第11話「宮廷厨房で鳴る鐘」
大理石の廊下が響く、宮廷の重厚な鼓動――。
緊張で震える手をつかみ、リオは一歩を踏み出す。
副料理長カール、厳格なスウェイン、手練れのジュリアンとレイナ。
煌びやかな食材が並ぶ厨房で、「王都の月」を想わせる一皿を追求する。
失敗と再挑戦、ほんのわずかな成功と、更なる高みへの渇望。
第11話「宮廷厨房で鳴る鐘」、どうぞご覧ください。
王宮の大理石廊下は、ひときわ冷たい空気を吐き出していた。リオは肩に大鍋の重みを感じつつ、左右に整列する衛兵たちの鎧が黄金に輝くのを見上げる。天井から吊るされた水晶のシャンデリアが煌めき、その燦めきが大理石の床に跳ね返るたび、音もなく光が揺れる。遠くからは宮廷の奏楽の残響がわずかに届き、異世界に足を踏み入れた実感を強くした。
「自分は……ただの料理人――ここで通用するのだろうか」
胸の奥がきゅうと締めつけられ、足先がゾワリと冷えた。それでもノアとカトリーナの視線に押され、リオは緊張をぐっと飲み込んで先へ進んだ。
扉をくぐると、宮廷厨房は三層に分かれた大空間だった。最上階には高級食材が並ぶ陳列棚がずらりと並び、クリスタルボトルに入った香油や燻製用ハーブが並ぶ。中階には大理石の調理台と火床が連なり、炎と蒸気が霧状に立ち昇る。最下層には白布をかけた食器棚と調度品の山が整然と配置され、まるで別世界の舞台装置がそこにあるかのようだった。
副料理長のカールが、穏やかすぎるほど柔らかな声でリオを迎えた。
「よく来たな、リオ。ここが……宮廷厨房だ」
長いコートの襟をわずかに返し、腰の銀色の指輪が王家の紋章を彫り出している。眉間には皺が刻まれているものの、瞳にはどこか慈愛の色も混ざる。
隣に立つ調理長スウェインは長身で、黒いエプロン越しに筋張った胸筋を僅かに動かしながら、険しい顔つきでリオを一瞥する。低く響く声でひと言つぶやいた。
「ここでは、失敗は許されん。覚えておけ」
その声にリオの心臓は跳ね、背筋を冷たい汗がすっと伝った。厨房の蒸気と熱気が頬をじんわり焼く中、リオは小さく頷き、額の汗を拭った。
見習いコックのジュリアンは若く細身で、鍋の縁を握りしめたまま震えている。リオをちらりと見て、視線を逸らした。
「……先輩、よろしくお願いします」
声は小さく、震えが混じっている。その手の震えから、ここがどれほどの緊張場なのかが伺えた。
食材調達係のレイナは帳面を片手に冷静沈着な口調で説明した。
「必要な食材はすべて揃っています。白トリュフは昨日朝一番で到着し、レモンバームも王都産の最高級です」
淡々とした口調ながら、その目には食材への確かな誇りと責任感が宿っている。リオは新鮮な食材を前に、胸が高鳴るのを感じた。
カールがリオに穏やかに近づき、低く語りかけた。
「では、王都の味覚基準を伝えよう。たとえばアスパラガスひとつでも、王妃が春の青空を想起せねばならん。色合い、口当たり、香り──細部にわたる基準がある」
リオは息を飲み、高鳴る心臓を押さえつつ頷いた。
リオの初任務は、王都特産の「春摘みレモンバーム」と「白トリュフ」をあしらった「地鶏のカルパッチョ」──季節の前菜だった。
調理台に立つと、リオはまず地鶏の胸肉を解凍し、鮮度を確認した。緊張から手先がわずかに震えるが、胸肉を滑らかに包丁でスライスする。最初のスライスは薄すぎ、すぐスウェインの低い声が響いた。
「肉は薄切りしすぎるな。厚みを残さぬと、ソースの温度で旨味が失われる」
リオは小さく息を吐き、包丁を5ミリほどの厚みに調整し、改めて几帳面に鶏肉を並べた。
次に、レモンバームの葉を細かく刻む。直播のハーブは香りが強く、刻み方で苦味が左右される。リオは刻み幅を少しずつ調整しながら、レイナの言葉を思い出す。
「ハーブは香りが鋭すぎると、繊細な味覚を持つ皇族には合わないわ」
刻んだ葉はほんのひとつまみだけを使い、香りをほのかに残すことにした。
さらに、白トリュフを皮膜の下からそっと薄く削ぎ取り、白ワインヴィネグレットを作る。
――ヴィネグレットは、エクストラバージンオリーブオイルと白ワインビネガーを1対1で混ぜ合わせ、ほんの数滴のレモン果汁を加えて乳化させる。ソースが白ワインヴィネグレット特有の白濁した輝きを帯びたら、塩を極少量で味を整える。
この調合で、酸味は優しく丸みを帯び、ハーブとトリュフの香りを邪魔しないはずだ。
リオはヴィネグレットを肉の上に5滴ほど垂らし、白トリュフをそっと散らした。皿の縁にオリーブオイルを薄く引き、全体に艶を出す。新鮮な香気が厨房に立ち昇り、まるで春の風が駆け抜けるかのようだった。
スウェインがその一皿を静かに口に運ぶ。数秒後、眉間の皺が深まり、リオの心臓は跳ねた。厨房内の蒸気が涼しげに感じられるほど、空気が張りつめる。
「塩気が足りない。ヴィネグレットは酸味がまだ尖っている。ハーブは苦みが強すぎる。テクスチャのメリハリも乏しい。鶏肉の切り方は改良したが、ソースの温度に負けている」
スウェインの言葉に、リオの視界が一瞬暗くなり、あわわと意識が揺れた。背筋を冷たい汗が伝い、鼓動が喉を振るわせる。ペンを握り締める手に力が入りすぎたためか、メモ帳の紙が微かにしわくちゃになりかけた。リオは慌てて指先で紙を平らに整え、メモを取りながら次のヒントを求めた。
「薄切りの肉はもう少し厚みを残せ。そしてヴィネグレットは酸味を抑え、オリーブオイルを乳化させる時間を長くすることだ。ハーブは香りを立たせつつ苦味を和らげる工夫を加えろ。言うなれば、王都の湖面に映る月を感じさせる一皿にな」
メモ帳に細かく記しながら、リオは腹の底からくる緊張を感じつつ、次なる改良に向けて脳裏を駆ける。
翌朝、リオは再び厨房に呼び出された。改良した前菜を半ば震える手で差し出す。
二度目の試作は「地鶏を一口大に厚めにスライスし、白ワインとオリーブオイルをしっかり乳化させたヴィネグレットで軽くマリネ。レモン果汁はほぼ使わず、塩とオリーブオイルで肉本来の旨味を引き出す。レモンバームは極細かく刻み、トリュフは薄くスライスして風味を穏やかに添える一皿」である。
ジュリアンが恐る恐るひと口味見し、目を見開いた。
「肉の火の入れ具合が絶妙です……ソースが肉の旨味を包み込んで、食感がしっかりしています」
小さく呟きながら、ジュリアンは鍋をかき混ぜる手を止めた。
レイナが再び近づき、そっと検品した。
「ハーブは甘みと香りがふんわりと立ち、苦みはほとんど感じません。トリュフの香りも優雅で、華やかです」
彼女は細かく頷き、帳面にチェックマークを入れた。
スウェインは黙って皿を味わい、しばらく黙考した後、重々しくだけど低い声で言った。
「見込みはある。ただし、王妃の舌はさらに高みを求めるだろう。油断は禁物だ」
リオは胸の奥で小さく喜びの灯を感じると同時に、「まだ足りない」という引き締まった思いを抱いた。
厨房の奥で、リオは一瞬だけ肩を落とし、深く息を吐こうとしたところで、カールの足音が近づいた。振り返ると、彼はわずかに笑みを浮かべながら告げた。
「リオ、明朝は王妃陛下の昼餐に、ぜひ参加してほしい」
その言葉に、リオの胸は締めつけられるほど高鳴り、手の甲に汗がにじんだ。身体感覚がいつもの何倍にも拡大し、鼓動が喉まで響く。
「王妃の前で、この味を届けられるのか……」
遠く、宮廷の中庭に据えられた大きな鐘が、低く深い響きをもって鳴り渡った。その音はリオの全身に緊張と決意を呼び起こす。
「ここから、本当の試練が始まる――」
リオは包丁をぎゅっと握りしめ、目を細めた。鐘の余韻が静かに消えていく中、彼は王宮の闇に包まれた通路を一歩踏み出した。
お読みいただき、ありがとうございます!
厳格な宮廷の厨房で、リオは「春摘みレモンバームと白トリュフのカルパッチョ」という難題に挑みました。
小さな成功とスウェインの厳しい言葉が、彼の胸に更なる決意を灯します。
次回、第12話では――
王妃の昼餐を前に、リオが迎える真の試練と、宮廷の裏側に潜む思惑をお届けします。
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第12話でまたお会いしましょう。