5. エリートの挫折
ここにも期せずして退職した若者が一人。
「君には期待していたんだがね。将来的にはディレクターを担ってほしい人材だと思っていた。」
東京都港区六本木の超高層ビルにある外資系投資銀行の日本法人本社人事室で、テーブル上に差し出された辞表を前に人事部長は採用面接時の印象からこれまでを思い返してそう述べました。
営業成績抜群のアソシエイトで海外本社からのリストラ候補に上がっていたわけではありません。しかし素行が悪すぎたのです。関係各所からのクレームを部長はこれまで海外本社に報告せずに内密に処理してきましたがそれも限界でした。本人都合の合意退職の形を取らざるを得ないことに部長は苦渋の決断をしたのです。
細身の長身である金田は眼力があるいかにも仕事ができる風采でまだ30手前でしたが、今日ばかりは伏し目がちで、無言で頭を下げてドアを閉め廊下に出ました。
「これからどうするんだ。」振り返ると入社研修で同室だった中村が納得できない顔で立っていました。
「お前を辞めさすなんて会社の損失だよ。上は何を見てるんだ。」と、憤った声で言いました。
「競争相手がひとり減って喜んでいる奴ばかりなのに、お前は変わってるな。」
中村とは研修後は別部署に配属され特に仲が良かったわけではないので、不思議に感じました。いつも面倒見ていた後輩達は誰も見送りに来ていません。
「今後のことなんて、何も考えてねえよ。じゃ。」
金田は現役で入学した東京の有名私立大学在学中に証券外務員試験Ⅰ種に合格していましたが外国有名大学のMBA資格を持っていたわけではありません。学士でしたが持ち前の頭の回転の速さと面接での堂々とした受け答えで世界的企業の外資系投資銀行に入社できました。入社後最短で証券アナリスト試験にも合格し、数年で彼のアナリスト・レポートの精度は顧客の信頼を呼び、新人にしては珍しく人気アナリストに名を連ねることとなりました。
彼は同期入社組ではトップの成績を走り続け、基本給以外にかなり高額のインセンティブを受け取るようになり最年少でアソシエイトになりました。もともと細身で183cmの身長に目のきれいな彫りの深い顔立ちでしたから女子社員とも浮いた話がちらほらとあったのですが、次第に社内でも肩で風を切るようになってきたのです。
高給と引き換えに彼が受けるストレスは半端なものではありませんでした。ヘッジファンドや富裕層投資家にプレゼンテーションをした後などはドッと疲れがたまりました。溜まったストレスを発散しないことには精神が保てない状態で、毎晩後輩を何人も連れて飲み歩くようになりました。もちろんおごりです。しかも悪い酒でどんどん悪酔いし汚い言葉をどこでも吐いたり、店のダンスショー中に乱入してダンサーに抱きついたり騒いだりもしました。おかげで六本木で出入禁止の店が何件も出る始末でした。
やがて彼の行動は上司の知るところとなり、何度も注意を受けついに最後通告まで受けました。しかし一向に飲み歩くことを止めようとせず、明け方まで飲み続けてとうとう大事なプレゼンテーション当日に寝坊し無断欠席、電話にも出ずで大失敗をしでかしてしまいました。顧客もカンカンでした。
そして入社8年足らずで辞表を提出し、ハローワークに通う日々になったのです。かなりの高給取りでしたが預金はほとんどなく、退職金は真っ赤なポルシェ・911カレラのローン返済に消えてクレジットカードの債務だけが残りました。
ハローワークの前の植込みに座りタバコを吹かしてやっと気づきました。
「あいつらか…」
「そらそうだよな。」
金田は後輩達にいつも飯や酒をおごって面倒みてやってるつもりでしたが、彼らにとっては酔っ払いの後始末をさせられていて迷惑にしか感じていなかったのです。
「俺は本当、バカだな。」
金田はようやく自分の愚かさに気づいたようです。
【解説】
・ストレス
筆者の20代会社員時代は「24時間戦えますか」と栄養ドリンク剤を飲んで頑張るジャパニーズビジネスマンが象徴的で、ゼネコン(建設会社)に入社し現場事務所に泊まり込んで週末だけ帰宅する生活をしていました。タクシーチケットは冊で渡され、使いきれなかったら仕事をしてないと怒られるような時代でした。バブルがはじけるまでそんな感じでしたね。現在はストレスの対処について会社や周囲の理解が得やすく有給休暇や休職が取りやすくなってきたと思いますが、高収入と健康維持を両立するのは難しいですね。
・インカムリッチ・プロフェッショナル
高度な専門知識を有したプロフェッショナルの方がいます。非常に高額の給料で、そのうち高率のインセンティブ(業績に応じた報酬)がある方です。
しかしストレス性の支出が多く資産が形成できない方も多いのです。女性ではブランド品を買い漁ったり、海外旅行に頻繁に行くような方ですね。
インセンティブはボーナス時に支給が一般的ですが、ストックオプションと言われる自社株購入権(自社株を有利な条件で手に入れられる)や退職金支給時に金額上乗せを選択できる場合もあります。




