たったひとり
リリアが思っていた以上に、クラリスとセリーヌの熱の入れようは凄まじかった。
採寸や色合わせ、生地の選定にドレスの型選び。それだけでも目まぐるしかったというのに、小物選びになるとさらに議論が白熱した。あの色にはこれの方がいい、あの型にはこっちの方がいい――。次から次へとリリアの身体にあてがいながら矯めつ眇めつする二人は、その真剣さ故に少しだけ怖かったとリリアは思う。色合わせから小物選びまで、彼女たちは一切の妥協をしなかった。「ご安心下さい」と胸を張った、あの時の意気込みそのままに。
高級店でのドレスの仕立てなど殆ど縁のなかったリリアには、何もかもが慣れないことばかりで、ひとつひとつの作業の前には必ず緊張してしまった。大まかな流れは分かっていても、経験が乏しすぎて、どうしても身構えてしまうのだ。
そのことにクラルスもセリーヌも、きっと気付いていたことだろう。二人は何も言わなかったけれど――。復習の為に開いていた政治学の本をそっと閉じながら、リリアは静かに自嘲する。その気遣いは有り難かったけれど、しかし同時に、申し訳なくもあった。
(本当は私なんかよりも……)
窓を覆うカーテンを少しだけ開け、青白い月明かりにぼんやりと照らされた庭園を眺め遣る。池にせり出した白いガゼボ。短く刈り込まれた生け垣。アネモネやライラックといった色とりどりの花々。
王城の西側に面して広がるその庭園を、「温室の次にお花の多い場所なんですよ」と案内してくれたのは、クラリスだった。セドリックの妹であり、公爵家唯一の公女。透き通るように白い肌、ぱっちりとした大きな目、艷やかな長い髪の毛、ぷっくりとした桃色の唇。まるで精巧に作られたビスクドールのような愛らしい顔貌と、洗練された優雅な所作。歴史や政治だけでなく、地理や経済といった類の知識も豊富な彼女は、正に才色兼備だとリリアは思う。王国中の淑女が憧れ、目標とする女性。貴族社会のトップに立つのに相応しい美貌と教養が、クラリスにはしっかりと備わっている。
そんな彼女こそ、王太子妃の座にあるべきなのではないだろうかと、何度考えたことだろう。水面にぽっかりと浮かぶ白い月を見るともなく見つめながら、リリアは小さく息をつく。没落を囁かれるような侯爵家で、使用人同然の生活をしてきた“出来損ない”が王太子妃だなんて、どう考えても不相応だ。
(“お飾り”で良いと仰ったのも、それを分かっていてのことよね)
表に出て目立てば目立つほど、ぼろは出やすくなる。万一にも醜態を晒すようなことがあれば、今まで築いてきた王家の威厳や品位を落としかねない。それを危惧して、“お飾り”であることを求めるのは、十分に理解出来る。
――お前なんて産まれてこなければっ……!
脳裏を過った記憶を、リリアはかぶりを振って追い払う。今それを思い出しては、芋づる式にあれもこれも、蘇ってほしくないことばかり浮かんできてしまいそうで。
ゆっくりと深呼吸をし、リリアはカーテンをしめて、ソファの背凭れにかけていた厚手のショールを羽織る。戸棚に飾られた置き時計で時刻を確認すると、すっかり宵の口を回っていた。
扉の前で少しの間逡巡し、リリアは意を決して廊下へ出る。丁寧に磨き込まれた床板、繊細な金細工やレリーフがふんだんにあしらわれた壁、アーチ型の巨大な窓、等間隔に配された燭台。静寂に包まれた豪奢な廊下は、人の気配がまるでないせいか、昼間よりも随分広く感じられる。
燭台の落とすあたたかな灯りを頼りに、リリアはしんとした廊下をゆっくりと進む。ここへ来てすぐ頭に叩き込んだ王城内の見取り図を辿って。――反対側の建物にある、王太子専用の執務室まで。
この七日間、ルイスには一度も会っていない。彼が会いに来ることもなければ、リリアが会いに行くこともなかった。広大な王城の中とはいえ、それでも一つの建物の中で過ごしているというのに。夫婦でありながら、言葉ひとつ交わしていない。
けれど、仕立て屋を手配するよう指示を出したのがルイスである以上、さすがに当人へお礼を告げにいかねば礼儀に欠くだろう。たとえそれが、リリア自身を慮ってのことではないにしても。
(気が重いわ……)
窓の外を一瞥しながら、リリアは静かに溜息をつく。廊下を歩む足が、まるで鉛でもつけているかのように重たくてたまらない。会いたいかといえば、正直なところ、会いたくはなかった。またあの冷たい視線を向けられ、嘲笑されるであることは容易に想像出来たから。
それでも、勇気を振り絞ってクラリスに相談をすると、彼女は一瞬だけ驚いた表情をしたけれど、しかしすぐに顔を綻ばせ、ふふっとやさしく笑った。何故だかとても嬉しそうに。その理由が、リリアにはまるで分からなかった。クラリスもまた、リリアが“お飾り”の王太子妃でしかないことを、よくよく理解しているだろうに。
この時間であれば政務も少しは落ち着いているだろう。そう教えてくれたクラリスの親切心を無下にするわけにもいかず、どうにか部屋を出てきたけれど――。
王家の紋章が彫り込まれた重厚な扉の前で足をとめ、リリアは忙しなく鼓動する心臓を落ち着けるように、ゆっくりと深呼吸する。けれど、瞼の裏にちらつく冷淡な顔が、どうしても身体をこわばらせ、扉をノックする手を躊躇わす。ただお礼を告げるだけなのに。そう分かってはいても、恐怖と緊張が先立ってしまう。こんな時間に訪ねて迷惑ではないだろうか。お飾りの妻が会いに来て不快ではないだろうか。考えれば考えるほど、迷いがどんどんと膨れ上がってしまって、扉に伸ばした指先が微かに震える。
このまま何事もなかったように帰ってしまおうか――。長くも短くもあった逡巡の後、しかしリリアは意を決して扉をノックした。静謐な廊下に、木特有の澄んだ音が響き渡る。
「殿下、リリアでございます。夜分遅くに申し訳ございません」
声が震えてしまわないように気をつけながら、なるべく落ち着いた声音で来訪を告げる。心臓の立てる音が、まるで耳の中で鳴っているみたいに、煩くてたまらない。
この時間ならばまだ執務室にいるだろう、とクラリスは言っていたけれど――。扉をじっと見つめながら、リリアは唇を噛み締める。もしかしたらもう寝室へ引き上げているかもしれないし、仮にいたとしても開けてくれるとは限らない。
しかし、そんなリリアの懸念に反し、目の前に立ちはだかっていた扉はすんなりと開かれた。隙間から顔を覗かせたのはセドリックで、彼は切れ長の目を大きく見開かせ、それからすぐににっこりと破顔した。妹であるクラリスとよく似た、あたたかでやさしい笑顔。
「こんな時間にどうなさいましたか?」
「あの……仕立て屋の件で、殿下にお礼を申し上げたく……」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか」
すぐに意を察したらしいセドリックは、納得したようにひとつ頷いたものの、すぐに目を伏せるように眉を下げた。その表情には、どこか申し訳なさが滲んでいる。
「殿下はいらっしゃるのですが、実は今……」
そこで言葉を切り、セドリックはゆっくりと身体を横へ退かす。ぽっかりと人ひとり分出来た隙間からは、初めて見る執務室の様相が十分に見渡せた。
片側の壁一面を覆う巨大な書棚、時計や置物の飾られた暖炉、白い壁に掛けられた金縁の鏡。正面にはカーテンの引かれた窓があり、その手前にどっしりとした重厚なデスクが据えられている。
真鍮製のシャンデリアが落とすやわらかな灯りに照らされた机上には、幾つもの分厚い書類の山が整然と並び、その合間からインク瓶や羽ペンが僅かばかり顔を出している。その様は、ルイスの抱える果てしない責務を無言で物語っているかのようだった。
やがてリリアの視線は、部屋の中央に置かれたソファへ――その上に横たわる人影へ、自然と吸い寄せられた。
片腕で顔を覆っている為、顔ははっきりと見えないけれど。それでも艷やかな白銀の髪の毛から、そこにいるのがルイスであるのは間違いなかった。謁見の間ではきっちりと身につけられていた上着はゆったりと着崩され、喉仏の陰影が白い肌にくっきりと浮かんでいる。
「体調が悪いのですか……?」
弱々しい声で尋ねると、セドリックは苦笑をこぼしながらかぶりを振った。
「いえ、少し休まれているだけです。体調が悪いわけではありませんので、ご安心下さい」
潜めた声でそう答えながら、セドリックは肩越しにルイスへと目を向ける。その瞬間、彼の端正な横顔に、ふと翳りが差したような気がした。まるで心の内がこぼれたみたいに。
けれど彼は、すぐに何事もなかったかのように表情を整え、リリアへと静かに向き直った。
「……とてもお忙しいのですね」
「ええ。陛下が病床に伏されて以降、政務の殆どを殿下ひとりでこなされていますから」
現国王であるレオニスが大病を患い、療養に入ってから二年ほどが経つ。懸命な治療がなされているというが、快復の兆しはまだ見えていないという噂だ。事実、彼は王都の外れにある別邸に移って以降、未だ王城へ戻ることが出来ていない。その不在は、長らく王城に重苦しい陰を落としている。
「その上、明後日には豪雨災害に遭った地域へ視察に出なければなりませんから……その前に出来るだけ片付けておきたいのでしょう」
困ったように首を竦め、セドリックは小さく笑った。
そんな彼から視線を逸らし、リリアは再びルイスへと目を向ける。寝室へ引き上げずに執務室で身体を休めているということは、目が覚めた後にまた政務に取り掛かるつもりでいるのだろう。机上の積み上げられたたくさんの書類を、少しでも減らしておくために。
(たったおひとりで……)