第6話 初夜
◇ ◇ ◇
帰宅後、晩飯やら風呂やら、やることを一通り終えた俺たちは、いつもと変わらない日常を過ごしていた。
結婚したからといって、なにか特別なイベントが起こることはない。
いつもと違ってどことなく緊張感があるような気はするが、ただの半同居人でしかなかった相手と突然結婚したら、誰だって平常心ではいられないだろう。
それに、この緊張感は意外と悪くない。――むしろ、心地好いくらいだ。
未来への期待と不安が入り混じった感情は、今しか味わうことができない。
今後も夫婦関係が続いていくなら、そのうち慣れて当たり前の日常になってしまう。
だからこそ、今のどことなくぎこちなさがある状態を大事にしたい。どんな些細なことにも幸せを感じる家庭にしていきたいから――。
「――密君、私、タバコやめたほうがいい?」
窓を開けたままバルコニーでタバコを吸っていた棗さんが、唐突に尋ねてきた。
未来への展望に思いを馳せていた俺は、脈絡のない問いに意表を突かれて「……なんですか?」と聞き返してしまった。
「私、タバコやめたほうがいい?」
幸いにも、棗さんに気分を害した様子は見受けられなかった。
「やめたいんですか?」
「密君はあまりタバコ好きじゃないみたいだし、これから完全に生活拠点をこっちに移すことになるから、やめたほうがいいのかなって思ったんだけど……」
あぁ、なるほど。
確かに今まではタバコを吸う度にバルコニーに移動していたけど、それはあくまでも半同居状態だったからお互いに納得していたことだ。
生活拠点が我が家に移ったとしてもバルコニーで吸えば済むかもしれないが、毎回はさすがに面倒だろう。
その場でパッと吸えたほうが楽だろうし、うちはベランダじゃなくてバルコニーだから雨の日は出られないのも悩みどころのはず。
それに棗さんからしたら、一緒に住む相手が喫煙者なのは俺が嫌がるかもしれないという懸念があるのだろう。
「無理にやめなくてもいいですよ? 本に臭いが移らない限りは気になりませんし」
別にタバコ自体が嫌いというわけじゃない。本に臭いが移るのが嫌なだけだ。
個人の趣向に苦言を呈するほど嫌悪しているわけではない。
「まあ、健康面を考慮するならやめたほうがいいとは思いますけど」
「それはそう」
不健康だという自覚はあるようで、棗さんは苦笑する。
「いつか密君との赤ちゃんができるかもしれないしね」
先程とは打って変わって、揶揄うように口元をにやつかせる棗さんは、自分の腹部を撫でながらそう口にした。
「――っ!? き、気が早いっすよ」
棗さんの揶揄いが見事にクリティカルヒットした俺は、動揺を完全に隠すことはできなかった。
思いっきり吃ってしまったし、今さら取り繕うのは手遅れだ。諦めて棗さんに揶揄われることにします……。
「――そ、そういえば、棗さんの自宅はどうするんですか? 解約しないと家賃もったいなくないですか?」
居た堪れなくなって咄嗟に話を逸らしてしまう。
揶揄いから逃げるための問いだが、元から気になっていたことだ。
「今はまだダミーとして残しておくつもり」
やや強引に話を逸らされても気にした素振りを見せない棗さんは、考える間もなく答えてくれた。
「こっちに気づかれたら困るからね」
「なるほど。確かにそれがいいですね」
大須賀は棗さんの自宅を突き止めている。なので、当然そっちに住んでいると思うだろう。
向こうに気を取られてくれていれば、棗さんはこっちに安心して帰って来られるはず。囮として活用するのはなかなか賢い。
「問題が片付くのが遅れるほど、住んでない家に家賃を払い続けることになるけどね……」
それはもったいないから、なるべく早く解決するといいな……。
棗さんが肩を竦めてしまうのは無理もない。
「――そろそろ寝ようかな」
タバコを吸い終えた棗さんはそう呟くと、室内に移動して窓を閉めた。
「今日はいろいろあって疲れたし」
今の時刻は二十二時半を過ぎた辺りだ。
まだ寝るには早い時間だが、棗さんは睡魔に襲われているようだ。
精神的に疲れることがあったわけだし、眠くなって当然だ。――まあ、その元凶は俺なんですけどね。普通に考えて、いきなりプロポーズするとか意味わからんし。
「今日から一緒に寝る?」
「あぁ~、どうしましょうか……」
棗さんは俺の家に来ずに自宅に帰ることもあった。なので、俺は毎日ベッドを譲ってソファで寝ていたわけではない。
今までは、棗さんがうちに泊まる際は俺と交互にベッドを使っていた。昨日は俺がベッドで寝たから、今日は棗さんが、という具合に。
「もう夫婦になったんだし、一緒に寝るのが自然じゃない?」
まったくもってその通りなんですが、俺たちの場合は普通の夫婦とは事情が異なるからなぁ……。
「なんなら、する?」
「な、なにをっすか……?」
「えっち」
「……はい?」
「セックスだよ」
「――いや、言い直さなくてもちゃんと伝わってますよ」
「反応が鈍いから伝わってないのかと思った」
「伝わってるから一瞬思考停止してしまったんすよ」
同じ状況になったら誰だって似たような反応をするはずだ。
もしかしたら肉食系男子なら喜び勇んで飛びつくのかもしれないが、俺はそんな節操なしじゃないから戸惑いが先行してしまう。
「夫婦なんだし、普通じゃない? しかも新婚だよ? 結婚初夜だよ? 一番盛り上がる瞬間じゃない?」
――そうでした! 俺たち結婚したんでした!! 夫婦になったんでした!!!
「……非常に抗いがたい魅力的なお誘いですが、俺たちの場合は今じゃない気がします」
普通の夫婦なら棗さんの言う通り一番盛り上がるタイミングなのかもしれない。
だが、俺たちの場合はもっと相応しいタイミングがあるはずだ。
「抱えている問題が解決して、互いに想いが通じ合い、形だけじゃない夫婦になれた時が、俺たちにとっての本当の初夜だと思います」
少なくとも、棗さんが俺のことを恋愛的な意味で好きにならない限りは、身体を重ねる気はない。
弱みに付け込んだり、形だけの夫婦なのに建前を振り翳して迫ったりするような趣味は持ち合わせていないからだ。
身体だけ重ねても、心が通じ合っていないなら意味がないしな。
だから今は時期尚早だ。
「……私たちには私たちのペースがあるもんね」
納得したように頷く棗さん。
「でも、一緒に寝るくらいはいいでしょ?」
「それくらいなら、まぁ、いいですよ」
棗さんとしては、俺をソファで寝させたくはないのだろう。かといって、自分がソファで寝ると俺が気を遣うとも思っているはず。
だったら一緒にベッドで寝れば、お互いに気を遣わずに済む。そう思って、一緒に寝ようと口にしたのだろう。夫婦になったというもっともな口実ができたのも相まって。
「ただ、無理に距離を縮めようとしたり、夫婦を演じようとしたりしなくてもいいんですよ」
結婚から始める恋愛に真剣に向き合うために、棗さんは勇み足になっているのではないか、という懸念があった。
「別に無理はしてないよ?」
取り繕った様子のない自然な微笑みを浮かべる棗さんの姿から察するに、気を遣っているわけではなく、本心なのだろう。
杞憂だったと安堵して気が抜ける。
「だって、密君に抱かれる準備はできてるから」
「え――」
それって……どういう……。
くそっ、気が抜けていたから脳の働きが鈍っている。
「――それじゃ、歯を磨いてくるね」
予想外の言葉に呆気に取られている俺を放置して、艶笑を浮かべる棗さんは洗面所に足を向けた。
情欲をそそるような婀娜っぽい表情が脳裏に焼き付いて離れなかった――。




