動き出す白き爪痕
ふとその時、頭上から細かい水が降り注いだ。
ひんやりとした水が、火照った身体を優しく冷やしてくれる。
……雨か? でも空は、雲ひとつない快晴だったはず。
オレが空を見上げていると、足音と共に背後から涼やかな声が届いた。
「ーー間に合ったみたいですね」
そこにいたのは、魔術学科の天才、イリヤだった。濡れた前髪を払いながら、淡々と杖を収めている。
「暴走した召喚獣の鎮圧で周囲を回っていたら、裏庭が火事になっていて。……水魔法での消火、勝手ながら失礼しました」
なるほど、この水はイリヤの魔法だったのか。
燻っていた花壇の残骸も、今はもうすっかり鎮まっている。
「それにしても……ジータは暴走していないんですか?」
「暴走?」
オレの隣に寄り添っていたスカーレットが、不安げに顔を上げる。
「学園中の召喚獣が突然暴れ出していると……さっき、避難放送もあったでしょう?」
「ああ、ジータなら平気だ。……ただ、“悪意の波動”ってやつがキツかったらしいけど」
オレがそう言うと、イリヤの表情がわずかに引き締まる。
「悪意の波動……。おかしいですね、学園には魔力汚染や敵意の侵入を防ぐため、結界が張られているはずなのに……」
「結界があるのに、こんなことが起きてるってことは……」
スカーレットが不安げに視線を落とす。
その肩をオレがさりげなく支えようとした、その時だった。
ーーバヂィン!!
地面を突き破って、無数の黒鉄の杭が一斉にジータを囲んだ。
「グルル!?」
『な……何だこれは!?』
「ジータ!」
オレが駆け寄ろうとした刹那、杭の間にバチバチと奔る紫電がオレの足元を阻んだ。
「うっ……! 電流か……!?」
「スタン!」
スカーレットが悲鳴を上げるより早く、杭から放たれた高圧電流が、ジータの全身に叩き込まれる。
「キィエエエエエエエ!!」
『ぐあああああああ!!』
「ジータぁああああああっ!!」
ジータの叫びに、オレはただ手を伸ばすことしかできなかった。
その時――植え込みの影から、白づくめの男たちが次々に姿を現した。
「コードネーム“ジータ”を確保せよ」
「了解。補助魔力注入、出力最大に」
「ジータに何すんだ、お前ら!!」
怒鳴りながら殴りかかろうとしたオレを、二人がかりで簡単に組み伏せて地面に叩きつける。
「ガキは下がってろ」
「くそっ、離せ!」
「やめなさい!」
杖を構えてイリヤが割って入ろうとするも、その前に別の白づくめ数人が回り込んできた。
「この程度、私一人で……!」
イリヤが詠唱に入るが、その瞬間、頭上から光の鎖が降ってきて、彼女の腕と杖を絡め取る。
「っ……く、これは魔道具の罠……邪魔する気ですね!?」
「あなたは優秀すぎる。ここで止めさせてもらいますよ、イリヤ・フォン・ノクターン」
敵の言葉にイリヤの表情が悔しげに歪む。
「キィエエエエエエ!!」
『あああああああああ!!』
止まぬ電流。地響きを立て、ついにジータの巨体が崩れ落ちた。
「……っ!」
オレの右手に走った鋭い痛み。見れば、そこに刻まれていた召喚契約の紋が……跡形もなく消えていた。
「嘘、だろ……?」
呆然と呟いた時には、倒れたジータの巨体が複数のカブトムシ型召喚獣たちによって拘束され、空へと持ち上げられていた。
「それでは撤収する。索敵は無効化済み。障害はない」
「了解、撤退」
「待ちやがれえええええええ!!」
オレの叫びも虚しく、白づくめたちは一瞬で姿を消し、遠ざかる空の先に、ジータの姿が小さくなっていく。
隣で見守っていたスカーレットが、息を呑んで口を手で押さえた。
ーーオレは、やっと絆を結べた相棒を、たった一瞬で奪われてしまったんだ。
「チクショォォォォォォォォォォ……!!」
裏庭に響いたオレの叫びは、火の消えた花壇の上で、虚しくこだました。
✳
空輸されたジータは、程なくして白き爪痕のアジトに運び込まれる。
「急げ! この化け物が目を覚ます前に、封じろ!」
「こいつ、まだ意識があるぞ……ッ!」
てんやわんやとなって作業を急ぐ白き爪痕の構成員たち。
ジータが搬送されたのは、アジトの最深部にある異様な研究室だった。
(ここは……?)
目を覚ましたジータは、自らの全身が冷たい魔力鎖で拘束されていることに気づく。
(ぬう……スタンの気配もない……まさか、契約が……!?)
喪失と怒りがないまぜになり、ジータは唸り声を上げ始めた。
「グルルル……!」
そこに姿を現したのは、白衣を翻すエイルと、冷然とした気配を放つ男。
豪奢な白のマントをまとい、深紅の瞳を持つ男こそ、白き爪痕の首魁・キラだった。
「これが……古の最強種か」
「間違いありません、キラ様。僕のバイオンに傷をつけた唯一の存在です」
キラは一歩、ジータへと歩み出る。
その眼差しは、まるで実験材料を前にした科学者のそれだった。
「……随分と荒ぶっているようだな」
ジータはその視線に牙を剥く。
「ギイオオオオオオオオウウウ!!」
(我を誰だと思っている、虫ケラどもがァッ!!)
咆哮が研究室の空間を揺らす。
だが、キラは怯むことなく指を鳴らした。
「黙らせろ」
「はっ! 雷魔力、最大出力で流します!」
「キィエエエエエエエ!!」
(貴様あああああああ!!)
鎖から走る高圧の雷が、ジータの身体を焼く。
獣のうめきとともに、鎖が軋み、血のような魔力がにじみ始めた。
「ふふ……良い反応だ。これだけの個体……必ず完成させてみせる」
「ーー何やってるの、義父さん……!?」
駆け込んできたのは、白いフードをかぶったユリウスだった。
「今回もご苦労だったな。お前が結界を解除してくれたおかげで、全てが順調だ」
「だけど、ジータは……! あれ以上やったら、壊れてしまう!」
「壊れてもいい。要は“使えるようにする”ことだ。魂など、我にとっては瑣末な問題だ」
「そんな……!」
ユリウスの目に、わずかな迷いが宿る。
「こやつさえ我が物となれば、完全なる召喚獣は完成する……! 世界に我らの名が刻まれる日も、そう遠くはない……!」
キラの狂気に満ちた嗤い声が、研究室に木霊する。
歯を食いしばるジータ。
まだ、意志は折れていない――その瞳には、反逆の炎が宿っていた。