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見えない誰かのやさしさ

 目が覚めると、まだ夜が明ける前だった。

 静寂に包まれた室内は、ひどく暗い。カーテンの隙間から細く漏れた月明かりが、まるで部屋を分断するように床の上に伸びている。ぼんやりとしていた意識が明瞭になる頃にはすっかり目も慣れ、調度品や活けられた花の輪郭が、ほのかに浮かび上がって見える。精緻な彫り込みの施された支柱、刺繍がたっぷりと施された天蓋、花瓶が飾られた小ぶりなゲリドン、革張りのシェーズロング。どれも手の込んだ、高価な品々ばかりだ。


 王太子妃として王城に入り、専用の部屋を与えられてから、もう三日が経つ。けれどもリリアは未だに、この部屋の広さにも、調度品の豪華さにも、少しも慣れることができずにいた。


 フローレット家の屋敷にいた頃、彼女に宛がわれていたのは、まるで物置のような古びた一室だった。乳母が解雇されてから、ずっと。机と姿見とベッド、それに小さなチェストがひとつあるだけの、狭くひっそりとした部屋。


 それらと比べると、ここは何もかもが雲泥の差だった。ずっしりとした大きなベッドも、天井から吊るされたシャンデリアも、大理石で造られた暖炉も、何もかも。そのひとつひとつが特注品なのだろうことは明白だった。アカンサスやカルトゥーシュといった装飾にまぎれ、王家の紋章が密やかに彫り込まれているから。


 ――本当はもっと時間をかけて、妃殿下専用に調度品を選ぶべきなんですけれど。


 そう言って申し訳無さそうに目を伏せたクラリスの面差しを思い出しながら、リリアはそっとベッドを抜け出す。そうして、夜明け前特有のひんやりとした空気を、肺いっぱいに吸い込む。そうすると体の奥から目覚めていくような感覚がして、とても気持ちがよかった。


 クラリスは、ルイス直々に指名したという、王太子妃付の女官である。セドリックの妹である彼女は、公爵家の大事な一人娘だ。

 女官には高位貴族の女性が就くのが通例とされている。けれど、まさか公女が配されるとは思ってもいなかったリリアは、初めて彼女を紹介された時にひどく驚いてしまった。思わず言葉を失い、目を瞬かせてしまったほど。

 そもそも、王太子と王太子妃、それぞれの最も近しい従者を、同じ家の者が兼ねるなど、貴族間の権力の均衡を考えれば、まずあり得ない配置だ。権力の一極集中を恐れ、他家の反発を招いたであろうことは想像に難くない。


 ――様々なことがあったと思いますけれど、殿下は何も仰られませんでした。きっとリリア様に気を遣わせたくなかったのでしょうね。


 クラリスはそう言っていたけれど――。窓の傍に置かれたシリンダートップデスクに歩み寄り、棚の上に置かれたランプに火を灯して蓋を開けながらリリアは思う。でも本当に、そんなふうに気を配ってくれるのだろうか。あの冷徹なルイスが。ただの“お飾り王太子妃”でしかない存在に、わざわざ――。


 ルイスには初めて顔を合わせたあの日以降、一度も会っていない。毎日必ずセドリックが様子を見に来るが、それだけだ。

 それを寂しいとは思わない。けれども、本当にこのままで良いのだろうかという不安は、どうしても胸の内に蟠っている。“お飾り”とはいえ、それでも王太子妃なのだから、ただの役立たずでいていいわけがない。“使えない奴”というレッテルを貼られては、困る。呆れられ、それを理由に離婚などとなっては――。


 でも、唯一の取り柄だった“あの価値”さえ否定された今、自分にいったい何が出来るというのだろう。幾度となく考えたことをまた頭の中で繰り返し、リリアは静かに溜息をつく。抽斗から取り出した分厚い書類が、見た目以上にずっしりと重たく感じられる。


(殿下は、いったい何を考えていらっしゃるのかしら……)


 書類の表紙を静かに捲り、幾度となく目を通した合意事項へと、再び視線を落とす。

 寝室と食事は別にすること、結婚式は一年後に執り行うこと、政治に一切の口出しをしないこと、互いの私的時間について必要以上に干渉しないこと。


 ――式を挙げたくないということではないのです。ただ、昨今の国情を考慮してのご判断で……。どうかこのことで、ご自身を卑下なさらないでください。


 セドリックの言っていた“昨今の国情”というのは、恐らく先月起こった、西部地方での大規模豪雨災害のことだろう。

 被災地における建物や農地の壊滅的な損壊、そして数多の人命を奪った惨状は、新聞各紙において連日取り上げられていた。救援は領主が担っているが、その背後には王家の支援があり、多くの物資や援助金が王太子の裁可のもと、私財から拠出されているという。


(冷徹で、無慈悲……)


 フローレット家の使用人たちはみな、口々にそう言っていた。命を命と思わない人だ、と。彼には血も涙もない、とも。


 けれど、セドリックやクラリスの言葉に滲む“王太子ルイス”は、そうした冷酷な人物像とは、どこか違っているように思えた。豪雨災害への対応はもちろん、王太子妃付の女官にクラリスを据えたことも。そして、侍女の選定をすべて彼女に一任したことも。


 ――信用の出来ない人間を、リリア様のお傍に置きたくなかったのでしょう。ここは、人の欲と虚栄が渦巻く場所ですから。


 二人からルイスの話を聞けば聞くほど、分からなくなる。本当の“ルイス・クラウディウス”とはどういう人物であるのかが。

 そもそも謁見の間での一件以降、顔を合わせてもいなければ会話もしていないのだ。ルイスの人となりを知る機会は殆どなかった。


(本当に、噂通りの方なのかしら。それとも……)


 書類を閉じ、リリアは小さく息をつきながらゆっくりと目を瞑る。

 瞼の裏の暗闇に、あの美しいかんばせが鮮明に蘇り、少しだけ胸がざわついた。



***



 着替えと朝食を済ませ執務室へと足を運ぶと、部屋の中央に置かれたソファに一人の男性が静かに座っていた。モスグリーンの長い髪の毛を一つに結わえた、ほっそりとした体躯の男性。 膝の上には分厚い革表紙の書物が広げられており、彼の細い指先はその頁を丁寧に辿っていた。


 彼は扉が開いてすぐ腰を上げると、深緑色の瞳で真っ直ぐにリリアを見つめ、それから流れるような所作で恭しく一礼した。その動きにあわせ、左肩に垂れていた髪の毛が、ふわりと揺れる。


「お目にかかれて光栄に存じます、王太子妃殿下。私は、歴史学を担当いたします、モーリス・アルディエールにございます」


 そう言って柔和な笑みを浮かべたモーリスに、リリアもまた儀礼に則った挨拶を返す。もう何人もの教育係――分野によって教師が異なる――にしたのと同じ様に。


 けれど何回繰り返しても、“リリア・クラウディウス”と名乗ることにはまだ違和感があった。違和感というより、多分それは、ちょっとしたむず痒さというか、小恥ずかしさのようなもの。名前を口にする度に、ルイスと結婚したのだという事実を、ひしひしと実感してしまうせいで。


 挨拶を交わした後、モーリスは「本日は、資料室へご案内いたします」と柔らかく告げた。講義ではなく、まずは“目で見る歴史”から始めたいのだという。

 リリアは頷き、彼の後について静かに執務室を出た。廊下に控えていた護衛に一言事情を伝え、三人で王立図書館の傍にあるという資料室へと向かう。


「緊張されていますか?」


 春陽に照らされた廊下を歩みながらそう尋ねたモーリスに、リリアはほんの僅か考えるように間をおいてから、静かに頷いた。


「ええ、少しだけ」


 言葉を選びながら、リリアはそっと微笑む。


「王国の歴史とは、長い年月の分だけ重みがあるものですから。いい加減な気持ちで向き合ってはいけないと……そう思っています」


 それはまだ“学び始める前”の不安でありながら、同時に“学ぼうとする者”の覚悟でもあった。

 礼儀作法や語学、法学基礎など、王太子妃として不可欠な科目は幾つもある。けれど、王家の一員として名を連ねる以上、歴代国王が、或いは国王一家が積み上げてきた歴史を学ぶことは、他のどの科目より大切なことだと思った。たとえ“名ばかりの王太子妃”でしかなくとも――。


「殿下が今、そうして向き合おうとしていること自体が、すでに第一歩なのだと私は思います」


 やさしく笑う声が隣からこぼれ、リリアはそっとモーリスの横顔を見上げた。

 他の教師と違い、モーリスは随分と若い見た目をしているからだろうか。彼の穏やかなかんばせからは、いわゆる“教師然”とした厳しさはまるで感じられない。けれど、その柔らかさが、むしろ安心感を与えるように思えた。


「そのお姿もまた、この国の歴史の一部となるのでしょう」


 廊下の最奥に佇む重厚な扉の前で足をとめ、モーリスはあたたかな眼差しでリリアを見つめた。

 そのやわらかな瞳を受け止めながら、リリアは不思議に思う。クラリスは王城を、“人の欲と虚栄が渦巻く場所”と言っていたけれど。しかし今のところ関わりを持っている人々はみな、とてもやさしい者ばかりだ。セドリックもクラリスも、そしてモーリスを含む教師たちも。


 もしそれが、ルイスによって選ばれた人たちならば――。ふと頭を擡げた考えに、リリアは胸の内でひっそりと自嘲をこぼす。きっとたまたまだろう。なにせ、“王太子妃”という肩書だけを持つ存在なのだから。


「どうか焦らず、ひとつひとつ丁寧に学んでいきましょう」

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