11 別れの言葉
「別れよう」
俺は環にそう告げた。
別れの言葉を口にしたとき、彼女は何も言わなかった。
「元々俺たち付き合ってもいなかったけどよ」
ただの友達だった。そういうことにしておくといったのは俺だった。
なのに勘違いしていたのも俺だった。だからこんな関係はもう終わりにしよう。
「うん……」
「これからも、友達ということで」
「うん……」
環はグランドの方を向いて、俺は部室の方を向いて……お互い背中合わせの状態で座る。
「なんでって聞かねーの?」
「……うん」
相手の表情は見えなかったけれど、俺の表情も見えなくて都合が良かった。
――俺、今絶対情けない顔をしている。
なんで? って聞かれたくないのは俺のほうだったのに。
『将』って奴に勝手に嫉妬した。勿論環が嘘をついている確証はない。本当は彼女の言うとおり、とてもとても仲の良い家族なのかもしれない。けれど、どういう関係なのか聞くだけの勇気を持てなかった。本当の恋人はあいつだと告げられ、傷つくのが怖かった。
この先、こういうことがある度に苦しい思いをするのかと思うと、耐えられなくなった。本当の彼氏と彼女なら聞けることも、こんな中途半端な関係じゃ口にするのも憚られてしまう。
だって、元々織り込み済みのことなのだから。
いや、そんな綺麗な言葉で覆うことじゃない。ありていに言えば逃げたのだ。本当の気持ちを告げ、それが拒否されるかもしれないという可能性から。俺は傷つくのが怖くて自分から離れた、ただの臆病者だ。
彼女が嬉しそうに笑う姿はとても好きだ。けれど、それが別の男に向けられるところを見たくない。それを見せられるくらいなら……目の前から消えてしまいたい。
「一つだけ聞いていい?」
小さな声で環が呟く。
「ああ」
「好きな子、できた?」
「ああ」
そうだな、環が好きなんだぜ……なんて告白する勇気はないけれど。
だからせめて友達の関係は崩したくないんだ。
「そっか。応援してあげよう。私は心が広いから」
コツン……と背中に彼女の後頭部が当たった。
「お前の意見は参考になんねーよ。女って感じじゃねーし」
「失敬な」
クスクスと笑う彼女はまるで余裕だから少しショックだったりする。冗談でも、ちょっとくらい引き止めてくれてもいいものを、なんて勝手に思ってしまう。環は最後まで環なんだな。自分をしっかり持ってて、強い。戦友とも言える存在。
「なあ、本当にありがとな」
俺、お前のおかげで女に対する恐怖症が少し治った。
全て一括りにするんじゃなくて、色々な奴がいるって知ったし、人を好きになるって体験もできた。
たくさん嫉妬して、
ドロドロの気持ちを抱えて、
すげぇ情けない思いをして、
まあ、要するにみっともない自分というものを自覚したけれど、
――それ以上に俺は幸せだった。
「ありがとうな」
ぎゅっと環の手を握る。
「みかみん、なんか永遠の別れっぽいような口調で言わないでよ。今までも友達、これからも友達。そういうことでしょう?」
その手を握り返されることはなかったけれど。
「まあな」
ゆっくり離れていく環の手の感触が少し寂しい。
「じゃあ、そういうことで。本命の女の子と上手くいくように応援してるからね」
そうしてその手で彼女はすっくと立ち上がり、「またね」と声をかけて行ってしまった。
「俺……本当に好きになっていたんだな」
人を好きになることは怖いことだ。でも、心に痛みを感じて苦しむのと同じくらい、幸せでもあった。
こんな恋、一度体験すりゃもう充分だ。
――あんな身を焦がすような苦しい恋は環だけで十分だから、今度はもっと身の丈にあった恋をしよう。
最初に好きになったのが環で良かった。
良かった。
きっと次の恋愛は上手くいく。そう信じて怖がらずに次の恋を探してみよう。
◇◇◇
100m、200m、300m、400m……魅上から500mほど離れたところで環は涙をこぼした。
「うっわ……やば、泣きそう」
笑おうとするのに笑えない。魅上の前で泣き出さなかっただけ上等だろう。
急に別れ話を持ち出された時、これで終わりか……と思う自分がいた。ふとした事故のようなきっかけで彼氏と彼女の関係になってしまったけれど、このままいってくれたらなんて何回頭をよぎったかもしれない。そんな怠慢の結末がこれなのだが。
「好きだったよ」
でも、引き止めることはできなかった。それじゃああの人のように……実の母親のようになってしまうと思ったから。
昨日は新しく弟になった将の誕生日プレゼントを買いに行っていた。義理の弟は数日前にふらりと現れ、
「俺の誕生日プレゼント、今度の日曜にでも服選んでくれたらいいから」
と注文をつけてきたのである。
父親の再婚相手の息子とはこれからもやはり長いお付き合いになるわけで、だからあまり実家に帰らない身であるとはいえ、気まずい関係にはなりたくないわけで……泣く泣く魅上からの誘いを断ったのだ。将のほうも、家族の強い希望がバックにあっては、環を連れて帰ることなく誕生日ケーキを前にすることはできなかっただろう。特に新しい妹は環を気に入っている。
もう、初デートのお誘いは永遠に延期だ。
「はぁ」
友達宣言された日からいつかきっとこうなる日が来る気がしていた。歪な恋人ごっこは続かない。
しかし、いざその時が来てしまうと頭の中が真っ白になってしまった。応援するだなんて、強がった綺麗事は口からスラスラと出てくるのに。
魅上が恋愛どころか女性に対して苦手意識を持っていることは、環にも分かっていた。
逆に、そんな彼だからこそ彼女は安心することができたし、普通に話すことも出来た。スプーン1杯あるかないかの乙女心は棚に上げ、一人の人間として一緒にいた。
その結果は、現在の彼を見ても分かるとおり。
未だぎこちないとはいえ、マネージャーやクラスの女子と事務的な会話程度ならできるようになったし、ちらほらと自然な笑顔も見せるようになっている。その通り魔的犯行のせいで少々過激な隠れファンクラブができたりもしたのだが、接点がない環が知る由もない。
結局、環は魅上の女性恐怖症を緩和させて、それで終わってしまっただけのような形になる。
彼女に与えられた神の恩恵は『癒す力』。とはいえ、大怪我が瞬時に治るような便利な力ではない。少しずつ歪んだものを、少しずつ修正する程度の力だ。今回のことも、その力を必要とする患者が現れて、癒し終えたから離れていくのかもしれない。
そういうことなのだと自分に言い聞かせ、環は苦笑した。
本当は保健室の窓から2軍の練習場を見ていた。環が嫌悪する『女性遊びが激しい奴』が一人残って練習している姿を見たのは偶然だ。最初は見た目とのギャップが激しい奴だなぁとしか思っていなかったというのに、その本性を知るにつれて目が離せなくなっていた。真面目なヘタレは想像以上に屈折しながらも、素直な悩める少年であった。
一緒に過ごした日々はなかなか楽しかった。
――不意に恋愛に対して怖くなった。
もういい。別に恋愛なんかしなくても生きていけるはずだ。元々そんなつもりもなかったはずなのだから、これからはただの友達でいい。乙女なんてキャラではないだろう。
イメージにかけて、こんな情けない顔を誰かに見られるわけにはいかないと、ゴシゴシ顔をこする。
なのに、なのに、
「三輪?」
前方から歩いてくる人物に見られてしまった。
「……醍醐」




