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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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光の向こう側

 何かが割れる音が聞こえた。叩かれたのか、それとも落ちたのかは分からない。けれど確かに何かが割れる音が空気の微かな震えとともに聞こえ、それに続いて、怒号のような声だの、どたばたと駆け回る足音だのが、否応なく耳に飛び込んでくる。石と木でできた壁の向こう側から、水の膜を通すようにして届くそれらはぼんやりとしていて、どこか現実味に乏しい。それでも、胸の奥で脈打つ鼓動は容赦なく速まり、嫌な予感ばかりを煽っていく。


 両手で耳を塞いだまま地べたに座り込み、がたがたと大きく身を震わせる年若いメイドをやさしく抱き締めながら、リリアは胸の内で小さく息をつく。彼女の不安を少しでも和らげてあげたいと思うのに、そうしようとする自分自身の腕さえ、気を緩めれば震えてしまいそうだった。


 誰のものかも分からない叫び声、誰が走っているのかも分からない足音。輪郭すら持たないそれらの気配が逆に想像を掻き立て、思考はどんどん悪い方へと突き進んでゆく。どんなに否定しても。どんなに拒んでも。そんな努力は恐怖にあっさりと跳ね除けられ、そうして次々と嫌な光景ばかりが脳裏に浮かび上がってくる。


 目を閉じれば、瞼の裏の暗闇に、あのぐったりと横たわる記憶がまた蘇ってきそうで、瞬きをすることすら恐ろしい。あれは過去の光景だ、と分かっていても。あれはリオネルだ、と理解していても。それでも、あの真っ赤に染まった身体に、どうしてもルイスの姿が重なってしまうのだ。振り払っても振り払っても、それは執拗に、頭に、心に、べっとりと纏わりついてくる。そうなる未来が、すぐそこにまで迫っているのだと。耳元で、まるでそう囁かれているような気がした。もう決まった未来なのだ、と。それから逃げることは出来ないのだ、と。鼓膜に突き刺すみたいに、或いは脳に刻みつけるみたいに、何度も、何度も。


 じわじわと、また脳裏ににじり寄ってくる血の色を、リリアはかぶりを振って追い払う。全てはただの悪い妄想だ。それらは幻であって、現実のことではない、と言い聞かせながら。

 異能は“過去を視る”ものであって、“未来を視る”ものではない、とユリウスは言っていた。これまでの経験からも、彼の言葉は正しいと思う。だから、今どんな光景が頭に浮かんでも、それはこの先に起こる未来では決してないのだ。そんなものでは、ない。絶対に。絶対に――。



***



 今にも泣き出しそうに唇を震わせながら、それでも彼女は、微かに笑みを浮かべていた。凛と背筋を伸ばし、恐怖の渦中にあってもなお、気丈に。

 彼女はどこまでも誠実だと思う。愚直なほどに。その眼差しも言葉も、何もかもが透き通るほど真摯で、だからこそ、それは何に遮られることなく、真っ直ぐに心の奥へと届いてくる。そして彼女の、まるで青空を溶かし込んだように美しい瞳にはいつだって、他の誰の影もない。――兄の面影さえ、少しも。


「屋敷の周囲を確認しましたが、他に不審な人影はありませんでした」

「……そうか」


 床に転がる躯の黒い背から剣を引き抜き、ルイスは小さく息をつく。周囲を見回すと、他にも幾つかの塊が所々に倒れ伏し、或いは壁にもたれ掛かるようにして息絶えている。全身を覆う黒いローブと、顕現者であるということ以外に、彼らに共通するものは何もない。少なくともひとりは生け捕りにするつもりだったが、目星をつけていたリーダー格と思しき男は、戦況が不利と見るや否や、口内に仕込んでいたらしい毒薬を噛んで自決してしまった。無論、身元や所属を示すものは何ひとつ残されておらず、どこの誰に仕え、誰の命で動いていたのか、今のところ判然としていない。


 ただ、闇雲な奇襲でなかったことだけは間違いないだろう。編成の中で最も高い攻撃力を誇るセドリックの力を封じるには、状況はあまりに好都合だった。彼の異能は、その特性上、どうしても場所を選ぶ。草木が多く、建物自体も比較的小規模なベルグローヴ・ハウスは、これ以上ないほど彼とは相性が悪い。こんなところで白炎を使おうものなら、味方にまで影響が及ぶ。


 もっとも、異能を封じられたところで、セドリックの戦闘力が落ちるわけではない。それが彼らにとって誤算だったかどうかは、今となってはもう知る由もないけれど。

 そもそも、彼ひとりの戦力を削ったところで、何になるというのだろう。この別邸の構造も弱点も誰より把握しているのだから、“環境に最も適した戦員”を連れて来ないなどという愚行はしない。


 なにせ今回は――。そう思いかけたところで、視界の端にふと映り込んだ、あまりにも場違いな鮮やかさに、ルイスはゆっくりと顔を上げた。微動だにしない躯の向こう側。窓辺に置かれたゲリドンの足元に、硝子の破片が散っている。大小様々に割れた透明の破片と、そして、踏み潰されて萎れた色とりどりのアマリシアが。


 昼間、偶然出くわした庭師に分けてもらったその花束を、リリアは華奢な両腕いっぱいに抱えて嬉しそうに笑っていた。降り注ぐ陽光よりも、一面に咲き誇る花々よりも、眩いほどに美しく。心から溢れ出す喜びが、幸福が、そのまま表情にこぼれ出たかのように。


「殿下、そろそろお迎えに行かれては如何でしょう」


 刺客を幾人も屠った直後とは思えないほどのにこやかさでそう言い、セドリックは穏やかに顔を綻ばす。そんな彼の薄黄色の瞳を、ルイスは眉を顰めながら見上げる。


「……この格好でか」


 怪我こそ負っていないものの、身につけた衣服は敵の返り血でひどく汚れていた。シャツの袖も、胸元も、ズボンの裾も。吹き出した鮮血がべったりと張り付き、赤黒い沁みを幾つも作っている。こんな格好で迎えに行けば、きっと怖がらせてしまうだろう。或いは、傷を負っていると勘違いし、無用な不安を与えてしまうかもしれない。特にメアリはそういう質だ。


 お前が迎えに行けばいいだろ、と言いかけ、しかしルイスはすぐに口を噤んだ。セドリックの軍服もまた、酷い有様だった。傷こそないものの、そこここに鮮血の痕が滲んでいる。特に右股の辺りは、出血しているのではないかと思うほど、ぐっしょりと赤く濡れていた。


「それは我々も同じです」


 身体を眺めるその視線で意を察したのか、セドリックは苦笑を浮かべてそう言いながら、右手の人差し指で軽く頬をかいた。“真っ先に潰さねばならない戦力”として、恐らくは刺客が最も警戒していたであろう男とはとても思えないほどの呑気さで。戦闘中とそうでない時とで、ここまで人格に落差がある人間も、そういないだろう。


「殿下がお迎えになった方が、リリア様もきっと安心なさるかと。不安を抱かれているご様子でしたし」


 後始末はお任せ下さい、と言い添え、セドリックはふっと目を細めた。善人然としたやさしさを湛えながらも、どこか愉しんでいるようにも聞こえるその声音に、ルイスは深く溜息を吐き、視線を逸らす。

 乱雑に開け放たれた窓から、草花の澄んだ匂いを含んだ夜風が流れ込み、立ち込める血の匂いを、ふわりと浚ってゆく。四角く区切られた深い藍色の空には、無数の星々と、蒼白い丸い月が浮かんでいた。まるで天の彼方から、この惨状を、淡々と見つめているよかのように。



***



 大丈夫。きっと大丈夫――。

 もう何度目になるか分からない呟きを身体中に響かせながら、リリアはメイドを抱く腕に静かに力をこめる。もうどれだけの時間が過ぎたのか、分からない。ひんやりと湿った空気が粟立った肌を撫ぜ、言いようのない気持ち悪さが喉を迫り上がってくる。


 いつの間にか足音は聞こえなくなっていた。怒号のような声も、何かが倒れたり割れたりするような音も。全てが消え去り、本棚の向こうはまるで何事もなかったかのように、しんとしている。それに安堵すれば良いのか、それとも、より深い危機の前触れと捉えるべきなのか判然としないまま、リリアはただひたすら薄闇の中で息を殺す。これがただの悪夢ならどんなに良いだろう、と思った。目覚めを約束された悪夢を見ているだけならどんなに良いだろう、と。


 張り詰めた沈黙の中で、メアリの手にしたランプの炎が、風に煽られたようにゆらりと揺らめく。――その瞬間だった。仄暗い空間に、突然、カシャン、という硬質な音が響いたのは。

 それは、金具か何かが外れたような、微かな音だった。それから、ゼンマイが動き出すような、カタカタとした小さな機械音。思わずびくりと肩が飛び跳ね、抱き締めるメイドの身体もまた大きく震えた。すっかり闇に呑まれ、形も定かでなくなっていた入口を、リリアは半ば睨みつけるように見据える。本棚の向こう側に誰かがいるのは、間違いない。問題は、その“誰か”が味方なのか、それとも敵なのか、ということだ。


 知らず知らず息を呑み、リリアは唇をきつく噛み締める。そこにいるのはルイスたちだ、と信じたかった。彼らはみんな無事で、そして来た時と何ひとつ変わらぬ姿でそこに立っていてくれるはずだ、と。

 けれどその一方で、扉がゆっくりと開かれてゆけばゆくほど、強烈な不安が荒波のように押し寄せてくる。赤く塗られた記憶とともに。メイドを抱く腕に、自然と力がこもる。守るというよりも、まるで縋り付くように。


 扉が完全に開ききり、薄闇に潜んでいた空間へ光が差し込む。その眩しさに、リリアは思わず目を細めるが、それでも視界にはしっかりと、見覚えのある人影が映り込んでいた。艷やかな白銀の髪の毛と、長い睫毛に囲まれた切れ長の双眸。そして、宝石のように深く美しい、凛とした赤い瞳。


 その姿を認めた瞬間、全てがとまった。呼吸も、鼓動も、時間すらも。この空間に存在するあらゆる音も色も一瞬にして掻き消え、そんな世界のただ中に、彼の姿だけがひときわ鮮やかに存在している。

 どうすれば良いのか、まるで分からなかった。声は喉の奥に引っかかり、言葉はひとつも思い浮かばない。身体は石のように強ばり、指先ひとつ動かせず、リリアはただ呆然と、光の中に佇むその姿を見つめることしか出来なかった。


「お待たせいたしました」


 落ち着いたやさしい声が鼓膜に触れ、リリアの中で張りつめていた何かが、ふいにほどけていく。ぼうっとしたまま幾度か瞬きを繰り返し、そうして漸く、少しずつ視界が開けてゆくと、中を覗き込むように立つエリオットと視線が交わった。端正な顔に、あたたかな笑みがふわりと浮かんでいる。


「このような姿ではありますが、皆、無事です。どうかご安心ください」


 その言葉に、傍らから、ほっと安堵する気配がこぼれた。喜びの声をあげたのはメアリで、それに続いて、メイドが微かに鼻を啜る。泣き腫らした彼女の目元は、痛々しいほど赤く染まっていた。長い睫毛に、小さな涙の粒が僅かに張り付いている。


 エリオットに促され、先に腰を上げたのはメアリだった。リリアはメイドの身体をそっと支えながら、ゆっくりと立ち上がる。少しふらついたが、それでも彼女はどうにか姿勢を保ち、前へと足を踏み出す。そんなメイドに付き添いながら、いざ一歩足を動かした――その瞬間、ぐらりと視界が揺れたのは、リリアの方だった。


「あっ……」


 力が抜ける、という感覚すらないまま、気づけば身体はその場に崩れ落ちていた。膝が床に触れ、反射的についた掌から、冷たい石の感触がじんわりと広がってゆく。リリアは戸惑いに目を瞬かせながら、光に照らされた自分の手の甲を見下ろす。立ち上がれたのだから、歩けるはずだ――なんて、そんなふうに考えることすらなかった。全てが自然に、身体は動いていたはずなのに。何の問題もなく。だから、今になって崩折れるだなんて、思いもしていなかった。


「まあ! 大丈夫ですか、リリア様!」

「すみません……少し、気が緩んでしまったようで」


 慌てて駆け寄ってきたメアリに苦笑を向け、メイドに身体を支えながら、リリアはどうにか立ち上がる。そうして吸い寄せられるように、ルイスへと目を向けた。揺るぎなく、真っ直ぐと。エリオットの後ろに佇んでいたはずの彼は、いつの間にか本棚に片手をつき、通路――或いは部屋――の中へ、半ば身を乗り出すように立っていた。そんな彼と視線が重なった瞬間、リリアはふっと、やさしく微笑んだ。胸の奥から湧き上がる喜びと安堵のままに。


「――ご無事で何よりです、殿下」

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