持ったまま固まった。
隣にいる醍醐は果物ナイフでトマトをスライスしていて、テーブルには環が客のごとく座って待っている。
「ん。だから私全国大会にはついていけなくなったんだ。その分、そこの豚肉は美味しいカツ丼にしてもらおうと……」
「だったらカツ丼にして持ってきてくれ! ……じゃなくて、外部受験するって、一体何があったんだ?」
そして、外部ってどこだ。再び手を動かし、筋切りした豚肉に塩、胡椒、小麦粉、醤油、玉子、パン粉を順番につけていく。
「私が医者志望って言った話、覚えてる?」
「保健室でそんなこと言ってたな」
「ん。私ね、医者は医者でも健康医学って言うのかな、整形外科とスポーツトレーナーの間……うーん、うまく説明しづらいんだけど、体のトータルサポートを勉強してみたいなって思って」
トータルサポート……実家が接骨院だから、体の歪みとかそういう方面からリハビリなんかを提案するような仕事だろうか?
「でも、近くにそんな学校あったっけ?」
専門学校ならありそうな気はするけれど、そこじゃ医師免許は取れないだろうし。
「いや、日本の医学部だと高校卒業してからじゃないと無理。それに、あまり自由に研究できる雰囲気じゃなかったし、女性だと色々大変そうだなぁって思って」
第一、女医さんの将来の夢が専業主婦ってどうなんだろう……とか。
「やけに詳しいな。まるで見てきたようじゃねーか」
「夏にオープンキャンパスやってる大学は多いからね。サクッと予約して行ってきたよ」
「いつの間に!」
行動力ありすぎだろ。
いやいや、思わず突っ込んでしまった。正直中学生でそこまで進路について考えてる奴はあまりいないと思う。俺も惰性で高校に行くものだと考えていた。
「それで迷ってたら、お義母さんの従兄弟がアメリカでそんな感じの診療所をやってるって教えてくれて。丁度、医療系で有名な学校も近くにあって、勉強をするのに良い環境だから、思い切って受験してみようかなって思って」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い話し方だったけれど、内容は思いっきり歯切れが良すぎた。キレッキレだ。
「高校受験、アメリカ、医者の勉強」
俺、一つも聞いてなかったんだが。
なんだか頭の中が白紙になってしまって、言葉をひねり出せない。むしろ現実を受け入れるのに時間がかかっているといった方が正しいかもしれない。とりあえず目の前の作業だけかろうじて思い出したので、豚カツ(予定)を油に入れた。シュワシュワとイイ音がして、衣の色が変わっていく。それをただぼんやりと見つめていた。
「……」
うーん。なんだか環の目が裁判長を見るようなものになってる気がする。それだけこの話題は彼女にとって、切り出すのに勇気のあるものだったのだろう。
「迷っていたことってそれか?」
以前環が元気をなくしていたことがあった。確か進路面談のあった日。どうしたんだろう? って、心配してた。
「……うん」
菜箸で豚カツを3つ油から引き上げる。狐色だ。じゅうじゅう音を立てながら、豚カツはじんわり油を紙に染み込ませていく。
俺の心に広がる染みのように。
……はあ。
ゆっくり俺はため息を一つ吐くと、ガスを消し
「醍醐、後ちょっと任せていいか?」
「ああ」
信頼できる料理人にバトンタッチしてエプロンを外した。
豚カツをザクザク包丁で小気味良く切る音をバックに、環の手をひっぱって少し離れたところへに移動する。
「あーのーなー」
こめかみにできた皺をほぐしながら口を開くと、環はびくりとこれから怒られる子どものように首をすくめた。
「ごめん。全国大会、応援にいけなくて」
「そっちじゃねーよ。進路のこと。なんで一言の相談もねーんだ?」
そんなに頼りないか?
反対するとでも思ったのか?
怒るというよりも、むしろ悲しいという方が正しい。どう考えても重要な人生の選択だ。いくら環だとて迷わないはずがない。
そんな俺の顔を見た彼女は、言葉に詰まったまま俺の胸に顔を埋めてきた。
そうして首を横に振る。
違うのだと主張しているようだった。
「ずっと迷ってたの。どうしようか。どうしようかって……」
このまま高等部に上がって、そのまま日本の大学に進んで、一体どれほどの知識が身に付けられるだろう。勉強は自分次第だというけれども、いい先生やいい施設、いい授業……そんな環境がなければできないことだってある。
「うん」
「勿論今も迷ってる。どっちにしたって秤にかけるものが大きすぎて分からない」
――将来の夢と、
――………………魅上了。
でも、受験するだけでもしなきゃ、やらないままだったらきっと後悔する。それがどんな結果となっても、何もしないで後悔するよりはずっといい。……そう考えるのだけど、同時に心のどこかでこうも思うのだ。
「受かったら了と離れてしまう」
留学するとなったら、それは短い期間では終わらないだろう。むしろ別れる覚悟が必要かもしれない。
「そう思うと了に会う度、その一瞬一瞬が大切に思えて、……ビデオが欲しいなぁと思ったのも、何かその幸せを閉じ込めた思い出が欲しかったからかもしれないね」
――気持ちが揺らぐ。
そこまでしてやるだけの価値があるのだろうかと。
まだ本当にやりたいと思ったわけではないかもしれないというのに、そんな、大切な人の手を振りほどいてまで。
だから迷う。迷うほど、口に出せなくなる。
「私らしくないって笑っていいよ」
顔をあげた環は今にも泣き出しそうな顔だった。
だから、そっと、そっと、抱きしめた。
「ばーか。誰が笑うか」
それは自分でもビックリするくらい甘い声だった。
抱きしめたまま……ポンポンと背中を叩く。
優しいその感覚を、
「迷うことなんて一つもねーよ」
優しいその言葉を、
「どこにいたって環は環だから」
優しいその声を、
「待っててやるよ」
少しだけごま油の匂いが混ざった香りとともに、いつまでも覚えていて欲しいと願いながら。
「私まだ受験もしてないんだけどな」
そんな呟きに俺が返せるのは、
「は? 合格に決まってる」
切ないながらも、彼女が上手く行くよう願う言葉だけだった。
その日はカツ丼食って、俺達と環はそれぞれ自分たちの戦場へと向かった。
「今年こそは全国大会優勝だね」
途中までは一緒の電車に乗って。
「ったりめーだろ。俺様に任せておきな」
嵐山は環が応援に来れないと知って大いに不満だったようだが、俺が納得しているのを見て、何も言わなかった。
醍醐が思い出したようにぽつりとこぼした。
「なあ、もしかして今年も優勝できなかったら、ゴーヤカレー……か?」
レギュラー陣がいっせいに固まる。もしかしたらそのおかげで実力以上の力が発揮できた人もいるかもしれないが、もうそんな心配は不要で、今は醍醐の手に優勝カップがすっぽりと納まっている。
なんだかその光景に現実味を感じられず、遠く……感じた。
だって去年は俺、フィールドに立ってもいなかったのだ。
「俺、絶対魅上先輩は泣くって思ってたっすよ」
「なんで?」
「卒業試験合格」
――環先輩からの。
先輩がいなくても、ここまでやれるじゃんって、それって嬉しくもあり、寂しい気がしないっすか?
「さあな」
ただ一つ言えるのは……俺は環が遠くに行くからといって、簡単にあきらめたりするつもりはないってこと。
好きで、
好きで、
誰より好きで、
盾になれといわれたら……「仕方ね―な」って笑って身がわりにぐらいなってやってもいいと、そう思えるほど好きで。
他人から見たら馬鹿だと思われるに違いないけれど、でもそれはすごく幸せなことで、そう言える人に出会えたことだけでも感謝したくて……そんな、そんな気持ちを貰ったのに「寂しい」だなんて我侭なこと、
――思わないようにする。
今は見守るのみ。
そして背中を押してやる。
帰ることが出来る場所を残してやりながら……
「待ってる」
待ってる




