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手配犯

作者: 雉白書屋

 とある深夜の交番。警官が机に日誌を広げ、ペン先を走らせていると、ガラガラと引き戸が開く音がした。


「あのー……」


「はいはい、こんばんは」


 顔を上げた警官は、にこやかに笑った。入ってきたのは若い男。二十代前半といったところだろうか。表情は乏しく、どこか虚ろな印象を漂わせている。

 財布でも落としたのだろう――そう思い、遺失届の用紙に手を伸ばしかけた警官だったが、ふと動きを止めた。


 ――この男……どこかで見たことがある。


 知り合いではない。だが、確かにどこかで見覚えがあった。


「……えっと、それでどうされましたか?」


 違和感をひとまず飲み込み、警官は普段どおりの柔らかな口調で問いかけた。男は「いやあ……」と曖昧に声を漏らし、首を傾げて頭を掻いた。

 緊急性はなさそうだ。警官は「とりあえず、座りますか?」とパイプ椅子を指し示した。男は「はあ」とため息のような返事をして、言われるまま腰を下ろした。


「それで、どうされましたか?」


「どうされた……んー……」


 男は肩を小刻みに揺らしながら、そわそわと室内を見回した。とりあえず来てみたものの、やっぱり帰ろうかな――そんな空気が漂っている。警官は緊張をほぐそうと、軽く自己紹介を始めようとした。しかし、口を開いた瞬間、固まった。


 ――そうだ、この男……。


 まじまじと男の顔を見つめる。すると、胸の奥に引っかかっていた違和感の正体に気づいた。


 ――六甲田にそっくりだ!


 数か月前、カップルを車で故意に轢き、そのまま逃走。現在も行方をくらましている指名手配犯――六甲田。

 事件当時、ニュースや内部通達で何度もその顔写真を見た。町を歩けば、自然と目で探してしまうほどに。その男が今、目の前にいる。

 警官は無意識に腰を浮かせた。椅子がガタッと音を立て、男がびくりと身を震わせた。


 ――いや、落ち着け。まだ断定はできない。


 六甲田の顔立ちはごく平凡だ。指名手配以降、全国から寄せられた目撃情報は数百件にのぼる。しかし、すべて空振りに終わっている。懸賞金つきということもあり、いまだに情報提供は絶えず、時折ニュースで取り上げられてはいるものの、手がかりはまったく掴めていない。


「いやあ、すみませんね。ちょっと足がしびれちゃって、はははは!」


「あ、はい……ははは……」


 警官は取り繕うように笑った。男もつられるようにぎこちなく口角を上げ、意図せず場の空気がわずかに和らいだ。警官は胸の内で安堵の息をついた。

 ……さて、仮に本人だとして、まずは応援を呼ぶべきか。……いや、自らここに来たということは出頭か? 逃げるつもりはないのかもしれない。だが、迷っているようにも見える。目の前で無線を使えば、怯えて逃げ出すかも。かといって席を外せば、その隙にいなくなる雰囲気も漂っている。ここは、もう少し会話で探るべきだな。

 そう腹を決め、警官は机の上で両手を組み、微笑みながら柔らかい声で問いかけた。


「それで、ここには何のご用かな?」


「用、というか……」


「うんうん。ふふ……あっ、ところでお名前は?」


「わからないんです」


「そうか、やっぱり君が……ん?」


「すみません。わからないんです」


「え、わからないって……自分の名前が?」


「はい……」


「んー……んー?」


 警官は眉を寄せ、首を大きく傾げた。しばし沈黙したのち、静かに訊ねる。


「えっと、身分証とか持ってないの?」


「持ってません。すみません……」


「財布の中に入ってたりとか」


「財布もないんです」


「そう……じゃあ、どこに住んでるの?」


「それも、わからないんです」


「おー……」


 警官は思わず息を漏らした。これは記憶喪失なのか? 警官がそう問うと、男は「たぶん……」と呟き、頭を掻いた。


「それで、困ったときはお巡りさんに頼ればいいかなって思って来たんですけど……」


「それは……まあ、うん、そうだね。善良な市民の発想だね」


 記憶喪失――確かに、そう見えなくもない。そのぼんやりとした雰囲気には、どこか浮世離れしたものがある。だが、なぜ記憶を失ったのか。逃亡中に事故に遭った? 薬物の影響? あるいは極度のストレスか。逃亡犯なのだ。不思議なことではない。

 ……いや、そもそも、まだ六甲田本人と決まったわけじゃない。いたずらの線も考えられる。似た顔立ちを利用して警官をからかい、隠し撮りでもしているのかもしれない。最近の若者は『バズる』ためならそういうことを平気でやりかねない。面白ければ何をやってもいいと思っている節があるのだ。

 また、仮にそうだとしても、誰かに強要されているのかもしれない。顔立ちには気の弱さと素直さが滲んでいた。いじめの可能性も考えられる。これは、ちょっと厄介かもしれないな……。

 警官は若者を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整え、慎重に話を切り出した。


「えっと、じゃあ、今までどこにいたのかな?」


「すみません。それもちょっと……。ただ歩いていたら明かりが見えて、『あ、交番だ』って思って来たんです」


「なるほど……ちなみに、好きな数字は何かな?」


「え? 二とかですかね……」


「二? それはどうして?」


「一番って、なんか恐れ多いじゃないですか。僕なんて二番で充分です。いや、三番でも四番でも……」


「おお、控えめ。優しい……のか? じゃあ、六はどうかな?」


「六? いえ、特に……」


「何か感じない? 親しみとか。ちょっとこの紙に書いてみてくれる?」


「はい……。あの、特に何も感じません」


「そうか……。おっ、字が綺麗だね」


「あ、ありがとうございます」


「とても二人轢き殺した者の字には見えないな……」


「え? すみません。よく聞こえなくて……」


「ああ、気にしないで。独り言、独り言。ははは! じゃあ次、『甲』って書いてみようか!」


「え? はい……」


「おー、いいよ、いい感じ。乗ってきたねえ! 『田』も書いてみようか!」


「乗ってませんけど……はい」


「うんうん。この文字の並びを見て、何か思い出すことはない?」


「うーん……すみません。特には……」


「そうか……あっ、そうだ。乗るといえば君、車は好きかい?」


「わかりません……あ、でも免許証を持ってないので、乗っちゃダメですよね。あはは……」


「まあ、うん。まあ、うーん……」


「あの、どうしたんですか?」


「いや……一、二、三、四、五、六! 七。六! 君、今、“六”に反応したね!」


「え、はい。一番大きな声だったので……」


「あー、ははは。確かにそうだ。ははは」


「あはは……」


「……ねえ、カップルってムカつかない?」


「え? いえ、別に……」


「並んで歩いてるの見たらさ、こう、後ろからドーン! ってぶつかってみたくならない?」


「割って入る感じで、ですか? いや、わからないですけど、そういう気持ちにはならないと思います……」


「へー、普通はなるもんだけどねえ」


「お巡りさんはそういう気持ちになるんですか……? 僕は特には……」


「そうか……」


「はい……」


「君、人殺したことある?」


「え!? ありませんよ!」


「おや、そこは『わからないんです』じゃないんだね……。必死に否定したくなる理由でもあるのかな?」


「いや、人殺しなんてするわけないでしょう。絶対に許されない行為です。否定するのは当然です」


「おお……そうだね。やはり善人なのか……?」


「あの、さっきからどうしたんですか? 大丈夫ですか? 僕に聞きたいことがあるなら、はっきり言ってください。まあ、お答えできるかはわかりませんけど……」


 若者は少し俯きながらそう言った。警官は「うーん」と唸り、机の引き出しを開けた。そして一枚の紙を取り出し、そっと机の上に置いた。


「え、これ……」


 若者はその手配書をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。

 警官は顔を撫でながら、天井を仰いだ。

 言葉を失うのも無理はない。まさか記憶を失う前の自分が、人を轢き殺して逃げた凶悪犯だったなんて。

 だが、罪は罪だ。逃げることなどできない。きっと彼がここへ来たのも、運命の導きなのだろう。あるいは無意識の罪悪感がそうさせたのかもしれない。

 よし。ここは優しく、励ます感じで――。


「……え?」


 警官は思わず声を漏らした。視線を戻した先――そこに若者の姿はなかった。

 慌てて椅子を蹴るように立ち上がり、辺りを見回す。目を離したのはほんの数秒。逃げ出す隙などなかったはず。そもそも、出入り口の引き戸は閉じたままだ。

 警官は引き戸を開けて、外に出た。辺りはしんと静まり返り、人影はどこにもない。


 ――いつの間にか居眠りして、夢でも見ていたのだろうか。


 風が吹き抜け、机の上の手配書がはらりと床に落ちた。警官はその紙に視線を落とし、ぽつりと呟く。


「やっぱり、似てたよな……」


 だが、次第に自信が揺らいできた。

 もし人違いだったら悪いことをしたな……相手が幽霊とはいえ。けれど、もし本当に本人だったとしたら……。


 ――見つからないこと。それ自体が罰になるのか……。


 警官は深く息を吐き、そっと引き戸を閉めた。夜はまだ深かった。

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