第7話 起床
◇ ◇ ◇
翌朝、目を覚ますと、灰咲さんはまだ眠っていた。
一昨日はネカフェに泊まったって言っていたし、もしかしたら疲れていたのかな?
ネカフェのマットと、うちのベッドでは身体の負担が大違いだろうし。
それに元カレに怯えずに済むのもぐっすり眠れる要因なのかもしれない。
灰咲さんを起こさないように静かに起き上がった俺は、ローテーブルに置いてあるスマホを手に取って時間を確認する。
「七時か……」
今日は午前から講義があるから大学に行かないといけない。
だから、俺が家を出る前に灰咲さんを起こさなければならない。家に一人で置いて行くわけにはいかないからな。
でも、今はまだ時間に余裕があるから、もう少し寝させてあげよう。
片開きのカーテンをベッド側だけ閉めたままにしておいて、反対側だけ開けさせてもらおう。そうすれば灰咲さんはそんなに眩しくないはずだし、俺は日の明かりを確保できる。
朝起きたら同僚の女性が寝ている状況に非日常感を覚えるが、やることは普段と変わらない。
いつも通り、シャワーを浴びて、身支度を整えて、荷物の確認をする。それだけだ。
唯一、異なることといえば、灰咲さんを起こさないように物音に気をつけることくらい。――いや、もう一つあるか。
いつもなら先にシャワーを浴びるところだが、今日は荷物の確認から始めよう。
シャワーを浴びた後にドライヤーを使うから、その音で灰咲さんの眠りを妨げてしまうかもしれない。故にシャワーは後回しだ。
といっても、荷物の確認なんてほとんどやることないんだけどな。
持ち物は特に変わらないし、鞄に入れたままになっている物をそのまま持って行くだけだ。
いつもならノートパソコンを鞄にしまう必要があるが、昨日は灰咲さんがいたからそもそも取り出していない。だから鞄に入れ直す必要がない。
一応、鞄の中身を確認しておくことしかすることがないのだ。
案の定、鞄の中を確認したら必要な物は全て揃っていた。
いつもと順番を変えて後回しにしたが、結局は早々にシャワーを浴びることになってしまった。
◇ ◇ ◇
「――おはよう」
シャワーを浴び終えて脱衣所を後にした俺にそう声がかかった。
声のほうへ視線を向けると、寝起きだと思われる灰咲さんの姿があった。
「おはようございます。すいません。起こしてしまいましたか?」
うるさいとわかっていても、髪を乾かすためにはドライヤーを使わないといけない。
だから、もしかしたら灰咲さんの睡眠を妨げてしまったかもしれない。
「ううん。普通に起きた」
ベッドで上半身だけ起こした体勢の灰咲さんが首を左右に振る。
その姿を確認して安堵した俺は、冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。
棚にあるマグカップを手に取ると、牛乳を注いで一気に飲み干した。
「灰咲さんは今日もバイトでしたっけ?」
「うん。昼から」
昼からかぁ~。
俺は遅くても九時には家を出るから、灰咲さんにはちょっと早い時間だな……。
「俺は九時には家を出ないといけないんですけど、灰咲さんはどうします?」
「ん~? 駅の周辺で適当に時間潰すから大丈夫だよ」
「元カレさんは大丈夫っすか?」
元カレに自宅がバレているということは、灰咲さんの生活圏をある程度は把握されていると見るべきだろう。
そうなると、駅周辺で時間を潰している時に元カレに見つかってしまう恐れがある。杞憂かもしれないが、懸念点である以上は見過ごせない。
「今日は月曜だから大丈夫だと思うよ。向こうも仕事があるから、こっちに来るとしても週末くらいだろうし」
「さすがに仕事を休んでまでは来ないっすかね?」
「うん。多分ね。あの人は外面がいいし、世間体とか、そういう体裁はしっかり整えるんだよ。だから余程のことがない限りは、突然有休を取ったり、仕事をすっぽかしたりはしないはず」
「灰咲さんを探すのは余程のことに含まれないんですかね?」
「……それはどうだろう? さすがにそこまで私に固執しているとは思えないけど……」
首を傾げた灰咲さんは眉間に皺を寄せると、否定できるだけの自信がないのか、声が弱々しくなっていった。
「灰咲さんが思っている以上に、元カレさんに愛されてる可能性がありますよ。灰咲さんにとっては傍迷惑な愛なんでしょうけど……」
「なんか凄い不安になってきたじゃん……」
平静を装ってはいるものの、いつもなら惹き込まれてしまいそうになるほど美しいはずの瞳が今は不安げに揺れている。
「元カレさんが自分に非があると思ってなかったら、突然消えた灰咲さんのことを心配して探してる可能性もあるんじゃないですか? それだと余程のことに含まれると思うんですよね」
不安を煽るようで申し訳ないが、リスクを回避するために必要なことだから敢えて言わせてもらった。
「そう言われると、平日だからって油断できない気がしてきた……」
「杞憂に終わればいいんですけどね」
「気にかけておいて損はないし、心構えはしておくよ」
俺の余計な一言で心的負担が増してしまったかな……?
浮かない顔で溜息を吐く灰咲さんの姿を見て罪悪感が押し寄せてきた。
「仮に万が一、元カレと遭遇しても、今の私と昔の私では見た目が違いすぎて、あの人は気づかないかもしれないし」
希望的観測にすぎないが、気休めになるならアリな考え方かもしれない。
あまり重く捉えすぎても気疲れするだけだしな。
「――ところで、獅子原君はまだ時間ある?」
気持を切り替えたのか、いつものクールな表情に戻った灰咲さんは、ベッドから降りて凝り固まった身体を解すように身体を伸ばしながらそう口にした。
「あと一時間ちょっとしたら家を出ます」
灰咲さんの何気ない仕草とセリフのお陰で少し重くなっていた空気が霧散してくれた。
罪悪感を覚えていた俺は空気が変わったことにホッとして、今の時間を確認することなく質問に答えていた。
「ってことは、少し時間あるんだね」
「はい」
「なら、軽く朝食を作るよ」
「いいんすか?」
「もちろん」
それは嬉しいが、灰咲さんは時間、大丈夫なのだろうか?
灰咲さんも俺と同じタイミングで家を出ることになるから、それまでに支度を済ませなくてはならない。飯を作っていたら時間がなくなるんじゃ……?
「大丈夫だよ。私、女にしては支度に時間がかからないほうだから」
「そうなんすね」
「薄化粧だし、髪も短いし、仕事に行くだけだから服に悩むこともないし」
まあ、そもそも泊まる前提だったから持って来た着替えしかなくて悩みようがないですもんね……。
「灰咲さんがいいならお願いします」
「うん。任されました」
ちょうど小腹が空いていたし、折角なのでお言葉に甘えることにした。
もう今更、申し訳ないとか、遠慮するとか、そういう余計な気遣いはしない。
今の俺と灰咲さんにとっては、このくらいの距離感が一番しっくりくる付き合い方だともうわかっているから――。