第十章 招待状の本当の意味
その日の朝、剛はいつもより早く目を覚ました。
窓の外では、山の木々が朝の光を受けていた。鳥の声が聞こえ、遠くから風が吹き抜けてくる。
名古屋にいたころ、朝は決して好きな時間ではなかった。
児童養護施設での生活は規則正しかったが、剛にとって朝は、また同じ一日が始まる合図にすぎなかった。学校へ行き、授業を受け、帰ってくる。空いた時間があれば本を読む。そうやって毎日を過ごしていた。
けれど、ここへ来てからは違った。
目を覚ますたびに、今日はどんな本に出会えるのだろうと考える。
何千年も前に生きた人々の暮らし。名前も残らなかった漁師の人生。遠い未来の科学者が書いた難解な論文。誰かが大切な人に宛てて書き、結局は届けられなかった手紙。
この図書館には、まだ知らない世界が無数に広がっていた。
「おはよう、剛さん」
台所へ行くと、ピノが朝食の準備をしていた。
「おはようございます。今日も早いですね」
「僕は眠る必要がないからね」
「……やっぱり、ピノさんもアンドロイドなんですね」
ピノは、少しだけ驚いた顔をした。
「カイから聞いたんだね。黙っていてごめんね」
「いえ。なんとなく、そんな気がしてました」
剛は椅子に腰を下ろした。
朝食を食べながら、彼は昨日、自分で書いたノートのことを思い出していた。
この図書館で過ごす時間を、少しずつでも記録に残しておきたい。
そう思うようになってから、毎晩、短い文章を書くようになった。
読んだ本の感想。ピノとの会話。ミナが教えてくれた歴史資料の調べ方。カイから聞いた、記録を残すことの意味。
どれも、いつか自分が忘れてしまうかもしれないことだった。
「ピノさん」
「なに?」
「僕がここに招待された理由って、まだ全部は分かっていないんですよね」
ピノは手を止めた。
「そうだね。詳しい事情は、カイから説明を受けるのがいいと思う」
「カイさんは知っているんですか?」
「少なくとも、僕より詳しいのは確かだよ」
剛は少し考えた。
「今日、聞いてみようかな」
「それがいいと思うよ」
ピノはいつもの笑顔で答えた。
剛は朝食を終えると、カードをポケットに入れ、図書館へ向かった。
*
4d地下図書館の内部は、今日も変わらず活気に満ちていた。
何層にも重なる書架の間を、作業用の機械が静かに走っている。遠くの製本区画では、新たな本が次々と完成していた。
剛は何度も訪れた通路を歩きながら、資料収集部門へ向かった。
ミナの姿を見つけると、声をかけた。
「おはようございます、ミナさん」
「あら、剛さん。おはようございます」
ミナは手元の端末から顔を上げた。
「今日は何を調べるんですか?」
「実は、カイさんに会いたくて。僕がここに招待された理由について、もう少し詳しく聞いてみたいんです」
ミナは少しだけ表情を改めた。
「そうですか。カイさんなら、管理区画にいると思います。私から連絡しておきましょうか?」
「お願いしてもいいですか?」
「もちろんです」
ミナが端末を操作すると、しばらくして返事が届いた。
「今なら時間が取れるそうです。こちらへどうぞ」
案内されたのは、これまで剛が入ったことのない区画だった。
入口には認証装置があり、壁には小さな表示板が設置されている。
そこには、閲覧制限区域と書かれていた。
「ここには、どんな記録があるんですか?」
剛が尋ねると、ミナは答えた。
「図書館の運営に関する記録や、特別な閲覧権限を持つ人に関する資料などです。もちろん、すべての資料を誰でも読めるわけではありません」
「僕も入っていいんでしょうか」
「カイさんの許可が出ていますから、大丈夫ですよ」
ミナが認証装置に手をかざすと、扉が静かに開いた。
中は、外の広大な図書館とは対照的に、落ち着いた空間だった。
壁一面に端末が並び、中央には大きな机が置かれている。
その向こうに、カイが立っていた。
「来たね、剛さん」
「おはようございます」
「座ってくれ。今日は、君が知りたがっていたことを話そうと思う」
剛は椅子に腰を下ろした。
カイは机の上に端末を置き、画面を操作した。
「君がこの図書館に来た理由について、私はこれまで、すべてを説明してこなかった」
「はい」
「隠していたというより、説明する時期を考えていたんだ。君がここで過ごし、この場所が何のために存在するのかを知ってからのほうがいいと思ってね」
剛は黙ってうなずいた。
「この図書館には、君と同じように招待状を受け取った人々がいる。時代も、暮らしていた場所も違う。全員が同じ人生を歩んできたわけではない」
「ほかにも招待された人がいるんですね」
「もちろんだ。ただし、招待状を受け取る条件は、誰にでも当てはまるものではない」
カイが画面を切り替えると、いくつもの記録が並んだ。
発行された時代も、宛名も違う。しかし、そこに記された文章には共通点があった。
剛は、見覚えのある文面を見つけた。
自分が初めて受け取った、あの招待状と同じ文章だった。
「これ……」
「そう。君が受け取ったものと同じ形式の招待状だ」
剛は画面を見つめた。
あの日、差出人も消印もない封筒が届いたときのことを、今でもはっきり覚えている。
黒いカードに刻まれた、たった二文字の記号。
4d。
あれがなければ、彼はこの場所に来ることもなかっただろう。
「じゃあ、僕以外にも、あのカードを持っている人がいるんですか?」
「いる。ただし、招待された人々が一堂に会するわけではない。閲覧期間も、招待された時代も、それぞれ異なる」
「どうして、そんな人たちを招待するんですか?」
カイはすぐには答えなかった。
やがて、画面に一つの記録を表示した。
「君に関係する、重要な記録がある」
剛は身を乗り出した。
「僕に?」
「そうだ」
画面には、ある人物の記録が表示されていた。
剛には見覚えのない名前だった。生年月日も、出身地も、彼の知っている時代よりずっと先のものだった。
「この人物は、数百年後の日本で大統領を務めることになる人間だ」
「大統領……?」
剛は思わず聞き返した。
日本の政治制度が将来どう変化するのか、剛には想像もつかなかった。
「この時代の日本には、大統領はいませんよね」
「そうだね。だが、未来の日本では政治制度が変わっている」
カイは淡々と説明を続けた。
「その大統領は、歴史の記録を未来へ残すという計画を推進した人物でもある。過去へ調査員を送り、歴史を改変することなく、人々の暮らしを記録する。君がこれまで見てきた資料収集の活動も、その計画から始まったものだ」
「その人が、この図書館を作ったんですか?」
「正確には、彼がすべてを作ったわけではない。図書館の建設には、多くの技術者や研究者が関わっている。彼は、その計画を大きく前進させた人物なんだ」
剛は画面を見つめた。
自分がこれまで見てきた、膨大な記録。
八千年前の集落。名も知らない人々の暮らし。何世代にもわたって受け継がれた手紙や日記。
それらが、遠い未来に生きる一人の人間の決断とつながっている。
不思議な気持ちだった。
「でも、それが僕とどう関係するんですか?」
カイは次の画面を開いた。
そこには、長い年月をさかのぼる系譜が表示されていた。
数百年という時間を超え、さらに過去へと枝分かれしていく線。その一つが、剛の知っている名前へとつながっていた。
自分の名前だった。
「君は、この未来の大統領の祖先の一人なんだ」
剛は言葉を失った。
「……僕が?」
「そうだ」
「でも、僕には家族がいません。少なくとも、自分の両親のこともよく知らないんです」
「君が育った環境については、記録に残っている。だが、君の知らないところで、君の血筋は未来へとつながっているんだ」
剛はもう一度、画面を見た。
そこには、自分の知らない名前がいくつも並んでいた。
その先に、自分の知らない未来があった。
「じゃあ……僕が招待されたのは、その人の祖先だからですか?」
「そうだ。招待状を送る対象には、いくつかの条件がある。その一つが、未来の大統領につながる血筋だったということだ」
剛は椅子の背もたれに身体を預けた。
今まで、自分が特別な人間だとは思ったことがなかった。
勉強が飛び抜けてできるわけでもない。運動が得意なわけでもない。人に誇れるような実績もない。
ただ、本を読むのが好きだった。
本を読んでいるあいだだけは、自分がどこにいるのか、どんな境遇にいるのかを忘れられた。
その本好きが認められて、この図書館に招待されたのだと、どこかで考えていた。
しかし、そうではなかった。
「僕が本好きだから、選ばれたわけじゃないんですね」
剛の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「それだけが理由ではない、ということだ」
カイは静かに答えた。
「君の血筋は、招待の条件の一つだった。しかし、それで君がこの場所で何を感じるかまで決まっているわけではない」
「でも、もし僕がその人の祖先じゃなかったら、ここには来られなかった」
「そうかもしれない」
カイは、無理に否定しなかった。
「だからといって、君がここで過ごした時間の価値まで変わるわけではないんだ」
剛は黙っていた。
「思い出してほしい。君は、ここで佐藤源一という漁師の記録を読んだね」
「はい」
「彼が未来の大統領の祖先だったから、その人生に価値があったのだろうか?」
「……違います」
剛はゆっくりと首を振った。
「家族と暮らして、海で働いて、毎年、奥さんと浜辺を歩いていた。それだけでも、あの人の人生には意味があったと思います」
「そのとおりだ」
カイはうなずいた。
「歴史に名を残した人間だけが大切なのではない。偉大な子孫を残した人間だけが大切なのでもない。誰かの人生は、その人が生きたというだけで、ほかの誰かと同じように一つの人生なんだ」
剛は、源一の日記を思い出した。
振り返れば、悪くない人生だったと思う。
あの言葉には、未来の大統領も、偉大な功績も出てこなかった。
ただ、一人の人間が自分の人生を振り返ったときの、静かな満足があった。
「君がこの図書館で本を読み、何かを学び、自分の言葉で記録を残そうとしている。それは、君自身が選んでいることだ。血筋によって命じられたことではない」
剛は、しばらく考えていた。
自分が招待された理由を知りたいと思っていた。
しかし、いざ答えを聞かされると、心のどこかに空白ができたような気がした。
自分は特別な何かを持っているのではないか。
そんな期待が、ほんの少しだけあったのかもしれない。
けれど、そうではなかった。
彼は未来の大統領の祖先になるというだけの、一人の人間だった。
いや、それだけではない。
今ここにいる、近藤剛という一人の人間でもある。
「カイさん」
「何だい?」
「僕がここに来た理由は、わかりました。でも、これから何をするかは、僕が決めていいんですよね」
「もちろんだ」
「じゃあ、僕はこれからも本を読みたいです」
剛は顔を上げた。
「歴史のことも、科学のことも、文学のことも。まだ知らないことがたくさんありますから。それに……いつか、自分でも何かを書いてみたい」
カイは穏やかに微笑んだ。
「それでいい。ここは、君が自分の時間を過ごすための場所でもあるんだから」
*
カイは、剛にもう一つの提案をした。
「もし望むなら、君につながる家系の記録を、もう少し詳しく調べることもできる」
「僕の先祖の記録ですか?」
「そうだ。ただし、すべてが残っているわけではない。記録が途切れている時代もあるし、名前しかわからない人物もいる」
剛は少し迷った。
自分の血筋を知ることには、興味があった。
自分がどこから来たのか。自分の知らないところで、どんな人々が生きていたのか。
それは、今まで考えたことのない問いだった。
「見てみたいです」
「わかった。では、閲覧できる範囲の資料を用意しよう」
端末に、いくつもの記録が表示された。
出生の記録。住民の名簿。手紙。古い写真。仕事の記録。家族のあいだで受け継がれた日記。
すべてがそろっているわけではなかった。
ある人物については、生まれた年と亡くなった年しかわからない。別の人物については、名前さえ確かなものではなく、複数の資料を照合した推定にすぎなかった。
それでも、記録をたどることで、剛は自分の知らない人々の存在を少しずつ知ることができた。
農作業をしていた人。
町で商売を営んでいた人。
家族に手紙を書いていた人。
時代が変わり、住む場所が変わり、それでも人々は毎日を生きていた。
特別なことばかりではない。
仕事に追われ、家族と食卓を囲み、誰かのことを心配し、ときには失敗して、また次の日を迎える。
剛は画面に表示された古い手紙を読んだ。
そこには、遠く離れた家族を気遣う、ごく普通の言葉が並んでいた。
歴史の教科書に載るような文章ではなかった。
立派な名言でもない。
それでも、書いた人が誰かを思っていたことだけは、はっきりと伝わってきた。
「この人たちがいなければ、僕もいなかったんですね」
剛がつぶやくと、カイはうなずいた。
「そうだね。君が知らないだけで、君の人生は、たくさんの人の人生の先にある」
「なんだか、不思議です」
「そう感じるのも自然なことだと思うよ」
剛は、しばらく資料を読み続けた。
そこにいたのは、偉人ばかりではなかった。
失敗した人もいた。記録にほとんど残らなかった人もいた。名前しか伝わっていない人もいた。
けれど、誰一人として、単なる数字には思えなかった。
彼らが生きていたからこそ、今の自分がいる。
そう考えると、遠い過去が少しだけ身近に感じられた。
*
管理区画を出るころには、剛の頭の中はさまざまな思いでいっぱいになっていた。
通路の向こうから、作業用の機械が本を運んでいくのが見えた。
何層にも続く書架。記録を整理する作業員たち。誰かが残した言葉を、一冊の本にまとめる工程。
ここで行われていることは、昨日までと何も変わらない。
変わったのは、剛の受け止め方だった。
自分が招待された理由を知ったからといって、図書館の本が急に違うものになるわけではない。
源一の人生も、八千年前の人々の暮らしも、届けられなかった手紙も、何も変わらない。
それらは、最初からそこにあった。
「剛さん!」
声をかけられて振り向くと、ミナが立っていた。
「カイさんとのお話は終わりましたか?」
「はい。いろいろ聞いてきました」
「そうですか。何か、わかったことはありました?」
剛は少し考えてから答えた。
「僕がどうして招待されたのかは、わかりました。でも、それで全部がわかったわけじゃないんだと思います」
ミナは首をかしげた。
「というと?」
「理由がわかっても、僕がここで何を読むのか、何を考えるのかは、これからのことですから」
ミナは、やがて小さく笑った。
「なるほど。剛さんらしい答えですね」
「そうでしょうか」
「ええ。せっかくここにいるんですから、理由を知ったあとも、たくさん本を読んでください」
「そのつもりです」
剛は笑った。
「読みたい本が多すぎて、困っているくらいですから」
*
その夜、剛は家の自分の部屋でノートを開いた。
机の上には、ピノが用意してくれた飲み物が置かれていた。窓の外では、虫の声が聞こえている。
剛はしばらくペンを持ったまま考え、それから書き始めた。
――今日、僕がこの図書館に招待された理由を知った。
僕は、数百年後の日本で大統領になる人物の祖先の一人らしい。
その血筋が、招待される条件の一つだった。
正直に言えば、少しがっかりした。
僕が本を好きだから、選ばれたのだと思っていたのかもしれない。
けれど、よく考えてみれば、そんな理由がなくても、本を読むことはできる。
僕は本が好きだ。
知らないことを知るのが好きだ。
遠い昔の人が何を考え、どんな暮らしをしていたのかを想像するのが好きだ。
その気持ちは、招待状の理由とは関係がない。
僕は、誰かの祖先である前に、今を生きている一人の人間だ。
いつか僕の人生も、何らかの形で記録されるのだろうか。
それはわからない。
でも、記録に残るかどうかだけが、人生の価値を決めるわけではない。
今日読んだ手紙のように、誰かを思って書いた言葉がある。
源一さんのように、家族と過ごした時間がある。
名前が残らなくても、そこに生きた人がいた。
僕も、そんな一人なのだと思う。
剛はペンを置いた。
読み返してみると、少し気恥ずかしかった。
それでも、消そうとは思わなかった。
ノートを閉じ、机の脇に置いてある4dのカードを手に取る。
この小さなカードが、自分をここへ連れてきた。
だが、ここで過ごす時間まで、カードが決めるわけではない。
明日、何を読むか。
誰と話すか。
何を知り、何を考えるか。
それは自分で選べる。
剛はカードを机に戻した。
「明日は、何を読もうかな」
声に出してみると、自然と笑みが浮かんだ。
図書館には、まだ読んでいない本が無数にある。
過去には、まだ知らない人生がある。
そして未来には、自分がまだ書いたことのない物語がある。
剛は灯りを消し、布団に横になった。
明日もまた、本を読もう。
それが今の自分にできる、一番確かなことだった。
4d地下図書館での生活は、まだ始まったばかりだった。




