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仕立て屋と王太子妃

「王太子妃教育は、滞りなく進んでおりますわ」


 書類に視線を落としたまま、ルイスは「そうか」と短く返す。感情の微塵も感じられない、素っ気ない声。インクを含ませたペン先を署名欄に走らせ、乾かぬうちに幾つも連なった書類の山の上にそれをのせながら、未処理の山から新たな書類を手に取って引き寄せる。税収報告書、許可申請書、辺境の守備報告書。


「先生方のご見解も、概ね良好のようです」


 そんなルイスの無反応にも動じず、クラリスは淡々とした口調で報告を続ける。ダンスは得手であるようだということ。とりわけ歴史学に関心を持っているようだということ。経済学については付け焼き刃の基礎しかないが、比較的呑み込みが早いので心配は無用であるということ。


「ご体調にお変わりはございません。痩せ気味ではありますが、医師の診立てでは、特にご心配には及ばないそうですわ」


 クラリスの報告はとても分かりやすい。過不足のないほどよさで、知りたいことを簡潔に告げてくれる。そこに余計な私情を挟み込んだり、含みをもたせることもない。故に、彼女の説明を脳がすんなりと受け止めることが出来る。噛み砕く必要もなければ、へんな勘繰りをする必要もない。


 そういうところを、無駄な説明ばかり垂れ流す大臣たちも見習うべきだ、とルイスは思う。もっとも、彼らにそれを期待するのは、砂漠に雨を求めるようなものだろうけれど。


 署名を終えたばかりの書類をデスクの端に避け、ルイスは右手のペンを離さぬまま、地方から送られてきた新たな書類を手に取る。どんなに処理を進めても、山は減る気配さえない。


 公爵家の令嬢であるクラリスを王太子妃付の女官に据えたのは、リリアの監視をするのが専らの理由だった。彼女が何かよからぬ企みを考えてはいないか、或いは、腹に一物持つ者が寄り付いてはいないか。危険な芽を早急に摘み取れるようにする為に、常に目を光らておくに越したことはない。


 “妃を迎える”ということだけでも面倒だというのに、それに伴って厄介事まで招き入れるのは御免だった。侯爵家の使用人を一人も連れてくるな、と命じたのもその為だ。財政難だというフローレット家が、爵位維持の為に、王城内での人脈拡大を目論んでいるのは考えるまでもない。使用人に紛れ、間者を送りこんでくる可能性は十分にあった。たとえリリア自身にその意思がなかろうとも。


「それから──妃殿下の所持品について、些か気にかかることがございます」

「……気にかかること?」


 書類に走らせていたペンをはたととめ、ルイスはゆっくりと顔をあげ、正面に立つクラリスへと視線を向けた。アンバー色の豊かな髪の毛が陽光に照らされ、淡く光を帯びている。穏やかな輝きが、兄であるセドリックとはまた趣の違う静かな美しさを湛えていた。


「ええ。私の立場で申し上げるのは恐れ多いのですが……」


 そう前置きし、クラリスは言葉を探すように、ほんの少しだけ間を置く。


「妃殿下が普段お召しになるドレスや、お使いの装飾品があまりにも少ないように思うのです」


 もちろん質素倹約は美徳ではありますけれど、と言い添えたクラリスの小さな顔には、しかし懸念の色が浮かんでいた。“王太子妃”としての立場にある者を、そして自身が仕えるひとりの女性を憂う、真剣な顔。


 そんな彼女のかんばせを暫し見つめ、ルイスは数日前に会った妻の姿を思い返しながら、書類へ静かに目を戻す。毛先に向かってウェーブのかかったピンクブロンドの髪の毛。白磁器のように滑らかな白い肌。控えめに伏せられた目。澄んだ蒼穹を溶かし込んだかのような青い瞳。


 謁見の間で初めて会ったリリアは、噂通りの美しい見目をしていた。いつかの夜会で見かけた後妻や異母妹とは殆ど似ていないところからするに、恐らくあの容貌は前妻譲りのものなのだろう。“社交界随一の美貌”と評されるだけの美しさは、確かにあった。


 けれど、所詮はそれだけのことだ。そう切り捨て、故にあまり注意深く観察することはしなかったのだけれど――今思えばあの時の彼女は、侯爵家の長女にしては随分質素な身なりをしていた。ドレスの型こそ流行に沿ってはいたが、装飾は少なく、身につけていた宝石類はどれも味気ないほどシンプルで、数も乏しい。いくら財政難の侯爵家とはいえ、後妻のイザベルや、異母妹のカトリーヌは、もっと派手な装いをしていた記憶があるのだが――。


 侯爵家から誰も連れさせて来なかったのは、どうやら別の意味でも正解だったらしい。


「仕立て屋と宝石商を呼べ」


 ルイスは端的に指示を出し、書類にペンを走らせる。

 そんな彼を見つめ、クラリスはふふっと笑った。“王太子妃付女官”としてではなく、幼少の頃からともに過ごしてきた“幼馴染”としての朗らかさで。


「なんだかんだ仰りつつ、妃殿下のことを気にかけていらっしゃるのですね」


 思わず手をとめたのは、それが図星だったからではなく、あまりにも的外れなものだったからだ。


「馬鹿を言うな。一国の王太子妃がみすぼらしい格好では、王家の威信に関わる」


 なるべく感情を込めずに発した低い声は、しかし微かな苛立ちがしっかりと滲んでいて、ルイスは胸中で忌々しく舌打ちをこぼす。言われもない指摘に、いちいち反応していてはクラリスの思う壺だと分かっている。けれど、まるで自分の中にそんな感情があるかのように断定されたことが、ひどく不快だった。


「勝手な解釈をするな」


 ちらりと目を上げ、クラリスを睨め付ける。けれども彼女は全く気にしたふうもなく、心做しか楽しげに顔を綻ばせた。


「あら、殿下のことですもの。察するくらい、容易いことですわ」


 まるで全てお見通しだと言わんばかりのその態度に、ルイスはこれ以上反論するのは無駄だと悟り、深々と溜息をつく。実直なセドリックとは対象的に、妹であるクラリスは一癖も二癖もあって扱いづらい。年上だろうが王太子だろうが関係なく、昔の付き合いそのままに、隙あらばからかおうとしてくる。

 そんな彼女の変わらなさが、しかしルイスは嫌いではなかった。厄介ではあるけれど。


「無駄口叩く暇があるなら、さっさと戻れ」

「ふふっ、承知いたしました。殿下の御意のままに」



***



 私室のソファに腰掛け、リリアは忙しなく動き回る侍女たちを眺めながら、ただただ唖然としていた。

 部屋中に所狭しと並べられた籐製のトルソー。そのひとつひとつに次々と着せられてゆく色鮮やかなドレス。一目では見渡せないほどの絢爛たる布地。帽子や扇、レースやシルクの手袋などの小物たち。


 入口の傍ではクラリスが、円熟した気品の漂う女性と、落ち着いた様子で何やら話し込んでいる。深藍色をした詰め襟のバッスルドレス。小花や羽のあしらわれた同色の帽子。胸元に飾られた大ぶりのブローチ。

 凛とした佇まいの麗しい彼女が、王室御用達の老舗仕立て屋の女主人、セリーヌ・シャルモンであると知ったのは、ついさっきのことだ。そもそもフローレット家にいた頃は、そんな有名クチュリエールと顔を合わせる機会などなかった。イザベルやカトリーヌならともかく、リリアにとっては高級仕立て屋という存在自体が縁遠いものだったのだから。


「あの……これはいったい」


 セリーヌとの会話を終えて戻ってきたクラリスに、リリアは戸惑いながら声をかける。王太子妃の私室に並べられたいくつものドレスが、まさかクラリスの為のものではないだろう。もしそうであれば、ここへではなく公爵邸に運ばれているはずだ。そして、普段店に詰めているセリーヌも、彼女の家へ足を運んだはずである。


 つまり――。クラリスの後ろから歩み寄ってきたセリーヌにも目を向け、リリアは、あにはからんやという思いで笑みを繕う。


「殿下から、リリア様にふさわしい素敵なドレスを仕立てるよう、直々にご命令がありましたの」


 そう言って花のように笑うクラリスに、リリアは思わず目を瞬かせる。

 けれどもそれはほんの僅かばかりで、次の瞬間には、猛烈な勢いで羞恥が込み上げてきた。照れくさいのではなく、情けなさやら惨めさやらで。顔も胸も手足も、熱くてたまらない。息が詰まってしまいそうなほど。


 恐らく侍女からクラリスに、そしてクラリスからルイスへと伝わったのだろう。屋敷から持ってきたドレスや宝石類が少ないことも、そのどれもが一昔前のスタイルで、流行に全く沿っていないことも。もれなく全て。


「それでは、妃殿下。まずは採寸から始めましょう」


 セリーヌにやさしく促され、リリアはおずおずと立ち上がる。

 そんな彼女の心中を見て取ったのか、クラリスがふふっと笑い、そうして茶目っ気たっぷりに胸を張った。


「ご安心ください、リリア様。私たちが、あの殿下さえ息を呑むほどの、最上のお姿にしてみせますわ」


 そうは言っても――。七日前に見たルイスの冷淡な顔を思い浮かべながら、リリアは胸の内でひっそりと溜息をつく。興味の欠片もない妻がどんなに着飾ったところで、あのルイスが“息を呑む”などあるはずがない。ドレスを仕立てるように指示したのだってきっと、王太子妃がみすぼらしい格好をするな、ということだろう。王家の威厳は、身なりや立ち居振る舞いによっても作られるものだ。


 とはいえ、こうなってしまったからには従うしかない。そう諦め、姿見の前で待つセリーヌのもとへ歩み寄りながら、リリアは静かに苦笑をこぼすしかなかった。


 まさかこの後、自分がまるで着せ替え人形のように、次から次へとドレスを取っ替え引っ替えされる羽目になるとは――この時のリリアはまだ知る由もなかった。

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