第4話 きっかけ
◇ ◇ ◇
洗い物を終えた俺は、一足先にソファで寛いでいた。
スマホで小説の新刊情報を調べていると、キッチンから遅れてやって来た灰咲さんが躊躇いがちに口を開いた。
「――ちょっと、タバコ吸ってもいい?」
他人の家でタバコを吸うのは憚れるのか、言いにくそうにしていた。
タバコを吸わない人の家なら余計に言い出しづらいだろうし、無理もない。
「あぁ~、バルコニーでならいいっすよ」
俺はタバコを嫌っているわけではないが、家や本に臭いが染み付くのは勘弁願いたい。
最悪、家に臭いが染み付くのはまだ我慢できる。だが、本の場合は許容できない。ページを捲る度に香る紙の匂いも含めて本の魅力なのに、それが失われたら悲しくて堪らない。
なにより、コレクションを汚されるのが嫌だ。それは誰だって同じだろう。
だから自分の家じゃなければ、隣でタバコを吸われてもまったく問題ない。
「わかった」
喫煙者としての配慮を心得ているのか、灰咲さんは不満を一切漏らすことなく頷いた。
窓を開けた灰咲さんは、彼女にはサイズの大きいサンダルを履いてバルコニーに出ると、パンツのポケットからタバコとライターを取り出す。
慣れた手付きでタバコを咥え、ライターを口元に近づけて火をつけた。
そのままタバコを吸うと、副流煙が先端から漏れ出ていく。
「ふぅ~」
人心地ついたように息を吐く灰咲さんの身体から力が抜けていき、脱力感が強まった。
「まさに一服したって感じですね」
灰咲さんはずっと緊張していただろうし、タバコを吸うことで落ち着くことができたのかもしれない。
「なんかそう言われると恥ずかしいね……」
「そんなにタバコ好きなんですか?」
俺には喫煙者の気持ちはわからないが、好きな人はやっぱりタバコを吸うことで気分が変わったりするのだろうか?
そう思った俺は、苦笑しながら頬を掻く灰咲さんに尋ねてみた。
「いや~、別に好きってわけじゃないんだけどね……」
「じゃあ、なんで吸って……?」
好きでもないのにタバコを吸う理由なんてあるのか?
「私がタバコを吸い始めたのは、元カレへの反抗というか、意趣返しというか……。きっかけはそんな感じだから、好き好んで吸い始めたわけじゃないんだよね……」
「なんでタバコを吸うことが反抗や意趣返しになるんすか?」
「元カレがタバコを吸う女が嫌いだからだね」
確かに元カレさんが嫌うことをやれば幻滅して離れていきそうではある。
「それが今ではすっかり習慣になっちゃって、やめ時を失っちゃったんだよね……」
苦笑しながら肩を竦めた灰咲さんは、スゥ~とタバコを吸う。
「銀髪にしたのも、こういう格好しているのも、全て元カレの好みとは反対の女になろうと思ったからなんだ」
灰咲さんの見た目は、かっこいい感じの女性? と言えばいいのか、同性にモテそうな身形をしている。
パンクほどではないが、バンドマンと言われても違和感はない。
銀色の髪や、近くでじっくり見ないといくつあるのかわからない数多のピアス、タバコ、ダウナー系とまでは行かないが、どことなく暗い雰囲気がある姿など、近寄りがたい印象がある。
好きな人は好きだが、一般的な男ウケは良くないタイプかもしれない。
実際に灰咲さんの元カレさんの好みからは外れているみたいだし。――まあ、俺は結構好きなタイプなんだけど……。
「自分で言うのはなんだけど、昔はもっと清楚で綺麗だったんだよ? それこそ昔は胡坐なんてかかなかったし……」
「当時の灰咲さんが元カレさんの好みだったわけですね……」
女性としては背が高めで、長い手足を備えているスタイル抜群の灰咲さんならどんな格好をしていても似合っているに違いない。しかも顔もめちゃくちゃ整っている。
切れ長の目が特徴で、かわいい系より綺麗系の顔立ちと言えばいいのかな?
昔の彼女を知らないから比べようがないが、正直、俺の好み的には今の灰咲さんのほうが好きかもしれない。
「それが今やこんなヤニ臭い女に……」
ははは、と乾いた笑いを漏らす灰咲さんの姿も妙に絵になっている。
「無理して今の自分を演じてるんですか?」
「う~ん、最初はちょっと無理していたけど、すぐに馴染んだかな。なんだかんだ言って、結構、性に合ってるんだ」
「違和感ないですもんね」
「そう?」
「はい」
今の灰咲さんの印象が強すぎて、以前の姿を想像することができない。
それくらい違和感がないのだ。
「むしろ前のほうが無理してたのかもしれないっていうくらい、今の自分を気に入ってるんだよね」
そう言って気恥ずかしそうに頬を掻く灰咲さん。
「きっかけが元カレっていうのは癪だけど……」
自分のスタイルを確立できた要因には納得できていないのか、灰咲さんは苦虫を嚙み潰した顔で不満を漏らした。
DV男への意趣返しがきっかけだもんな……。
そりゃ素直に現状を受け入れることなんてできないだろう。散々苦しめられた過去は消えないのだから。
「気に入ってるってことは、元には戻さないってことっすか?」
「そうだね。まだ元カレに粘着されてるって知ったから続けるかな」
「あぁ~、偶然会ってしまう可能性もありますもんね……」
「どちらにしろ、気に入ってるからやめる気は元からないんだけどね。少なくとも今は」
「なら、しばらくは今の灰咲さんの姿を見ていられるってことっすね」
今の灰咲さんのスタイルが俺は結構好きだから、もしイメチェンをするなら少々――いや、だいぶ残念なことだった。
DV男のせいで苦労している灰咲さんには申し訳ないが、今のスタイルを継続してくれるのは個人的にかなり助かる。
俺はあんまり女の子って感じの女性が好きじゃないんだよなぁ。
恋愛的な意味でも好みじゃないし、一人の人間としてもあまり得意じゃない。――むしろ苦手だ。
だから俺にとって灰咲さんは接しやすくて、同僚として付き合いやすい人だった。
もちろん、仮にイメチェンしても灰咲さんは灰咲さんだから、接し方や距離感が変わるわけではないけどな。
「おぉ? もしかして獅子原君って、結構、私のこと好きだったりする?」
揶揄うように口元をにやつかせた灰咲さんは、タバコを咥えたままジッと見つめてくる。
「好きですよ」
「え――」
「――女の子らしい女性が苦手なので、灰咲さんみたいなタイプの人は好きですよ」
「……それはどういう意味かな?」
目が点になっていた灰咲さんがジト目に変わった。
「女らしさを捨てた自覚はあるけど、これでも一応れっきとした乙女なんだけどな……」
自嘲気味にそう呟いた灰咲さんは、ふぅ~と白い煙とともに息を吐くと肩を竦めた。
「まあ、恋愛なんて懲り懲りだから女として見られてないのは助かるけど」
別に女として見ていないわけではないんだけど……。
灰咲さんは女性として魅力的だし、異性として意識してしまう時だってある。
世の男が全員、女の子らしい女性が好みってわけではないってことだ。
ぶりっ子とか反吐が出るほど嫌いだしな、俺は……。好みは人それぞれとはいえ、なんでああいう女を好きな男がいるのか理解に苦しむ。
まあ、逆に俺の好みを理解できない人もいるだろうし、お互い様だな。
「灰咲さんの立場ならそう思ってしまうのは無理もないっすよね。美人だからもったいないとは思いますけど」
恋愛するしないは個人の自由だからとやかく言うつもりはないが、彼女ならモテるだろうし、二十代のうちから恋愛を捨ててしまうのは些か惜しい気がする。
恋愛は酸いも甘いも知ることができて人生を豊かにするし、完全に切り捨てなくてもいいんじゃないかな。
それに灰咲さんの場合は〝酸い〟ばかり味わっているから、もっと〝甘い〟味を堪能できる機会があってもいいと思う。
そうじゃないと世の中不公平だ。
「はは、ありがとう。私もまだ捨てたもんじゃないね」
「付き合いたいと思う男は多いと思いますよ」
「……獅子原君も?」
無表情で小首を傾げる灰咲さんの心の内が読み取れない。
試しているのか、揶揄っているのか、はたまた純粋な疑問なのか、果たして彼女の問いにはどのような意味が込められているのだろうか?
「灰咲さんは魅力的な女性ですし、俺の好みのタイプ的に恋愛の対象にもなるので、お互いに気があるなら付き合いたいとは思いますよ。ただ、灰咲さんの事情を知った今は、恋愛とかは抜きにして、一人の友人として接したいと思ってます」
恋愛なんて懲り懲りと言っている人に迫りたくない。
そもそも灰咲さんは男にいい感情を持っていない可能性だってある。
少なくとも灰咲さんが恋愛に前向きにならない限り、俺はそういう対象として彼女を見ることはない。
「ふ~ん、そうなんだ。悪い気はしないね」
灰咲さんは満更でもなさそうに鼻を鳴らすと――
「それに友人としての距離感を保ってくれるのは本当に助かるよ」
安堵するように胸を撫で下ろしながら呟いた。
彼女の様子から胸の内を察することができる。
心底、恋愛なんて懲り懲りだと思っているのだろう。
だからこそ零れた呟きに違いない。
「――さてと、タバコ吸ったし、そろそろシャワー浴びようかな。借りてもいい?」
吸い殻を携帯灰皿で処理した灰咲さんは、少ししんみりした場の空気を変えるようにそう口にした。