7 平和な日常
春の陽は、窓辺のカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
薄桃色のレースが朝の光を受けてほのかに揺れ、その隙間から漏れる金色の粒が、ベッドに横たわる少女の髪を静かに照らす。
つぐみは、まだ夢の中と現実のあわいにいた。
ぬくもりに包まれた布団の中、指先だけをゆっくり動かしながら、眼差しだけをゆっくり開いていく。
室内には目覚まし時計の柔らかな秒針音と、小鳥のさえずりだけが響いていた。
「……んー……あったか……」
つぶやくような声と共に、つぐみは毛布の中で丸まった。
肌に触れる感触が心地よく、頬にあたるシーツの冷たさが、わずかに春の訪れを知らせていた。
今日も異世界へ引っ張られなかったことに、まずは心から感謝する――そんな朝。
ベッド脇のサイドボードには、昨日飾ったばかりの感謝状が額縁に収められていた。
その横には、なぜか“人格”を持ってしまったしゃべる勲章――「グン賞くん」が、しおしおと身を沈めて静かに休眠していた。
「……今のうちに……満喫しよ……」
ふわふわとした意識のなか、つぐみはまだ数分だけの眠気を楽しむように目を閉じた。
天井から差し込む光が、まるで絵本のページを照らすように、彼女の頬を撫でていた。
そのとき――台所のほうから、小さな物音がした。
「ん……?」
わずかに顔を上げて耳をすますと、食器がそっと置かれる音、湯の沸く音、何かを焼く匂い――
そのすべてが彼女の頭に、ある一人の人物を浮かばせた。
「……起きてるんだ」
布団の中から声を投げかけると、リビングの方から低く、眠気を残しながらも落ち着いた声が返ってくる。
「おう。朝飯、作ってる」
その声を聞いただけで、つぐみの頬がゆるむ。
「ふふ……起きるよ……いま行く……」
毛布をゆっくりとめくり、ベッドから足を下ろす。
床の冷たさに指先がぴくりと反応し、それすらも今日の「現実」に感じられて、少しだけ嬉しかった。
カーテンの隙間から覗く外の世界は、静かで、光に満ちていた。
まだ何も始まっていない朝。
でも、確かに“始まり”を感じさせる、やさしい時間だった。
〜〜
キッチンの方から漂ってくる香ばしい匂いが、つぐみの眠気をほんの少しずつ溶かしていく。
カチリとトースターのレバーが跳ね上がる音、フライパンの中で卵がじゅうっと焼ける音、そしてそれらをてきぱきとさばく気配。
すべてが、彼女にとって心地の良い“日常”の音だった。
パジャマのまま、ふらふらとキッチンに向かうと、そこには見慣れた背中があった。
祐真――彼女の、ちょっと不器用で、ものすごく頼もしい“彼氏”が、フライパン片手に朝食を作っていた。
その背中には、以前つぐみがふざけて買ってきた「ツッコミ上等!」と書かれたエプロンが無造作に巻かれている。
真顔で着けている姿が、なんだかおかしくて、でもとても自然で――思わず笑ってしまう。
「……それ、似合ってるね」
「うるせぇ、これしか洗ってなかったんだよ」
ぶっきらぼうな返事をしながらも、祐真の口元はほんの少しだけ緩んでいた。
テーブルには、すでに整えられた朝食が並んでいた。
カリッと焼きあがったトーストに、ふわふわのスクランブルエッグ。
ベーコンはほどよく脂が落ちていて、サラダにはさっとレモンオイルがかけられている。
ティーポットからは、紅茶のいい香りがふんわりと立ちのぼっていた。
「完璧すぎない?」
「手間はかけてない。素材と火加減の勝利だ」
「それ、料理番組の受け売りでしょ」
「バレたか」
クスッと笑い合いながら、二人はテーブルに並んで座る。
つぐみの小さな「いただきます」に祐真も続き、朝の食事がはじまった。
食器がふれる音、紅茶を注ぐ音、たまにくぐもった笑い声。
テレビはついていない。スマホも開いていない。
けれどそこには、何よりも満たされた空気が流れていた。
「最近さ、こういう朝って、ほんと久しぶりな気がするよね」
パンの耳をちぎりながら、つぐみがぽつりとつぶやく。
「まあな。異世界で魔王倒したり、しゃべる勲章と喧嘩したり、冷蔵庫に異空間繋がってたり……」
「改めて言うと意味わかんないね、この家」
「日常ってなんだっけってなるな」
紅茶を啜りながら、二人でまた笑った。
でも、その“非日常”すらも、“彼と一緒に過ごしてきた時間”の中にあることに、つぐみはふと気づく。
「でもね。そういう変な日々も、祐真くんと一緒だったから、ぜんぶ楽しかったんだと思う」
「……お前な」
唐突な言葉に少し戸惑いながらも、祐真は素直にその想いを受け取っていた。
ふたりの間に流れる沈黙は、決して気まずいものではなくて、むしろあたたかさでできた毛布のようだった。
窓の外には、春の光に照らされたベランダと、ふわりと揺れる洗濯物の影。
それすらも、まるで一枚の絵画のように穏やかな情景を添えていた。
食事を終えた後、祐真が自ら進んで立ち上がる。
「片付けるから、そのまま座ってろ」
「いいの? わたしも手伝うよ」
「いいから。今日は“休息日”だろ?」
「……ありがとう」
言葉少なに交わされるやさしさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ふたりだけの朝食時間――
それはきっと、世界が変わっても変わらない、一番好きな時間。
〜〜
食器の片づけもひと段落し、祐真がティーポットを洗って戻ってくると、つぐみはすでにリビングのソファに腰掛けていた。
ソファの背にもたれ、両足を座面に引き寄せてちんまりと丸まった姿は、どこか小動物のようで可愛らしい。
彼女の膝の上には一冊の文庫本が乗っており、その表紙にはちょっと古風な欧風イラストが描かれていた。
「読書タイムか」
「うん。昨日の続き。祐真くんは?」
「ニュースでも見るわ」
リモコンを取ろうとする手をつぐみが止める。
「テレビは今日は無し。静かに過ごしたいなって思って」
「……了解。スマホにしとく」
祐真は苦笑しながら、スマホを手に取り、無造作に膝の上でスクロールを始めた。
画面の明かりだけがわずかに手元を照らし、あとは淡い自然光が部屋を満たしていた。
そしてその横には――本を読む少女の穏やかな気配。
ページをめくる音が、規則正しい鼓動のように部屋に響いていた。
しばらく、静かな時間が流れる。
時計の秒針が淡々と時を刻み、カーテン越しの光がゆっくりと角度を変えてゆく。
ソファの上に落ちる影が、ふたりの体温に溶け合っているようだった。
「……ねえ」
ふいに、つぐみが声を上げる。
「ん?」
「なんかさ、こんなふうに何も起きない時間って、意外と贅沢だよね」
祐真はスマホから目を離して、彼女のほうを向いた。
「たしかに。最近はイベントばっかだったしな。脳だけログインとか」
「うん……あと、しゃべる勲章とか、光る炊飯器とか」
「おまえの日常、パワーワードしかないな」
「でもこういう日も大切にしたいなって思ったの」
彼女は文庫本を閉じ、手のひらに置いて、ソファの背に頭をもたれかけた。
視線は天井へと向けられ、けれどその眼差しはどこか、柔らかくて安心しきっていた。
「わたしさ、もしまた異世界に呼ばれても……こういう日常があるって思い出せれば、きっと怖くないって思える」
「……そっか」
「だから、覚えておいてね。こういう日が、わたしにとって、どれだけ大事かってこと」
祐真は、静かにうなずいた。
「忘れるわけないだろ」
そして、そっと彼女の頭に手を伸ばして撫でる。
つぐみはくすぐったそうに微笑みながら、その手に身を預けるように目を閉じた。
外からは風の音がかすかに聞こえ、カーテンが揺れた。
午後へ向かって移りゆく時間のなかで、ふたりはただ、並んで座っていた。
言葉はいらなかった。
ただ、その“そばにいる”という事実だけが、世界のすべてのように感じられた。
裕真君の性格がどんどんまともに……!!
ま、いっか