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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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花言葉に託された想い

 まるで踊るような足取りで畦道を進む後ろ姿を、ルイスは何故だか胸の締め付けられるような、どこか切なさに似た気持ちで眺めていた。縁に繊細なレースの施された白い日傘、ふわりと軽やかに靡くドレスのやわらかな裾。リボンで結わえられたピンクブロンドの三つ編みが、彼女の動きに合わせて波打つように揺れる。


 僅かに身を傾け、風にそよぐアマリシアにそっと鼻を寄せて匂いをかぐ彼女の、静かに伏せられた目。長い睫毛が白い肌に儚げな影を落とし、けれどすぐに、開かれた薄い瞼の裏から、青空のように澄んだ瞳が姿を現す。


 咲き誇る色とりどりの花々に囲まれながら佇むその姿は、まるで太陽そのものから生まれたかのように清らかで、言葉にならぬほど美しかった。頬を撫でる風に目を細める仕草。艷やかな髪の毛に散らばる光の粒。色の白い、けれど仄かに血色の良い頰。降り注ぐ陽光以上にまばゆく、太陽というよりも寧ろ、童話などに出てくる花の精の方が近しいのかもしれない、と、らしくもないことを考えて、ルイスは胸の内でひっそりと苦笑をこぼす。彼女を見つめていると、そのあまりの清廉さに、見てはいけないものを見てしまったような、そんな戸惑いと衝動が胸の奥を掠める。視線を逸らすべきだと分かっていた。けれど、まるで視線が空に縫い止められてしまったかのように、どうしても彼女の横顔から目が離せない。


 いや、彼女の横顔にではなく、彼女そのものに心を奪われてしまっているのだ、と、そう気付いた時にはもうどうしようもなかった。見つめれば見つめるほど、視線が離れられなくなればなるほど、ひどい自己嫌悪で、胸の奥がずしりと痛む。それは後悔と強い苛立ち、そして、途方もなく深い哀しみ。“自己嫌悪”というひとつの感情の中に、それだけたくさんの様々な感情が入り混じり、渾然一体となっているのだということを初めて知った。


 無論、今さらどれだけ悔いたところで、赦されるわけがないことなど、分かっている。どう取り繕おうとも、あの夜の蛮行が愚かで、到底許し難いものであることに変わりはないのだ。その自覚は、ある。

 そうだというのに――胸の内でひっそりと自嘲をこぼしながら、ルイスはゆっくりと階段を降りてゆく。視線はリリアに据えたまま。見惚れていると気付いてしまった今となっては、もう、それを逸らす言い訳はひとつもない。


 あんなことをした自分に、その資格はないと、分かっている。けれど、どんなに自虐が重く伸し掛かってこようとも、どうしても彼女から目を逸らすことが出来なかった。嬉しそうに振り向き、思わず目を細めてしまいそうなほど眩いきらびやかな笑顔から。


 ――だから彼女は、ありのままの君を見つめてるんだよ。


 ふいに、風が吹き抜けた。どこまでも穏やかで、けれど確かな力をもって、花畑をゆっくりと横切ってゆくあたたかな風。鮮やかに咲く花々が、まるで呼吸を揃えたかのように、一斉に身を揺らす。さわさわと、絹を撫でるような音が辺りに満ちて、風の通った跡が、ひときわ柔らかな波となって花の海を靡かせてゆく。


 ――君という存在そのものを。曇りのないまっさらな瞳で、真っ直ぐに。


 陽を透かした薄い花弁が、風に掬われ、どこからともなくふわりと浮かび上がる。淡く空気を彩る甘やかな香りが鼻先を掠め、胸の奥にすうっと溶けて沁み込んでゆく。疼く心を、まるでやさしく包み込むかのように。


「……すまなかった」


 それは、風の切れ間にふとこぼれた、静かな声だった。落ち着いていながも、胸の奥で長く燻り続けていたものが漸く滲み出たような、静かで重みのある声。

 何を言われたのかすぐに理解することが出来なかったのか、リリアは呆気にとられたように目を瞬かせていた。日傘の作る、仄暗い日陰の下で。ゆるやかな風にリボンの先が揺らめき、やわらかな前髪が頬を掠める。


 やがて、彼女の肩が微かに震えた。そっと日傘を傾け、リリアは顔を俯かす。そのかんばせに、先ほどまでの穏やかな笑みは少しもない。どこか憂いを帯びた、張り詰めたような表情。怒るわけでも、責め立てるわけでもなく。ひどく悲しんでいるように見えるその顔に、ルイスは無意識に右手を握り締めた。


「君を傷つけたかったわけでも、泣かせたかったわけでもない。ただ……」


 赦してほしいわけではない。赦されるとも思っていない。たった一言謝ったところで、あの夜の出来事を、なかったことには出来ないのだから。責められて当然の過ちだと、分かっている。


 それでも――。握り締めた右手にぎゅっと力を込めながら、ルイスはゆっくりと瞬く。それでも、言わずにいることだけはできなかった。ただの身勝手な贖罪でしかないけれど。しかし、たとえ彼女に届かなくとも、それを言葉にせず、黙ってやり過ごすことだけは、どうしても出来なかった。


「それでも、君を深く傷つけてしまったことには、変わらない」


 長い沈黙が落ちた。草花の揺れるさわさわとした葉擦れの音だけが、二人の間をゆるやかに流れてゆく。

 リリアは顔を伏せたまま、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。日傘の縁からこぼれる陽光が、やわらかな白い頰を淡く照らしている。そんな彼女を見つめたまま、ルイスは一歩も動けなかった。彼女のその沈黙が、返事の全てであるように思えて。喉の奥が焼けつくように乾いて、指先の力を抜くことも出来ない。


 ひときわ強く吹き抜けた風が花畑を揺らし、波が引いた後のような静寂の中で、ふと、リリアの睫毛が震えた。そうして、伏せられていた顔がゆるゆると、けれど確かな意思を感じさせる動きで持ち上がる。日傘の影から現れた青い瞳が、少しの躊躇いもなく、ルイスの双眸を真っ直ぐにとらえた。怒りも憐れみもまるでない、どこまでも深い慈愛に満ちた、やさしい眼差し。ルイスは思わず息を呑む。蒼穹を思わせる澄んだ青色に宿る凛とした輝きの、あまりの美しさに。


「……もう、いいのです」


 そう言って彼女はふわりと笑い、果てなく続く花畑へと目を向けた。


「辛くなかったわけではありませんし、悲しくなかったわけでもありません。どうして、と、そう思わずにはいられないことも、ありました」


 自嘲とも苦笑ともつかない微笑みを湛えたまま、リリアは弄ぶように日傘をくるりと回す。レースの網目からこぼれる光の粒が、切なげな目元に淡く散らばっている。まるで、彼女が嘗て流した涙の記憶を、静かに映し出しているかのように。


「ですが、謝らなければならないのは、私もまた同じなのです」


 風に揺れるアマリシアの花々が、やさしい色の波となって穏やかに揺蕩っている。その波を見つめていた瞳がふいに動き、再びルイスを見つめた。切なさと悔恨の滲む、けれどどこまでも真っ直ぐな瞳。リリアはほんの一瞬、躊躇うように睫毛を伏せ、それから、ふわりと儚げに微笑んだ。


「殿下の過去を、あの日、思いがけず視てしまいました」

「あれは、意図したことではないだろ」

「ええ。……ですが、それでも、触れてはならないものに触れてしまったことに、変わりありません」


 そう口にした後、リリアは僅かに視線を落とした。何かを思い出し、そして、それを胸の内で噛み締めるように。


「ずっと、後悔していました。悔やんで、悩んで……自分で自分を、何度も責め続けて。けれど、ユリウス様に言われたのです。……過度な自責で自らを追い詰めるのは愚か者のすることだ、と」


 そう語る声は、どこまでも穏やかだった。心をやさしく包みこんでくれるような、まるで真綿のような声。


「過去を視てしまったことは、どれだけ謝っても赦されるものではないと、分かっています。だからこそ私は……悔やみ続けるのではなく、前に進むことを選んだのです」


 いつの間に彼女は、こんなにも強くなったのだろう――。陽光に照らされながら微笑むリリアを見つめながら、ルイスは思う。

 謁見の間で初めて相対した時の、あのひどく怯えた姿はもうどこにもない。手折ればすぐに崩れてしまいそうな繊細さを持ちながらも、しかし、今ルイスの目の前に佇む彼女は、強い光を瞳に宿し、気高く、そして凛としている。

 思わず目を細めてしまうほど眩いその姿を、ルイスはただじっと見つめていた。見つめていることしか、出来なかった。


「あの過ちをただ悔やむのではなく、前へ進み、新しい自分になることこそが、殿下への償いだと、そう思ったのです」


 ただの自己満足なのでしょうけれど。そう言い添えて、彼女は含羞を滲ませながら微笑む。一面を埋め尽くす色とりどりのアマリシアと、目が眩むほどの鮮やかな青空。それらを背景に、白い日傘を傾けて佇むリリアの姿を、出来うることなら絵画に焼き付けて残しておきたい、と思った。甘やかな香りと、陽射しのぬくもりも溶け込ませ、それらに包まれた今この瞬間の、弾けるような笑みを、鮮明に。


 ――異能を制御出来るようになりたいから、あと少しだけ力を貸してほしいんだってさ。それも君の為っていうんだから……ほんと、健気なもんだよねえ。


 そう言って肩を竦めていたユリウスの、呆れの滲んだ顔を思い出しながら、ルイスは僅かに目を細める。

 リリアの言う“前へ進む”が、“異能を制御すること”であり、それが彼女なりの“償い”なのだとすれば――。あの夜、彼女を傷つけてしまった自分にとっての“償い”とは、いったい何なのだろう。己の痛みだけでなく、あまつさえ他人の痛みまで引き受けて、なお前へ進もうとする彼女のように。自分には、果たして何が出来るのだろう。



***



 大きな硝子の花瓶にたっぷりのアマリシアを活け、リリアはそれを、リビングの端に置かれたゲリドンの上に飾った。花畑の手入れをしていた庭師に偶々出くわし、折角なのでと分けてもらったそれは、土を離れてもなお甘く上品な匂いを漂わせ、絹のようにやわらかな花弁をふわりと元気に広げている。


「まあ、とても綺麗なアマリシアですね」


 横から覗き込んだメアリが、うっとりと目を細めながら微笑む。草花の豊かなベルグローヴ・ハウスの庭園の中で、アマリシアが生えているのはあの一箇所だけなのだと教えてくれたのは、玄関先でバルドの世話をしていたエリオットだった。


「そういえばリリア様、アマリシアにはとても素敵な花言葉があるのをご存知ですか」


 ふと花瓶から顔を上げ、リリアはぱちりと瞬きながら、隣に立つメアリへと目を向ける。


「花言葉……ですか?」


 ええ、と朗らかに頷いたメアリは、ひときわ背の高い一本をそっと抜き取り、慣れた手つきで茎の先を切り落とす。その白くふっくらとした手指の上で、窓から差し込む木漏れ日がちらちらと揺れている。空気までもが光の粒を含んでいるような、きらきらとして明るい、あたたかな窓辺。


 切り直した花を再び花瓶に戻し、幾重にも重なった鮮やかな花弁を見つめながら、メアリはふふっと笑った。どこか楽しげに。そして、とても嬉しそうに。


「“あなたを守る”――それが、アマリシアの花言葉です」


 その言葉が鼓膜に触れた瞬間、リリアは思わず息を呑んだ。それは忽ち、胸の奥底にまで深く沁みこんでゆき、あたたかい何かがやさしく心を撫でる。ぽうっと、灯りが点ったような。或いは、春風に包まれたかのような。


 けれどもそれはやがて、きゅっと胸を締め付ける。つんとした痛みとともに、心を掴まれた感覚。それは切なさによく似ている、と思った。けれど、切ないわけでも悲しいわけでも、決してない。切なさによく似た、それは喜びだった。少し苦しくて。くすぐったくて。思わず顔が綻んでしまうほどの、やさしい喜び。


「殿下は、不器用な方でいらっしゃいますから。きっと、アマリシアに想いを託されたのでしょうね」


 もしそうであるなら、どんなに幸せなことだろう。そう思いながら、リリアはゆっくりと目を伏せる。瞼の裏に今も鮮明に残る美しい花畑と、その花に託されたやさしい言葉。そして、胸の奥に広がるぬくもりを、静かに、深く噛み締めて。


 ――冷たい魔の手が、すぐ傍にまで忍び寄っていることなど、露ほども知らずに。

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