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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Stand Alone Stories

元メイドの過日〜軒もる月〜

 どうもきれいな月夜の晩でありました。夜風が涼しく、ゆっくりと、ゆったりとたゆたうように時間が流れて行くのが肌で感ぜられます。

 ただ月を眺める、そういう時間は、私にとっては退屈と言えば退屈というものではありますが、それでも、子供の寝顔を眺めながら、夜の空を眺めているこの時間は、恵まれていると言えなくもないのです。贅沢な時間、と言い換えればよろしいでしょうか。

 と言うのも、うちの子は寝ぐずがないですから、夜中に突然起きて泣き騒いだりという事態で私たち夫婦を煩わせることがありません。私は主婦として、昼間の家事を済ませて、残りの一日を子供とゆったりと過ごし、夫の帰りを待ちながら、こうして子供が寝付くまでそばにいてあげれば、後はもう私の時間なのです。

 真面目な夫です。子供を養うために、そして余裕ができるようにと仕事に率先して取り組んでいるらしく、もう少し偉くなれば、もっと楽にさせてやれる。そうは言うけれど、部下が増えたりするのでしょうし、そういう訳もありますので、私はこの月夜に一人で過ごしているのです。努力が着実に成果をあげてらっしゃるようで、随分とお帰りが遅くなられました。この時間を享受できると言うのは、所帯を持った女性、それも一人の母親となった場合のうちではやはり恵まれていると思ったほうがよいのかもしれません。

 子供の寝顔はとても愛らしいです。紛れない我が子。

 まだ夜の九時を回ったところです。しかし、夫が帰ってくるのはまだまだ先の事。それでも、家事の事を思うと、本来ならばもっと、やる事がたくさんあるはずなのに、それがちっとも見つかりません。夫の明日の着替えを今のうちに出しておくなど、細かい気配りも含めて、子供が寝る前に済ませてしまいました。そして、手のかからない子供です。だからこそ、私はこの時間を退屈だと思わずにはいられないのです。

 お世話をしたいのに、それが必要ない人しか回りにいないのです。子供はまだ立ち上がる事も覚えていない状態ですが、おしめをしても泣かない子です。私たち夫婦に似てとてもおとなしいのです。

 結婚してしばらくは元の仕事を続けていましたから、このような退屈を感じる事はなかったのです。妊娠中にはそれなりの苦労が当然ありまして、その間あまり積極的に行えない家事を夫がきちんと代行してくれていた事もあって、素晴らしい夫です、この子が生まれたら私はこれまで以上に、夫を支え子供のためにめ一杯家事を頑張ろうと思っていたものですが、本当に手のかからない子供なのです。

 夫が帰ってきたら、私は作っておいた夕飯をご馳走して、お風呂の後始末などもすることができますが、夫の帰りが遅くなってか

らは、朝になると今日は晩御飯は用意していなくても大丈夫だよ、そんな事を言って出て行くものですから、私は自分が食べる最低限と、それじゃあ夫のお弁当のための下ごしらえをと、ちょっと手間のかかるものを作ってみたりするのですが、それでも時間は埋まりません。

 主婦が暇なはずはないと思っていましたが、私はなぜこんなに暇なのでしょうか。

 いえ、判っております。今まで私は自分の事に関しては無頓着な部分が多かったのですから、自分自身の時間と言うものがこうして出来てみても、何をしたらいいのか思いつかないのです。もちろん、子供の寝顔を眺めていると、飽きないと言う言い方をする事もあるでしょう。私もそう思います、自分の子は何よりもかわいらしく、見ていて飽きません。しかし、問題はそうではなく、私自身の性質にあります。

 子供を見ていてもずっと飽きないのとは全く関係なく、ただ何もせずにじっとしている事が私は我慢できないのです。どうしても何かしたくなってしまいます。おしめは何度も取り替えますが、それにも限りがあります。キッチンをきれいにするのも、換気扇まで丁寧に掃除するのも毎日やっていますし、床も毎日きれいにしています。窓だって拭きますし、玄関も整頓します。靴磨きもします。家中の日用品の在庫状況も確認を怠りません。掃除機だって使った後はメンテナンスを欠かしません。毎日使うものですから、大切に扱わなければなりません。

 そういう家事を越えた雑事なども、私の日々の生活のルーティンには組み込まれてしまっています。

 お世話をする相手がいないというのは、――自分の身の回りのことだけをすればいいというのは、私にとって耐え難いものと言う事が、最近になって感ぜられるようになって来ました。子供が生まれて、夫の帰りが遅くなって。趣味でも始めればいいのかもしれません。夫も、余裕を持ってと言っているのは、そういう心のゆとりや日常の中に楽しみを見つけて豊かになりましょうと言う含みがあるのですから。

 しかし、それでも私自身が楽しめるのは、他人のお世話に他なりません。それならば、在宅で可能な仕事をすればいいのかもしれませんが、それは夫が許してくれません。君はそんな苦労はしなくていいんだ。とても優しい言葉です。身に余る御寵愛、こんな事を言ってくれる夫も、とても掛け替えのないものだと判っておりますから、その事に反論する気は毛頭御座いません。夫こそ私が今、仕える主人に他ならないのですから。

 そう思っていても、ああ、私はこうして月夜を眺め、子供の寝顔を眺め、その静かな寝息を聴きながら、何かすることはないかと、考えをめぐらせている状態なのです。夫は今頃何をしているのでしょう。もしかしたら、場合によっては、何かよからぬ事に関わっていたり、妻である私に対して背信的な行為に及んでいたり、そういう可能性も考えられなくはありませんが、恐らくそれは有り得ません。夫は女性が苦手ですから、私を除いて親密な関係になれるという女性は、ご学友の一部の方々と、会社の女性に少しだけと言うくらいのもので、そうしてその方々もそれぞれの家庭を築いていたりするものです。そうなると当然不倫と言う事もあるかもしれません。夫はお酒が呑めませんから、そういった機会も辞退する事が殆んどで、帰りが遅いのは仕事のためです。食事を外で済ませるくらいは誰でも行うことです。

 しかし、夫の私に対する優しさは、そういった女性関連の行為に及んでいる事に対する後ろめたさから来る物であると、邪推する事もまた容易です。それでも私は夫を信じる事にしていますから、今頃はきっと仕事に取り組んでらっしゃるのでしょう。万一にも、不倫行為に及んでいたとしても、私はそれを咎める事は致しません。一時の過ちというのは、誰にでも起こりうる物です。過ちを認め、反省していただけるならば、それはもう過ぎた事として黙殺いたします。

 私が忠を尽くす側であるという自覚を持っております。ですから、今頃夫はまだ会社で仕事をなさっていると信じる事にするのです。彼の誠実さは、信用に足るものです。それゆえに仕事で評価を得られるのですから。

 今頃、頑張ってらっしゃるのでしょう。もうそろそろ九時半になります。子供のおしめを取り替えて、そうしたらまた私はこうしてまんじりと過ごすのみなのです。

 夫の朝は早いですが、もちろんそれより早く私は起きます。夫より早く寝るということもありません。それは私が自主的に行っていることなのですが、夫はそれをあまり歓迎してはいない節があります。ですが、それも夫の優しさによるもので、私にちゃんと睡眠をとってほしいという考えがあってのことです。もともと私は、余り睡眠を多くとるほうではありません。

 桜町のお嬢様も朝がお早い方でしたから。今頃、お嬢様は何をしておいででしょう。ご寝所に入られるにはやはりまだ早いようです、でなければ手習いごとの多い方御方ですから、ピアノだったり、バイオリンだったり奏しておられるのか。才智にも恵まれとても賢明で御座いますし、勉学に励んでいるかもしれません。もしかしたら、机に向かって便箋を広げ、その愛らしい手でもってペンを走らせ、文など認めておいでかもしれません。そしたら、何を書いてらっしゃるのでしょうか。休日のご予定などご友人の方へ伝えるものかもしれませんし、これも手習いで身につけた詩歌などを綴ってみたり。ええ、この時代でも文字を書くという事を重んじておられますから、お急ぎだったり、簡潔なお知らせの場合などは携帯電話でもってメールでする事は御座いましたが、やはり伝えたい事は手紙の、手書きの文字にこそ心が宿るもので、受け取る方も清々しい気持ちになれるものです。

しかし、――もしかしたら今頃、この私に宛てたメールをその繊細な指で打ちこんでらっしゃるかも知れません。

 もう、あれから何通もメールを賜っておりますが、それを一度も拝見することなく過ごしている私の事を、きっと憎く思ってらっしゃるかも知れません。もしそれを見てしまったなら、私の決心がきっと揺らいでしまうのではないか。いえ、それでも構わないのです。私はお嬢様のお傍にいられた事だけで、もう充分なのです。斯様な電子の文に頼ることなど無くてもよいのです、どうか、――

 決して裕福な家庭に育ったわけではない私を、あても何もなかった私を雇ってくださった御恩は何物にも代えがたいものです。しかし今の私には、我が家のほかに世間と言うものは御座いません。あの頃の暮らしはまさに夢のような日々で有りました。いまこうして思えば思うほどに。あの家でのご奉仕の日々は、この身の上に至上の喜びをもたらすもので御座いました。それはもう勿体ないほどのもので、最も私らしくいられたものですが、しかし御寵愛になれば、犬も猫も主人のひざを汚すものであるそうです。

私は今の夫を貶めるような事を敢えて申しますが、やはりあの頃の暮らしと今の暮らしを比べてしまうと、お嬢様のお傍に仕えていたあの頃の夢見心地を思ってしまうと、天女が羽衣を失ったかのような思いに駆られてしまいます。

 たとえ、この縁談を断っていたとしても私はいつまでもお嬢様のお膝元に居座る事はならなかったことでしょう。もちろん世間の目も御座います、そうしてお嬢様が正当な評価を失う事になろうものなら、そんな謗りが免れない事は当然です、そんな事になってしまったら私は口惜しくて堪らなくなったことでしょう。私の事を憎く思う他のメイドもいたことでしょう、それはお嬢様にとって良い環境ではありません。私が身を引けば収まったのですから。

 私は大きくため息をついて、胸にかかった雲を吹き払い、月の光が差し込んでいる窓を引いてみると、その音に驚いて子供が泣き始めました。ええ、やはり子供はこれくらいじゃないと、いけません。本当に可愛らしい事。どんな夢を見ていたのでしょう。

 ――夫は、私に楽をしてほしいと思っているのですが、もしかしたら、この今でさえこれ以上ない生活を送っている私の顔に、表情にふと卑しい不満が漏れているような事があって、それで夫が気になさっていたら。

父が一昨年無くなったときも、母が昨年亡くなった時も、世話の出来ない私に代わって夫は、咳が出たら背を撫で、そうして寝返る時には抱き抱え、万全な状態の私にさえ出来ない事まで本当によく看病尽してくれました。本当にこの上ない恩義をもって報いなければならないのです。それなのに、私は無意識のうちに夫への不満を顔に出しているような事があったら。こんな罪を犯すのも私の心に原因があるのです、しかし桜町のお嬢様の面影もなければ、私の胸の鏡に映るものもないのでしょう。罪は私にあるのか、お嬢様におありなのか、お嬢様さえなければ私の心は平穏なのでしょうか、いいえ、こんな事は考えてはならぬ事です。

 私の考えがどうなっているとも知らないわが子は、胸元で静かに眠っておりました。桜町のお嬢様の事を忘れ得ぬ限り、私は不貞の女なのです。

 

 子供をそっと寝床に移すと、おもむろに立ち上がり、テーブルに置いてあった携帯電話を手に取り、メールの受信ボックスを開く。振り分け設定とロックを施したそのフォルダにたどり着き、数えてみれば十二通の未読メールがそこにあり、桜町の名が並んでいる。

 今まで見ることもなかったけれど、捨てる事も出来なかったのは、思えば卑怯な事で、中身を見る事が無かった事を決心などと言っていたのは全く浅はかと言うほかありません。さあ、私の心は清らかか、それとも淀んでいるのでしょうか。

 封を説いてみれば、そこには有り難い、勿体ない言葉の数々、想ってる、慕ってる、恋い焦がれている、忘れられない、そんな文字が縦横に散らされ、携帯を持つ手が震える。二通も同じく、五通六通、顔色が変わったようにも見え、十二通、開いては読み開いては読み、しかし文字は目に入っても読む事は出来ないのだろうか。

 桜町のお嬢様のお姿も今は飽きるほどまで心に浮かべている。夫のおさなさも隠す事もしない。微笑みながら読み進める。切ない言葉の吐露に、胸が締め付けられるようである。

 お嬢様、今あなたがここにいて、斯様な勿体ないお言葉の数々、そして恨みと憎しみの籠った言葉を声を荒げて申されたら、お命を投げ出すと申されたら、私の心は騒ぐだろうか。いいえ、お嬢様がどのような状態でも、私の心が動く事はありません。そう言う思いに駆られるのは、恋うる気持ちを密かに隠しているからなのでしょう。

 しばらくはぼんやりとした空気に包まれ天井を眺めていたが、俄かに空虚な胸の内に何かが響いたのか、あたりを見回して声高く笑った。お嬢様も夫も子供も、一体なんなんだろうと高く笑った。

 さあ、お嬢様。

 今こそお別れを申しあげましょう。

 頬を伝う涙もなく、思いきった決心の色も無く、震えもしない手でもって、フォルダごとメールを削除した。画面にはただ無情に、削除完了と映っていた。

 私の執着もこれで何も残っていない。

 月の差し込む部屋にただ風の音だけが流れていた。


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