第3話 手料理
◇ ◇ ◇
自宅に到着した俺は鍵を解錠して扉を開けると、灰咲さんを室内へ案内した。
「――お邪魔します」
先に部屋に入っていた俺は、後に続く灰咲さんに背を向けたまま「狭いですけど、適当に寛いでください」と声をかける。
「ありがとう」
頷いた灰咲さんを置いて部屋の奥に歩を進めると、カーテンを閉めて照明をつけた。
部屋が明るくなると灰咲さんは遠慮がちに室内を一瞥し、「全然狭くないじゃん」と口にした。
俺の部屋は約十一帖だから一人暮らしには十分な広さだが、二人だと少し窮屈かもしれない。
特に俺の場合は物が多いからな……。
本を集めるのが趣味だからどうしても場所を取ってしまうんだ……。
「それに意外と綺麗にしてるんだね。物も整理されてるし」
「俺ってそんなに汚いイメージだったんすか……?」
「――あ、いや、そんなことはないんだけど、男子大学生の一人暮らしと言ったら、なんかこう……乱雑なイメージがあったから……」
申し訳なさそうに言葉を選びながら釈明する灰咲さん。
「まあ、その気持ちはわからなくもないですけど、みんながみんな整理整頓できないわけじゃないですから」
「そうだよね。なんかごめんね……」
「褒め言葉だと思っておくんで大丈夫ですよ」
「褒め言葉のつもりではあったんだけど、〝意外と〟が余計な一言だったね……」
「気にしなくていいっすよ」
俺は頬を掻く灰咲さんを尻目に、冷蔵庫から二リットルペットボトルのほうじ茶を取り出す。
そして棚からグラスを二つ手に取ると、居室に移動してローテーブルの上に置いた。
ソファに腰を下ろしてほうじ茶を二つのグラスに注いだら、灰咲さんに「どうぞ」と促す。
「ありがとう」
俺の後に続いて居室に移動した灰咲さんはカーペットの上で胡坐をかく。
その様子を横目で見ながらほうじ茶を飲んだ俺は――
「晩飯はどうします?」
空腹を訴える腹部に意識を半分持って行かれながら尋ねた。
「……いつもはどうしてるの?」
「自分で作ったり、コンビニで買ってきたり、どっかに食べに行ったり、その時の気分次第っすね」
そう答えると、小首を傾げていた灰咲さんは「……じゃあ」と呟いた。
「私が作ろうか? タダで泊めてもらうのは気が引けるし」
「……いいんすか?」
予想外の提案に目を瞬いた俺は、無意識にそう返していた。
「うん。いいよ」
微笑を浮かべる灰咲さんの顔を見ると、嫌々というよりは、むしろ積極的な印象を受ける。
もしかしたら、お礼をするチャンスだと思っているのかもしれない。
誰だって無償で善意を受けるのは気が引けるだろう。だから灰咲さんがなにかでお返しをしたいと思っても不思議ではない。
それで少しでも彼女の罪悪感が薄れるなら、ここはお言葉に甘えるべきなのではないだろうか?
灰咲さんはお礼ができ、俺は女性の手料理を味わうことができる。
お互いにウィンウィンなのだから断る理由がない。
それにここで彼女の提案を断るのは野暮というものだ。
俺はそんなに空気を読めない男ではないと思っているから、この場での返答は決まっている。
「……なら、お願いしてもいいっすか? 久しく誰かの手料理を食べてないので楽しみです」
「任せて。でも、特別上手いわけじゃないからあまり期待はしないでね。人並みの料理しか作れないから」
「灰咲さんの手料理ならなんだってご褒美ですよ」
「はいはい」
俺の言葉を軽く受け流した灰咲さんが立ち上がる。
「それじゃ、冷蔵庫の中身を見させてもらうね」
「なんでも好きに使っていいっすよ」
普段から時間さえあれば料理しているから食材や調味料は揃っている。灰咲さんが食材に困ることはないはずだ。
「私が作ってる間にお風呂でも入って来たら?」
冷蔵庫の中を物色しながらそう口にする灰咲さん。
「俺だけ寛いでいいんすか……?」
「もちろん。ここは獅子原君の家なんだから」
「まあ、そうなんですけど、人に飯を作らせておいて自分だけのんびりするのは気が引けるっていうか……」
これが友達や彼女の言葉だったら遠慮なくお言葉に甘えるのだが、ただの同僚にすぎない灰咲さんだと申し訳なさが募る。
同僚の中では親しいほうだとはいえ、友達ほどの関係値はないのだからさすがに気を遣う。
「あまり気を遣われるとお邪魔してる私のほうが申し訳なくなるから、遠慮しないでいつも通り過ごしてくれると助かるんだけど……」
確かに灰咲さんの立場だと家主に気を遣われるのは居心地が悪いかもしれない。
自分のせいで家主が寛げないと思ったら罪悪感が押し寄せてくるからな……。それだと灰咲さんの心が休まらないか……。
この場ではいつも通り過ごすのが、正しい気の遣い方なのかもしれない。
「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えてシャワー浴びて来ます」
さすがに今から風呂を沸かして入る時間はない。
その間に飯ができてしまうだろうから、ささっとシャワーで済ませて出来立ての手料理を味わうとしよう。
まあ、俺はそもそもシャワー派だから風呂に浸かること自体あまりないんだけどな。
「うん。行ってらっしゃい」
灰咲さんのその言葉を背に受けながら着替えを手に取った俺は、浴室へ足を向けた。
◇ ◇ ◇
「――ごちそうさまでした」
灰咲さんの手料理を堪能して満足感に包まれた俺は、「美味かったっす」と素直な感想を告げる。
「そう?」
「はい」
「なら良かった」
小首を傾げた灰咲さんに対してすかさず首肯すると、彼女は微笑を浮かべた。
灰咲さんが作ってくれた、肉じゃが、厚焼き玉子、味噌汁、白米の組み合わせは本当に美味かった。味付けは俺好みだったし、量もちょうど良かった。
家庭の味と言えばいいのだろうか?
実家を思い出すような懐かしさを感じる味付けで、妙に落ち着いた。
なにより、手際が良くてそれほど待つ必要がなかったのがありがたかった。
シャワーを浴び終えた後、少ししか待たなかったからな。
むしろ、その待ち時間でのんびりと過ごすことができた。
シャワーを浴び終えた後にすぐ飯を食うのってなかなか大変だからね。気分的にも体力的にも。
だから少し休めたことで食欲が増して、灰咲さんの手料理をより楽しむことができた。
そうやって俺が灰咲さんの手料理に大変満足していると――
「食べ終わったら洗うから、そのままでいいよ」
灰咲さんは空になった食器に目を向けながらそう口にした。
「いや、それくらい自分でやりますよ」
洗い物くらい自分でできるし、そこまでお世話になる気はない。
そもそも手料理を振舞ってくれただけで充分お礼になっている。
「いやいや、私がやるよ」
迷惑をかけているという自責の念があるからか、灰咲さんは引き下がろうとしない。
俺はそんなに気を遣わずに自分の家のように過ごしてもらって構わないのだが、お邪魔している身としてはそう簡単に割り切れないのだろう。
まあ、遠慮なく付き合えるほど親しいわけでもない、ただの同僚なんだから無理もないか。
かと言って、俺が気を遣っても灰咲さんが申し訳なくなる、と本人に言われてしまったから、彼女の望むようにしてあげたほうがいいのかもしれない。
でも、別に気を遣って自分でやると言っているわけじゃないんだよな……。
皿洗いはいつも自分でやっていることだし、子供じゃないんだから他人任せにする理由もないし……。
だったら――
「なら一緒にやりましょう」
決して譲らないという意思を込めた強い眼差しで灰咲さんを見つめた。
どちらかに任せないで二人でやれば済む話だ。
灰咲さんは自分一人でやりたいのかもしれないが、俺も彼女に任せっきりになるのは居た堪れない。だから妥協点として提案させてもらった。
「……それなら、うん、わかった」
俺には譲る気がないと悟ったのか、灰咲さんは不承不承ながら頷いた。
これ以上、灰咲さん一人に任せる気はないから、申し訳ないけど俺の提案を押し通らせてもらった。
俺が本気で言えば灰咲さんは断れないとわかっているのに無理を押し通すのは卑怯かもしれない。だが、彼女の弱みに付け込んで厚意に甘んじるのは我慢できなかった。
俺の妥協案に灰咲さんが渋々ながらも納得してくれたのは、これ以上押し問答を続けても時間と労力の無駄だと判断してくれたからだろう。
きっとそうだ。そうに違いない――と彼女の意思を無視して提案を押し通した事実を正当化する俺であった。