第2話 フラグ
◇ ◇ ◇
――これがフラグというやつなのだろうか……?
確かに、来ないでほしいけど、来てほしくもあると言った。
言ったよ? 間違いなく言った。
寸前の会話を忘れるような鳥頭じゃない。
だからって、こんなに早くフラグを回収しなくてもいいと思うんだ……。
せめて別の日にしてほしかった。気が緩んだところに不意打ちを食らうのは心臓に悪いから――。
自分でフラグを立ててしまったとはいえ、最悪な気分だ。家に帰ってのんびり過ごそうと思っていたのに――。
どうやら棗さんも俺と同じ心境だったようで、深々と溜息を吐いている。
しかも、俺たちに不意打ちを食らわせた元凶に、冷たい視線を向けるおまけ付きだ。
生きた人間の温もりを一切感じない屍のような眼差しは、絶対零度と表現するのすら生温いと思えるほどだった。まだ、路傍の石に向ける視線のほうが生気を感じられるかもしれない。
その眼差しを真っ向から受ける形となった、奇襲を仕掛けてきた者は――
「――さあ、一緒に帰ろう」
まったく気にした素振りを見せることなく、平然と空気の読めないセリフを口にした。
爽やかで真面目そうな印象が先立つ見た目の男――大須賀だ。
だが、外面に騙されてはいけない。実際は正反対な性格と言っても過言ではないからだ。
直接顔を合わせるのが二回目の俺でも断言できるほど、性根が腐っている。普段は良い人らしいが、棗さんが絡むと途端にクズ男に成り果ててしまうのだ。
現に今、堂々と彼氏面して姿を現している。この前、棗さんがきっぱりと拒絶したはずなのに――。こういうところが、大須賀の人間性を物語っている。
店を出て、エレベーターに乗ろうとしたところで大須賀に声をかけられた。
仕事が終わった直後に訪れた災厄に、テンションがガタ落ちだ。俺よりも棗さんのほうが辟易しているに違いない。
なんでこの気が抜けたタイミングで……と不満が募るが、おそらく、前回の反省から待ち伏せしていたのだろう。
店に乗り込んだら営業妨害で通報されてしまう。だから、店の外で接触しようという考えに至ったのだと思われる。――まあ、あくまでも当て推量にすぎないから、偶然にもタイミングが重なっただけかもしれないが……。
「……どちら様ですか?」
感情が一切籠っていない冷淡な声色でそう返す棗さん。
本当は無視して通り過ぎたいんだろうけど、きっと敢えて返答したんだろうな……。無視したらキレて余計に面倒なことになりそうだし……。
ただ、「どちら様ですか?」と返したら、煽っていると勘違いされてもおかしくない。
棗さんは煽っているつもりはないんだろうが、結果的に無視したほうが良かったと後悔する羽目にならないことを祈るのみだ。
「……なに言ってんだ? 俺だよ」
棗さんの中では、もう完全に縁を切った赤の他人になっているんだろう。だけど、大須賀は縁を切られているとは露ほども思っていないはず。
あんなにきっぱりと縁を切られたのに、大須賀はそのことを理解していない。だから、棗さんとの間に齟齬が生まれて話が嚙み合わなくなってしまうのだ。
大須賀の能天気具合には、心底呆れ果ててしまう。
ご都合主義的な思考の持ち主を相手にしたら厄介極まりないということが、身に沁みる。
「なにか用ですか?」
棗さんを庇うように前に出た俺は、咄嗟にそう口にしていた。
厄介事をさっさと片付けたいという逸る気持ちがあったからか、やや早口気味になっていたような気がする。
「君に用はない。用があるのはお前だ」
俺のことを興味なさげに一瞥した大須賀は、すぐに棗さんへと視線を向けた。
「話なら俺が聞きます」
「はあ? 君は関係ないだろう」
怒気を孕んだ声の大須賀は、「部外者は引っ込んでいてくれ」と続ける。
苛立ちを隠そうともしない姿に、思わず胸中で冷笑してしまう。
短気すぎるだろ、とツッコミたい気持ちを抑え込んで平静を装った。
「関係あります」
先手必勝!
早速、手札を切ることにする。
出し惜しみする必要はないからな。
「彼女は俺の妻です」
「は……?」
理解が追い付かないのか、大須賀は間抜けな声を漏らす。
呆気に取られているところ悪いが、これで終わりではない。言いたいことをはっきりと言わせてもらう。
「これ以上、彼女に付き纏うなら、夫として見過ごすわけにはいきません」
更に畳み掛ける。
「妻は怖がっていますし、俺も迷惑しています。いい加減、粘着するのはやめてください。さもなければ、然るべき処置を取らせてもらいます」
「……は?」
また間抜けな声を漏らす大須賀だったが――
「――いや、いやいやいやいや」
理解が追い付いたのか、酷く狼狽した。
「意味がわからない! お前は俺の女だろう!? それがなんだ、お前が彼の妻だって!?」
うん、理解していなかったようだ。
いや、正確には、理解はしているが、受け入れられないって感じか。
「そうです。なので、お引き取りください」
端的に、冷淡に要望を伝える。
「――本当なのか!? 本当に結婚してるのか!?」
動揺を抑えきれない大須賀は、縋るような目で棗さんを見つめる。
「うん、本当」
すかさず頷いた棗さんは、煽るような表情を大須賀に向ける。
それだけではなく、棗さんは俺の左腕を抱き締めた。
左腕が彼女の胸に包まれて大変心地好い。
柔らかくて、弾力があって、温かくて、包容力のある感触に、全神経を左腕に注いで堪能したい気分になる。だが、残念ながら、非常に残念ながら、今は鼻の下を伸ばしている場合ではない。
「信じないぞ! 俺は信じない! お前、こいつから離れろよ!」
額に青筋を浮かべる大須賀は、俺から棗さんを引き離そうとする。
だが、そうはさせない。
「彼女に触れないでください」
「お前こそ彼女に触れるなよ! こいつは俺の物だぞ!」
右手を翳して大須賀を制止するが、案の定、引き下がらない。
この男が人の言うことを素直に聞くとは端から思っていない。
「彼女は物じゃないですし、あなたの女でもありません」
本当に棗さんを物扱いするのやめてくれないかな。腹が立つ。
「彼女は俺の妻です」
癇に障ったせいで、つい強めの語気になってしまった。
「部外者はあなたのほうです。理解できましたか?」
「知らねえよ、そんなこと。こいつは俺の物だって言ってんだろ!」
ダメだこいつ。
なにを言っても聞く耳を持たない。
自分にとって都合の悪いことは耳に入らないんだろうな……。




