第5話 合鍵
◇ ◇ ◇
帰宅後、夕食を済ませた俺たちは、テレビを観ながらのんびりと過ごしていた。
灰咲さんは帰宅途中に寄ったコンビニで買った缶ビールを飲んでいる。その姿には自宅で過ごしているような脱力感がある。
「――今日で泊めてもらうの二回目なのに、なんか自分の家にいるような感覚になるよ」
缶ビールをローテーブルに置いた灰咲さんはしみじみと呟く。
「なぜか妙に落ち着くんだよね……」
「最近は精神的に張りつめてることが多いでしょうし、うちにいると安心できるんですかね?」
元カレに見つからないかと戦々恐々としている日々だろうし、ボディガードになる男がいると多少は不安が和らぐんじゃないかな。
俺がどれだけ頼りになるのかはわからないが、落ち着ける場を提供できるだけでも役に立てているはずだ。
「獅子原君の家が元カレにバレてないから安心できるっていうのもあるんだけど……」
灰咲さんはそこで言葉を区切ると、テレビに向けていた目線を俺に向け――
「泊めてもらっているのが、一緒にいるのが、獅子原君だからこそなんだよ」
見つめながらそう口にした。
「……そ、そ、そうなんですか?」
予想だにしない言葉に驚いて吃ってしまったが、なんとか最後まで言い切ることができた。
「そうだよ? どこでもいいわけでも、誰でもいいわけでもないんだよ」
「……灰咲さん、酔ってます?」
「……酔ってるのかもしれない」
自分のセリフを思い出して恥ずかしくなったのか、膝を抱えると、そこに顔を埋めてしまう。
だが、すぐに少しだけ顔を上げで目元をあらわにすると――
「でも本心だから、それは勘違いしないでね」
そう付け加えた。
「……はい」
なんだこれ……かわいすぎないか……?
年上の女性がデレるとこんなに破壊力があるのか……。
しかも普段クールな人だからギャップがあって余計に威力がある。
酔っているせいか妙に艶っぽいのに、少女のような可憐さも合わさって男心を擽られてしまう。
灰咲さんの事情を知らなかったら、危うく恋に落ちていたかもしれない。
理性が働いているから過ちを犯すことはないが、今の灰咲さんは魅力的すぎて目の毒だ。
灰咲さんの元カレは、なんでこんなにかわいい人に暴言を吐いたり殴ったりできるのだろうか……? いったいどういう精神構造をしているのか……。
心の底から不思議でならない。――まあ、理解したくもないが。
理解できたら俺も同じ穴の狢ということになるからな……。
本当に、なんとしてでもこの人のことを元カレの魔の手から守りたい。――そう思うくらいには、彼女に入れ込んでしまっている。
恋愛感情とは違う。
自分でも上手く言葉にできない感情だ。
灰咲さんが〝特別な存在〟なのは自覚しているが、この感情がどういう類のものなのかは自分でもわかっていない。
同情なのか、好意なのか、善意なのか、偽善なのか、下心なのか。
答えは出ないが、人を助けることに理由なんて必要ない。
困っている人がいたら助ける。それが一番人間らしい行動原理だと思う。
そう結論づけることで、灰咲さんに対する感情の正体について考えるのは一旦保留にする。
今なによりも大切なのは、なぜ灰咲さんを守りたいのか、ではない。
どうやって灰咲さんを守るのか、だ。
根本的な解決にはならないが、一時凌ぎする方法なら一応考えてある。
問題は、灰咲さんが受け入れるか否かだ。
「そんなふうに思ってくれているなら――」
そう口にしながら立ち上がった俺は、テレビの前に移動する。
片膝をついてテレビ台の引き出しを開けると、目的の物を手に取った。
そして元いた場所――灰咲さんの隣――に戻る。
「――灰咲さん」
「ん?」
首を傾げる灰咲さんに「手、出してください」と伝えると、彼女は不思議そうにしながらも素直に手の平を差し出してくれた。
「これ、渡しておきます」
持っていた目的の物を灰咲さんの手の平に載せる。
「これは――」
一瞬だけ目を見開いた灰咲さん。
おそらく、渡された物がなんなのかを理解して驚いたのだろう。
「――合鍵です」
「……だよね」
端的に物の正体を告げると、灰咲さんは困惑しながらも頷いた。
「自分の家に帰れない時は、いつでもうちに来てください。俺がいない時でも自由に出入りしていいので」
「……いや、さすがに受け取れないよ」
恋人でもない男からいきなり合鍵を渡されても困るだろう。むしろ、怖いかもしれない。灰咲さんの反応は至って当然だと思う。
「迷惑なら受け取らなくてもいいですけど、そうじゃないなら貰ってくれると助かります」
「迷惑じゃないよ。迷惑なわけがない。むしろ助かるし、嬉しいけど、彼女でもないのに受け取れないっていうか……」
「遠慮する理由がそれなら気にしなくいいので受け取ってください」
「……獅子原君って意外と押しが強いんだね」
「灰咲さんのためでもあるんですけど、俺のためでもあるので受け取ってほしいんですよ」
「そうなの?」
「正直言うと、灰咲なんのことが心配でなにも手が付かないんですよ。だからそれを受け取ってくれると多少は気掛かりが解消されるので、俺を助けると思って貰ってください」
灰咲さんが持っている鍵をチラリと見た俺は、本心を正直に伝えた。
いつでも避難できる場所があれば灰咲さんは助かるだろうし、俺も不安を解消できる。だから合鍵を渡すのは一石二鳥なのだ。
「……その言い方はズルいよ。そんなふうに言われたら断れないじゃん……」
口ではそう言う灰咲さんだが、満更でもなさそうに口元が緩んでいる。
「助かるのは事実だし、ありがたく貰っておくね」
「自分の家だと思って好きに使ってください」
「うん。ありがとう」
灰咲さんは貰った鍵をバッグにしまうと、「……でも」と呟いた。
「貰っておいてこんなこと言うのはなんだけど、そんな簡単に合鍵を人に渡しちゃダメだよ」
「別に簡単に渡してないですよ」
「そう? 安易に人を信用すると、いつか痛い目を見るよ?」
諭すような口調の灰咲さんが心配そうに見つめてくる。
「灰咲さんだから渡したんですよ。誰にでも渡すわけじゃないですし、俺はそんな簡単に人に心を開くタイプでもないですよ」
まあ、自分で勝手にそう思っているだけなので、もしかしたら実際はチョロい可能性もあるのだが。
「私だから?」
「灰咲さんが〝特別〟ってことです」
「特別ねぇ……。まあ、確かに私は特別な身の上ではあるけど」
「そういう意味の特別じゃないですよ」
「じゃあ、どういう意味?」
「それは自分でも良くわかってないんですよね……」
俺が苦笑しながら頭を掻くと、灰咲さんは「なにそれ」と呆れ交じりに相好を崩す。
「まあ、でも確かに私にとっても獅子原君は特別かもしれないね」
「そうなんですか?」
「うん。今の私たちって不思議な関係じゃない?」
「確かに」
恋人でも夫婦でもないのに合鍵を共有している間柄だしな……。
友達だけど、そもそも助けてもらう側と助ける側として繋がった関係だ。
同性なら合鍵を共有したり、家に泊めたりすることはままあることかもしれない。むしろ、泊めるのは良くあることだろう。
だが、俺と灰咲さんは男と女だ。
しかも元々親しかったわけではない。あくまでも、割と親しいバイト仲間にすぎなかった。
そんな俺たちが合鍵を共有することになった。二人の関係がただのバイト仲間から友達に変わって日が浅いにも拘わらずだ。
普通なら有り得ないことだろう。
ある意味、〝特別〟と言えるかもしれない。
「これってつまり、同棲ってことでしょ?」
唇の端に揶揄うような笑みを浮かべる灰咲さんの視線が突き刺さる。
「そういうことになるんですかね? どちらかというと同居だと思いますけど……」
同棲か……。
それはそれでなかなか心が躍るワードではある。
でも俺たちは恋人じゃない。
だから同居が正しいだろう。
「私が居候させてもらうっていうのが一番正しい表現か」
「まあ、灰咲さんがどのくらいうちに来るのかにもよりますけどね」
自宅に帰れない時だけ来るのか、それとも生活の拠点をこっちに移すのか、灰咲さんがどのように合鍵を使うのかによって変わる話だ。
「気づいた時には入り浸ってるかもね」
「灰咲さんがそうしたいなら俺は一向に構わないっすよ」
「いや、さすがに冗談だって……。そんなに図々しくないよ……」
灰咲さんの冗談を真っ向から受け止めると、彼女は困ったように愛想笑いを浮かべた。
「俺は冗談じゃなくてもいいって思ってるってことですよ」
「そ、そっか……。獅子原君って天然誑しの気があるよね……」
気圧され気味に頷いた灰咲さんだったが、後半部分はもごもごと呟いていてほとんど聞き取れなかった。
なんて言ったのか気にはなるものの、はっきりと口にしなかったのにはなにか理由があるのかと思うと、聞き返していいのか迷ってしまう。
どうしたものか……と逡巡していると、灰咲さんが「まあ、その……」と気持ちを切り替えるように呟いて居住まいを正した。
「合鍵を貰った〝特別〟な関係ってことだし、改めてこれからよろしくね」
吐息交じりにそう口にした灰咲さんが妙に色っぽくて、一瞬見惚れてしまった。
ただ色っぽいだけじゃない。そこらの男には見せないだろう喜色を滲ませた表情だ。
婀娜っぽいのに、可憐でもある。それでいて彼女の特徴でもあるクールな一面もしっかりと残っている。
相反するはずの魅力が同居し、自然と視線が吸い寄せられてしまう。
誰が見ても今の灰咲さんは美しいと思うはずだ。
少なくとも俺は、この世のなによりも美しいと思った。
だが、そんな心情はおくびにも出さない。
俺は平静を装いながら、「こちらこそ」と返すのに努めた。




