第2話 帰路
◇ ◇ ◇
「――お待たせしました」
退勤して足早に屋上へ移動した俺は、目当ての人物を見つけると歩み寄ってそう声をかけた。
「おつかれさま」
夜風に当たりながらタバコを吸っていた女性――灰咲さんが振り返る。
「よくここにいるってわかったね」
「休憩室にいなかったので、灰咲さんならここかなと思いまして……」
「ちょっとタバコ吸いたくなってさ。わざわざここまで来させちゃってごめんね。すぐ戻るつもりだったんだけど……」
苦笑しながら頭を掻く灰咲さんに、俺は「いえ、大丈夫っすよ」と返す。
俺たちのバイト先は八階建ての複合商業施設の六階と七階に入っている書店だ。
なので二階分の移動が必要だったが、エレベーターで来たから大した手間ではなかった。
「こうして見ると東京ってほんと都会だよね……。吉祥寺でこれなんだから」
照明で光り輝く街並みを遠い目で見下ろす灰咲さんが感慨深げに呟く。
「そうっすね……。田舎者の俺には眩しいです」
「獅子原君の地元は北海道だっけ?」
「北海道の東川町です」
「聞いたことはあるけど、どんなところかはわからないな……」
「移住先として人気で人口は増えてますけど、なにもないところですよ」
「へぇ~、いつか行ってみたいな」
東川は地下水だから蛇口を捻れば美味い水が飲めるし、山、湖、畑がある自然豊かな町だ。日本の家具五大産地の一つに数えられている旭川市と隣接しているから、家具も結構有名だったりする。
旭川の中心部には車で二十分から三十分くらいで行ける。だから生活に困ることもない。――まあ、東川だけでも十分生活できるが。
そんな場所で生まれ育ったからか、俺には東京が別世界のように感じられる。
今は大学に通っているからこっちで暮らしているが、いつかは地元に戻りたいと思っている。
なんと言っても地元は空気が美味いからな。東京に来るまで空気が不味いなんて思ったことなかったし……。
「……灰咲さんは地元に帰りたいって思ってるんすか?」
地元のことを思い返して望郷の念に駆られたらか、ふと尋ねていた。
「う~ん、どうだろ……。そこまで地元愛が強いわけではないけど、こっちに来た理由が理由だから親は心配しているだろうし、気軽に帰れないのはもどかしいかな」
そう言って肩を竦める灰咲さんからは哀愁が漂っている。
「静岡は静岡でいいところなんだけどね。海も山もあるし、ほどよく都会で、ほどよく田舎だから」
やっぱり、地元が恋しいのかな……?
地元愛が強くないとは言っても、望んで離れたわけではないから寂しさはあるのかもしれない。
少なくとも、「いつか帰れるといいですね」なんて無責任なことは口にできない。
その点、タイミングさえ合えば地元に帰れる俺は恵まれているんだな……。
「――それじゃ、行こっか」
タバコを吸い終えた灰咲さんは吸い殻を携帯灰皿で処理しながらそう口にした。
そんな彼女の顔や仕草から胸の内を読み取ることはできなかった。
気丈に振舞っているのか、本当になにも気にしていないのかはわからない。
だが、本来なら味わわなくていい境遇に追いやられているのだから、きっと複雑な心境だろう。
そう思うと、一般的な大学生として生活できている恵まれた自分との違いに、無性に心が痛くなった――。
◇ ◇ ◇
「――電車、乗らないんだね」
吉祥寺駅の北側から南側へ移動したタイミングで灰咲さんがそう呟いた。
「乗ってもいいんですけど、徒歩圏内なんでいつも歩いてます」
「そうなんだ」
「まあ、井の頭公園駅からのほうが近いんですけどね」
「じゃあ、吉祥寺駅と井の頭公園駅の中間辺りに家があるんだね」
どちらかと言えば井の頭公園駅寄りだが、吉祥寺駅からでも距離は大して変わらない。
「バイト先から近くていいね」
「近場で選んだので」
元々書店でバイトがしたかったから、徒歩圏内で求人を見つけられたのは運が良かった。
「獅子原君のバイト先を選んだ私の選択は正しかったよ。当時の自分を褒めたいくらい」
「……なんでですか?」
「こうして頼れる相手と出会えたから」
話の流れ的に俺に気があるからとか、そういうのを少しだけ期待してしまったが、恥ずかしいことに全然違った。
まあ、でも、頼れる相手だと思ってくれているのは男冥利に尽きる。
「こうして誰かと一緒に帰れるのは安心するしね」
「一人でいる時に元カレさんに会ったら怖いっすもんね……」
小さく笑みを零す灰咲さんに、俺は苦笑を返す。
「情けないことだけど、もし元カレと遭遇したら足が竦んで逃げることすらできないかもしれない」
「別に情けなくなんかないっすよ。誰だってトラウマに直面したら足が竦みますもん。それでも勇気を振り絞って逃げた灰咲さんを俺は尊敬しますよ」
俺には身が竦んでしまうほどのトラウマはないが、もし灰咲さんと同じ立場になったら立ち向かえたかはわからない。
恐怖で心を縛られると思うように身体が動かなくなるのは想像できるから、逃げ出すことすらできずに怯える日々を過ごしていたかもしれない。
仮に逃げようと思っても、逃亡後に見つかってしまったらどんな仕打ちを受ける羽目になるのだろうと想像してしまい、萎縮してしまうだろう。勇気を振り絞っても足が竦んで実行に移れないことだってあるはずだ。
それでも灰咲さんは逃げて来たのだから、心の底から尊敬する。地元での生活を全て捨ててまで逃げて来たのだから尚更だ。
「ふふ、ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ」
屈託がないは言いすぎかもしれないが、灰咲さんはどことなく晴れやかな印象が垣間見える表情になった。
頬が緩んでいても抜けきらない哀愁が漂う表情に思わず見惚れてしまう。
彼女の整った顔立ちも相まって、外灯に照らされる姿が幻想的で、映画のワンシーンのような美しさがあると思ってしまうのは不謹慎だろうか……?
灰咲さんの境遇を思うと、見惚れてしまう自分の低俗さに情けなくなる。
それとも、これが男の性というやつなのだろうか……?