王城の扉が開くとき
出立の日の朝は、雲ひとつない、突き抜けるように澄んだ青空だった。前夜の雨がまるで嘘のような快晴。その清らかな蒼穹だけが、門出を祝してくれているような気がした。
(見送りは、結局誰も来てくれなかったわね)
馬車の車輪が石畳をゆっくりと転がる音を聞きながら、リリアは伏せていた瞼をそっと上げる。緊張でこわばった身体に、馬車の振動が鈍く響く。街の喧騒は疾うに薄れ、ひとりしか乗っていない車内はしんと静まり返っている。
フレデリクの言葉通り、数日後に婚姻の正式な知らせが届けられた。
それからは応接間にこもって、礼儀作法やふるまいをひたすら詰め込む毎日だった。挨拶、食事の所作、ダンス、歴史に政治学――。基礎はあるとはいえ、それでも学ぶことが多すぎて、一日があっという間だった。本来なら“婚約”を経てじっくり身につけるはずのことを、早急に、無理矢理叩き込んでいたのだから。もちろん結婚後にも王太子妃教育はあると聞いているけれど、せめて公の場に出ても恥ずかしくないだけの教養は身につけておかなければならなかった。
そして今日、いよいよ王太子と初対面を迎える。
オルフェリア王国の未来を背負う、俊英と名高い若き後継者――ルイス・クラウディウスに。
ルイスのことについてリリアが知る情報はとても少ない。
歳が三つ上で、王家直属の師団を指揮していること。銀髪赤眼の、絶世の美貌を持っていること。そして、治癒の異能を持つ“選ばれし者”であるということ。
異能とは、神から与えられた特殊な能力のことを指す。能力を発現した者は“顕現者”或いは”神に選ばれし者”と呼ばれ、国家の戦力として重んじられる。異能の種類や数は、そのまま国の軍事力に直結するといっても過言ではないからだ。
故に、戦闘向きの異能は重宝され、重要な“国家財産”として扱われる。代表的な例では、現国王であるレオニス・クラウディウスだろう。彼は戦闘系の強力な異能を用いて、先の戦争では数多の武勲を挙げたことで知られている。
(異能、ね……)
フローレット侯爵家で異能を発現させたのは、当主であるフレデリクと異母妹のカトリーヌだけだった。顕現者の輩出は、その家の名誉となる。特にカトリーヌのような、出生直後から異能が発現した“祝福児”は尚の事。そんな彼女が一族の誇りとなり、惜しみない愛情を注がれていたのも、ある意味当然だった。
(私には、いつだって関係のない話だったわ)
そう思いながら窓の外へ目を向け、流れ行く景色をぼんやりと眺める。王城の庭園は、まるで絵画のように整いすぎていて、どこか現実味がない。白いガゼボ、満開の藤の花が垂れ下がったパーゴラ、丁寧に刈り込まれた灌木、びっしりと植えられた純白の薔薇。
(大丈夫。きっと大丈夫よ)
膝の上で握った手に力をこめながら、リリアはそっと目を伏せる。
カトリーヌのように世才もなければ、異能もない。ただあるのは、唯一その価値を認められた“容姿”だけ。
本当にそれが役に立つのかは、リリア自身にはまるで分からない。なにせ王太子自身が、この世のものとは思えないほどの美貌を持っているという噂なのだから。
けれど、リリアにはもう他に道がなかった。逃げることなんて、出来るはずがない。
この身を捧げることで家の役に立ち、そして少しでも父に認めてもらえるのなら――今はその一縷の望みに賭けるしかない。
「そろそろ到着いたします」
傍を並走する護衛の声に、リリアは緊張の面持ちを隠せないまま、静かに頷いた。
***
王城の正面玄関で馬車が停まった瞬間、緊張のせいで心臓が跳ねた。
遂に着てしまった――。怖いとも悲しいともつかない複雑な想いが胸に込み上げ、リリアは僅かに顔をこわばらせる。こんなところでたじろいでいてはいけない。そう分かっていても、一歩を踏み出す勇気を振り絞るには、ほんの少しだけ時間が要った。
御者の手によって開かれた扉からゆっくり外へ出ると、大理石でできた階段の下に、やわらかなアンバー色の髪をした青年が立っていた。身なりからして、恐らくは王国軍の人間だろう。左の胸元に、顕聖隊――顕現者のみで構成される部隊――のバッジがついている。
「ようこそお越しくださいました、リリア・フローレット様。私はセドリック・エルンスト。王太子殿下の従者を務めております」
落ち着いた声で簡潔な挨拶をし、彼は端正な顔に柔和な笑みを浮かべた。久しぶりに悪意のない笑顔を向けられ、リリアは一瞬呆気にとられる。嘲笑を受け流すことには慣れているのに。こういう時にどう反応していいのか、すっかり忘れてしまった。
「初めまして、セドリック様。お出迎え、ありがとうございます」
セドリックはエルンスト公爵家の嫡男であり、王太子が最も信頼を寄せる従者のひとりとして、王都でもその名を知られている。
つまり王太子自ら、セドリックに出迎えを頼んだということだろう。得体の知れない妻の“監視役”として。そう思うと、背筋がひとりでに伸びた。きっと一挙手一投足、視線の動きすら見られているに違いない。
「謁見の間までご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
促されるまま、リリアはセドリックの後に続いて、王城の奥へと足を踏み入れた。
静謐な空気の漂う廊下に、アーチ型の窓から差し込む春陽があたたかく広がっている。天井に描かれたフレスコ画、精緻な金細工の施された柱、白と黒のモザイク柄をした床、神話の登場人物や植物を象ったレリーフ。左右の壁には大きな鏡と絵画が、窓と窓の間を埋めるように交互に飾られ、所々に掲げられた硝子の燭台が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。
あまりの豪奢さに、リリアは思わず目を瞠る。嘗て商売で大きな財を成したフローレット侯爵家の屋敷も、なかなかに華やかではあったけれど。しかし、やはり国の頂点に立つ王家の住まいのそれには、遠く及ばない。
(こんな場所で、私、本当にやっていけるのかしら……)
先をゆくセドリックは、振り返ることもなければ、声をかけてくることもない。
そんな彼の背中をじっと見つめ、リリアは胸の中で静かに溜息をつく。気を緩めれば不安が顔に出てしまいそうで、怖かった。心は決めたはずだったのに。それなのに、一歩進めば進む度、その決意が揺らぎそうになる。
(だめよ。しっかりしなくちゃ)
やがてセドリックは、堂々たる存在感を放つ豪華な扉の前で足を止めた。
細かな金の細工がびっしりと施された、アーチ型の重厚な扉。てっぺんには王家の紋章と、建国の折りに授かったという神の御言葉が刻まれている。そんな扉を護るように、傍らには初代国王の白亜像が鎮座していた。来訪者の心中を見透かすような、その無機質な瞳に、リリアは思わず視線を逸らす。
「こちらが謁見の間です」
穏やかに告げたセドリックの声に、リリアは心臓がとくりと反応する。この扉の向こう側に、王太子が――伴侶となる男性が、いる。そう思うだけで、指先がじんわりと冷たくなるような気がした。
「ご準備が整いましたら、お声がけください。……ご無理はなさらずに」
そう言いながら、セドリックはリリアを気遣うように、やさしく微笑む。それが彼本来のものであるのか、それとも作られたものであるのかは、分からない。けれど、まるで春の太陽のような爽やかなその笑顔に、リリアの胸は少しだけ和らいだ。
(この先に、王太子殿下が待っている……)
もうここまで来てしまったのだ。立ち止まるわけにも、引き返すわけにもいかない。前に進むことしか、リリアには許されていないのだから。
絨毯の上に広がるやわらかな裾を見つめながらゆっくりと深呼吸し、リリアは意を決して顔を上げた。
「……お願いします」
微かに震える声で紡がれた言葉を受け、扉が静かに開かれる。
その瞬間、リリアを包む空気が一変した。まるで肌に刺さるような冷たい空気。その異様な重苦しさに、背筋が震えそうになる。鼓動が煩くてたまらない。身体中の神経が張り詰め、うまく呼吸することすらままならない。
空気に呑まれ怯みそうになる心を叱咤し、リリアはもう一度静かに深呼吸をしながら、真っ直ぐ据えた視線で、謁見の間の最奥を見つめる。
金縁の施された、真紅のカーペット。その先に置かれた椅子に、ひとりの男性が腰掛けていた。長い脚を組み、豪奢な彫り込みのされた肘掛けに頬杖をつく、小柄な男性。
その姿を認めた瞬間、リリアは思わず息を呑んだ。恐怖からではなく――今までに見たことのない、あまりの美しさに気圧されて。見惚れた、と言った方が正しいのかもしれない。どこか気怠げなその佇まいすら、実に上品だった。まるで、この場の誰よりも“王の座”にふさわしいと告げているかのように。
そんな彼から、リリアは目を逸らすことが出来なかった。視線を縫い止められてしまったみたいに、少しも。ただただ呆然と、その美貌を見つめていることしか出来なかった。