第1話 ワケあり
今日もいつも通りの一日になると思っていた。
大学に行って、書店のバイトに精を出して、家に帰ったらパソコンで動画か配信を観ながら飯を食って、読書して、課題をやって、翌日のスケジュール次第で寝る時間を決める。
そんな代わり映えしない一日になるはずだった――。
「――ねぇ、獅子原君。今日、泊めてくれない?」
仕事中の俺に、店内から客の姿が見当たらなくなったタイミングでそばにやってきた同僚の女性――――灰咲棗さんが遠慮がちに声をかけてきたことで、いつもと変わらない一日になるはずだった日常に変化が訪れた。
「……それ、マジで言ってます?」
ライトノベルの棚を整理していた俺は、予想だにしない言葉に手を伸ばした状態で固まってしまう。
持っていた本を手放さなかった自分を褒めたいくらいだ。危うく商品を落として傷つけてしまうところだった。
「うん、マジ」
「脈絡なさすぎません……?」
本来なら女性に泊めてと言われるは俺も男なので悪い気はしない。だが、如何せん唐突すぎて身構えてしまう。
彼女との関係は、ただのバイト仲間だ。
友達でもなければ、恋人でもない。
同性でもなければ、同い年でもない。
バイトで一緒になることが多いから同僚の中では割と親しいほうではあるが、あくまでも仕事上での付き合いしかない。
たまにタイミングが合えば仕事仲間として昼飯や晩飯を共にすることはある。プライベートでの交流はそれくらいだ。――昼休憩や退勤後の話だからプライベートと言えるかは些か疑問だが。
彼女がいつも真面目に働いている姿を見ているし、ある程度は交流があるから為人は知っているつもりだ。
だから別に警戒しているわけではない。
とはいえ、家に泊めるほどの関係ではないからさすがに身構えてしまう。しかも相手が女性なら尚更だ。
「本当はホテルかネカフェに泊まるつもりだったんだけど、獅子原君とバイト一緒になったから試しにお願いしてみようと思ってさ。節約したいし」
「……そもそもなんで外泊する必要があるんすか?」
当然の疑問をぶつけると、灰咲さんは苦笑気味に「あ~、それはね……」と口籠った。
「自分の家に帰ればいいじゃないですか」
「いや、まあ、それはその通りなんだけど……」
俺の疑問に満ちた視線を真っ向から受け止めた灰咲さんは閉口してしまう。
困ったように眉尻を下げる彼女の表情から察するに、なにか事情があるのかもしれない。
「……なんかワケありっすか?」
そう尋ねると、灰咲さんの瞳から光が消えた。
「……やっぱり、ちゃんとワケを話すのが筋だよね」
どうやら気軽に踏み込んではいけないことだったようだ。
彼女の覇気のない諦念に満ちた顔を目の当たりにした俺は、無意識に「いや、嫌なら無理にとは言わないっすけど……」と口にしていた。
「あまり気持ちのいい話ではないんだけど、私が東京に来たのにはワケがあるんだよね」
灰咲さんは淡々と言葉を紡ぐ。
「元々地元の静岡で働いてたんだけど、当時付き合っていた元カレが酷いDV男で、それに耐えられなくなって一方的に別れを告げて夜逃げしてきたんだ」
内容的には恐怖や苦痛などの負の感情が表出してもおかしくない場面だ。だが、灰咲さんの表情や口調からは感情が一切漏れ出ていない。強いて言えば、諦念のようなものが感じ取れるくらいだ。
クールな人なので元から感情豊かではないが、いつも以上に感情の起伏が乏しい。無感情が一番しっくりくるほどだ。
無感情こそが、彼女が元カレに抱く気持ちなのかもしれない。
「殴る蹴るは当たり前で、言葉の暴力も酷かった。怖くなるほど嫉妬深くて、異常な束縛を強要される。私の意思や都合なんてお構いなしにね」
うん。想像以上に重たい話だった……。
「そんなカレから解放されたくて逃げてきたんだけど、最近、私が東京にいるってことがバレたみたいなんだよね……」
「その元カレさんは、別れた相手のことを探していたってことですか……?」
「私が一方的に別れるってスマホでメッセージを送っただけだから、元カレは認めてないってことなんだろうね……」
深々と溜息を吐いて肩を竦める灰咲さん。
「なるほど……」
まあ、確かにいきなり別れを告げられてもなかなか受け入れるのは難しいかもしれない。直接ではなく、メッセージで言われると余計に納得がいかないだろう。
しかも、その後に行方がわからなくなったら焦るに決まっている。
自分に非があると自覚していなかったら心配になるだろうし、行方を探すのは当然かもしれない。
「それで昨日、元カレが私のアパートに来ているところを目撃してしまったんだよね……」
「あぁ~、完全に居場所がバレてしまったんすね……」
「だから昨日はネカフェに泊まったんだ」
それは自分の家に帰れないよな……。
もし遭遇してしまったらどうなるかわからないし……。
一つ確実に言えるのは、灰咲さんにとっては良くない結末になるってことか。
「なんと言うか、元カレさんのことを悪く言うのは申し訳ないですけど、執念深くて怖いっすね……」
「本当のことだから気にしなくていいよ」
「完全にストーカーじゃないっすか」
「まあ、ストーカー気質なのは元からなんだけどね……」
「えぇ……。それは逃げて正解ですよ……」
振られたショックでストーカーになったんじゃないのかよ……。
マジでやばい奴じゃん……。
いや、まあ、だからこそDVを働くような男だったのか……。
「だから泊めてくれたら助かるんだけど、やっぱりダメかな?」
両手を合わせながらお願いしてくる灰咲さんは上目遣いしているように見えるが、単純に身長差のせいであって、彼女にはまったくそんなつもりはないんだろうな。灰咲さんはサバサバしていてあざといことをするような人じゃないから。
「もちろん、無理にとは言わないけどね。獅子原君に彼女さんがいたら申し訳ないし」
「いや、彼女はいないのでその心配はいらないですけど……」
「そっか、なら良かった」
「彼女の有無を気にかけてくれるのはありがたいっすけど、否定する身としてはちょっと複雑ですね……」
「はは、ごめんごめん」
小さく頬を緩ませる灰咲さんの姿を目の当たりにすると、このまま放っておくのは気が進まない。
もし彼女の頼みを断って元カレと遭遇するようなことがあったら、良くない結末になる可能性が高いだろう。それがわかっているからこそ、万が一のことがあったら目覚めが悪い。
そもそも俺は灰咲さんのことが同僚としても人としても好きだ。
だから不幸にはなってほしくない。できることなら笑っていてほしい。
元々クールで感情が面に出るタイプではないからこそ、彼女の笑顔には価値がある。
付き合ってもいない女性を家に泊めるのは如何なものか? と首を傾げたくなるが、子供じゃないんだからそれくらい問題ないだろ、と思う自分もいる。
だが、事情が事情だ。
せっかく頼ってくれたのだから、同僚として、男として手を差し伸べるべきではないだろうか?
「……そういう事情ならうちに来てもいいですよ」
「ほんと? ありがとう。助かるよ」
ホッとして胸を撫で下ろす灰咲さんの表情が一段と緩む。
平静を装っているけど、きっと内心では不安でいっぱいだったんだろうな。
元々クールなのもあると思うが、仕事中なのも相まって気丈に振舞っていたに違いない。
「それじゃ、バイトが終わったら声かけます」
「わかった。待ってるね」
頷いた灰咲さんは胸の高さで小さく手を振りながら自分の持ち場に戻っていく。
不意に訪れた非日常に翻弄された俺は、去っていく彼女の背中を漠然と眺めることしかできなかった。
この時はまだ、俺――獅子原密の人生にまで影響を及ぼす出来事になるとは微塵も思っていなかった。
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