“お飾り”の王太子妃
「……どうかご安心を。殿下は噛みついたりなさいませんので」
放心していることに気付いたのだろう。傍らに控えていたセドリックが、そっと囁くように声をかけてきた。
冗談とも本気ともつかない口調に、リリアはぱちぱちと目を瞬かす。もっと堅苦しいことを言うことは出来たはずだ。或いはいつまで経っても歩みださないことを不審に思い、叱責する言葉を投げつけることだって。けれども彼の穏やかな声音は明らかに、緊張するリリアを気遣うものだった。
そう感じ取った瞬間、張り詰めていた糸がふっと緩み、硬直していた身体からほどよく力が抜けた。リリアはセドリックの気遣いに感謝しつつ、気圧されてしまったことを悟られぬよう、優雅な歩みでカーペットの上を進む。今日初めて会ったばかりだけれど、すぐ後ろをセドリックがついてきてくれているだけで、少しだけ安心出来た。
「初めてお目にかかります、王太子殿下。リリア・フローレットと申します」
御前で足をとめ、リリアは家庭教師から厳しく躾けられた通りに、ドレスを指先で摘んでたおやかに礼をする。
そんな彼女に、しかしルイスは何も言わなかった。ルビーのように赤い瞳で、静かに、或いはつまらなさそうに見据えているだけ。それはまるで睨め付けているようでもあり、折角ほどけた緊張が、また背筋を駆け上ってくる。
冷たい広間に、息の詰まるような沈黙が落ちる。何か言わなければいけないのだろうけれど、声が喉に貼り付いて少しも出てこない。そんなリリアを責めるように、冷たい静寂が肌を刺す。
(やはり、噂通りの方なのかしら……)
屋敷を出る前に使用人たちがひそひそと話していた噂を思い出しながら、リリアは控えめに王太子のかんばせをうかがう。
光を浴びて淡く輝く白銀の髪の毛、透き通るように白い肌理細やかな肌、長く濃い睫毛に縁取られた切れ長の目、炎のようにも宝石のようにも見える真っ赤な瞳。どこか物憂げな冷たさを滲ませた、それでも玉のように麗しい彼の顔は、正に“絶世の美貌”そのものだった。この世にこんなにも美しい人が存在するのか、と、そう感嘆してしまうほど。髪の毛が短くなければ、或いは、身につけているものがマントやズボンでなければ、きっと女性と見紛えていたことだろう。まるで人形のようだ、と思った。白磁器で作られた麗しい人形のようだ、と。
――王太子殿下って、とても冷徹で無慈悲な人だそうよ。
しかし、そんな美しい容貌に反し、彼はとても冷徹で無慈悲な人間だと専らの噂だった。小さなミスを犯した部下を問答無用で断じたり、敵国の捕虜には苛烈な拷問をし、嘗ての仲間であっても裏切り者には容赦がない。“治癒”という救いの異能を持っていながら、命を命と思っていないような冷酷無比な人間。
――どうせ愛されたりなんかしないわよ。もしかしたら彼の癇に障って、殺されちゃうかもしれないわね。
脳裏を過った嘲笑を瞬きひとつで追い払い、リリアは密かに奥歯を噛み締める。
所詮、口さがない使用人たちの戯言でしかない――そう思うようにしていたのだけれど。しかしいざルイスを目の前にすると、彼の放つ無言の圧に怯んでしまう。同じ軍属の人間でも、穏やかなセドリックとは何もかもが違うように見える。つまりその圧は、彼自身の人間的な冷たさによるものなのかもしれない。
(冷徹で無慈悲な、王太子殿下……)
愛されなくても仕方がない。ただの“お飾り”お妃になることだって。
けれど、ここで今すぐ斬り捨てられるわけにはいかなかった。命が惜しいわけでは、決してない。ただ偏に、家の為だ。フローレット侯爵家再興の為には、たとえ愛されなくとも、なんとか王太子妃の座に居続けなければならない。
決然と王太子を見つめ返し、リリアは機を狙うようにゆっくりと瞬く。
と、その瞬間だった。ルイスが突然小さく吹き出し、そしてにやりと笑った。まるでリリアを嘲るかのように。
「……なるほどな。顔は、確かに申し分ない」
値踏みするような声に、肩が震えた。今まで“そういう目”で見られたことは山のようにあったけれど。しかし彼の向ける視線は、言葉とは裏腹にとても冷ややかだった。値踏みというより、それはただの――。
「全く無駄なものだ」
侮蔑の滲んだ口調で放たれた言葉を、リリアはすぐに理解することが出来なかった。脳が、或いは心が、本能的にそうすることを拒んだせいで。理解してしまったら最後、何かが崩れてしまうような気がした。それだけはしてはいけない、と、頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響いている。
鏡の前で、泣きながら笑顔の練習をした日々が、ふと脳裏を過った。どれほど疎まれても、何度叱られても。幼いながらに父の愛を求めて重ねた、いくつもの“努力”。それさえも今、全て否定された気がして。
「聞こえなかったか?」
返す言葉もなく、ただ茫然と立ち尽くすことしか出来ないリリアを、ルイスは冷たく嘲笑う。ぞっとするほど整った美しい顔で。すっかり感情の消え失せた赤い瞳でリリアを見据えながら。
「君の父親は、その顔で俺を誘惑しようとしたのだろうが……それが通じるとでも思ったのか?」
心臓が、激しく脈打っている。その頃にはもう、彼の発する言葉のひとつひとつを、リリアは理解してしまっていた。どんなに抗っても、どんなに拒んでも。ルイスの言葉が、鋭い矢となって鼓膜に突き刺さる。
「実に浅はかだ」
賤しむように吐き捨てて、彼はすっと目を細めた。その仕草に、リリアは息を呑む。
けれどもそれは、彼が怖いからでは、決してなかった。
「俺はこの顔を、毎日嫌と言うほど見ているからな」
この世のものとは思えない絶世の美貌が、冷たく歪む。
その一瞬の表情に、ぞくり、と背筋に震えが走った。
「――美貌に、価値などない」
冷淡に放たれた、嘲弄の言葉。それはリリアの胸を深く穿ち、絶望へと追い落とす。
どうすればいいのかなんて、分からなかった。憤慨するべきなのかもしれない。嘆き悲しむべきなのかもしれない。けれどリリアの胸を襲った感情はそのどれでもなく、ただの諦念だった。或いは、途方もない呆れ。
(私は結局、何の役にも立てないのね……)
もしかしたら、と淡い期待を抱いてしまったことを、リリアは自嘲する。
唯一の寄す処だと思っていたそれは、きっとはじめから存在などしなかったのだ。幻想に縋っていただけ。所詮、“侯爵令嬢”とは名ばかりの、ただの落ちこぼれ。異母妹のように世才もない、異能もない。ないないばかりの、役立たず。
それなのに、唯一“取り柄”とまともに呼べそうなものすら利用出来ないと知ったら、父も継母もひどく怒るだろう。結局お前には何もなかったんだな、と言って。家の恥さらし、と怒鳴られるに違いない。
ただひとつだけしかなかった“価値”を否定された今、リリアに残されたものは、何もなかった。そんな役立たずの人間を、王太子であるルイスが必要とするはずがない。
「……婚姻は、なかったことになるのでしょうか」
微かに震えた、力のない小さな声で問いかけると、ルイスの柳眉が僅かに跳ねた。そうして彼は深々と重たい溜息を吐き出すと、苛立たしそうに眉根を寄せる。ひどく面倒くさそうに。
「俺が王太子妃に求めるのは、“お飾り”であることだけだ」
そう言いながら徐ろに立ち上がり、ルイスはもう用はないと言いたげにリリアから視線を逸らす。
お飾り――その一言が、頭の奥に何度も何度も重たく響き渡る。執拗に。“お前”が選ばれたわけではないのだ、と。彼にとって“お飾り”であれば誰でも良かったのだ、と。そう知らしめるかのように。
「それが出来なければ……まあ、最悪殺すことになるだろう」
「で、殿下っ」
セドリックがすかさず声を挟んだが、ルイスの鋭い双眸が彼を射抜く。その一瞥に、セドリックは渋々口を噤んだ。言い方の善し悪しはあれど、ルイスの言っていることにも一理あると分かっているからだろう。
それはもちろんリリアにも十分に理解出来た。いくら用済みの“元王太子妃”といえど、そのまま野放しにすれば何らかの火種に成りかねないというのは、有り得ない話ではないからだ。リリア自身にその意思がなかろうと、周りがそうとは限らない。その上、王太子妃ともなれば、外部に流出してはならない重要機密を知ることにもなる。
火種を事前に揉み消し、漏洩を阻止する為には、“殺す”というのは確かに、間違った選択とは言えない。
けれど、結局――。王族専用の出入り口へ向かって颯爽と歩んでゆくルイスを目で追いながら、リリアは思う。けれど結局、離婚後に待ち受けるものに大きな違いはない、と。ルイスの手によって殺されるか、逆上した父に殺されるか、或いは路頭に迷って野垂れ死ぬか。ここを追い出されれば、どのみち碌な人生は待っていない。
それならば、“お飾り”の王太子妃であることに、苦はない。愛されなくても、必要とされなくても。それでも生きて王太子妃で居続ける限り、少なくとも家の為にはなるのだから。
「……畏まりました、殿下」
自分でも驚くほど落ち着いた、静かな声だとリリアは思う。もっと狂ったってよかっただろうに。そしてその方が、ルイスの狙い通りだったかもしれないけれど。
ぎょっとして振り返ったセドリックには目を向けず、リリアは扉を潜って外へ出てゆこうとするルイスの後ろ姿に、恭しく頭を下げる。――そうする以外に、リリアに残された道はないのだから。それが、自分の存在を貶めるものであったとしても。