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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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甘やかな残り香

「――私から殿下を奪ったのは、貴女ですのね」


 そう囁いた声は、どこか愉しげだった。それでいて、彼女の纏う花のような香りによく似た甘美な声。

 けれども、その声で紡がれた言葉は、辺りに漂う長閑だった真昼の空気を、一瞬にして切り裂いた。忽ち張り詰めた静寂が落ち、傍らで、テオが息を呑む気配がする。それでも彼女は婉然と笑っていた。沈んでしまいそうなほど深い青色をした瞳で、リリアの双眸を真っ直ぐに見つめながら。


 何を言われたのかすぐには理解が追いつかず、リリアはただその場に立ち尽くす。それでも、どこか試すような彼女の微笑に、背筋が微かに粟立った。胸の内が、ひどくざわついている。まるで嵐の前の海に漂う、重たく湿った灰色の波のように。息を吸おうとする度に、そのざわめきが喉元に纏わりついて、気づけば呼吸が浅くなっていた。


 ルイスに恋人がいたなどという話は、聞いていない。それらしい相手がいたという噂すら、一度も。

 けれど、それは単に“聞かされていなかった”というだけで、本当は存在していたという可能性は否めない。クラリスやモーリスたちのやさしさを思えば、彼らがそういう判断をするだろうことは容易に想像出来る。


 本当に彼女は、ルイスの恋人だったのだろうか。或いは、今もそうなのだろうか。しかし、ならば何故、ルイスは恋人ではなく、何の取り柄もない侯爵家の娘をわざわざ――。


「そういう余計な冗談やめてくれないかなあ。ただでさえ面倒なことになってるっていうのに」


 突如差し込まれたその声は、たっぷりと呆れを含みながらも、場の緊張を一気にほぐしてしまうほどの余裕と落ち着きを湛えていた。おかげで、こわばっていた身体からふっと力が抜け、リリアは漸くまともに息をつく。花のような、砂糖菓子のような、甘やかな香水の匂いとともに。


 女性はリリアを見据えたままゆったりと身を離すと、真っ赤な唇の両端を上げ、ふふっ、と優艶に笑った。冷たさも刺々しさもまるでない、ただただ純粋に面白がっているような笑み。


「彼女をからかうと、ルイスの癇に触れるから気を付けた方がいいよ」

「まあ、それはそれは……とても恐ろしいわね」


 言葉とは裏腹に、気にする素振りも、悪びれた気配もまるでない声に、深々と吐き出された溜息が重なる。鉛のようにずっしりと重たげなそれの落ちた方へ目を向けてみると、そこには両腕を組んだユリウスが、気怠げに扉へもたれながら立っていた。


「でも、殿下を怒らせるのには疾うに慣れていてよ」


 ふっと息を吐くように目を細めながら、彼女は肩に垂れた艷やかな黒髪を、片手でゆるやかに払いどける。たったそれだけでも、つい目を奪われてしまうほど、彼女の所作はひとつひとつに無駄がなく、とても優雅だ。すんなりとしていながら、その実、指の先にまでしっかりと意識が張り巡らされているような整った動き。


「そうやってすぐ愉しもうとするからさあ。だから質が悪いって言われるんだよ」


 肩を竦めるユリウスに、彼女はころころと、鈴を転がすような笑い声を立てた。まるで緊張感や呆れすら、戯れの一興として味わっているかのように。

 そんな彼女の様子にユリウスはもう一度溜息を吐き出すと、気まぐれな猫でも追い払うかのように、しっしっ、とぞんざいな動きで片手を振った。


「とにかく、さっさと帰った帰った」

「あら、酷いのねえ。貴方が呼び出したんじゃないの」


 不服そうにユリウスを一瞥したが、しかし次の瞬間にはもう元の美しい笑みを湛え、彼女はリリアへ目を向けた。慈しむように綻んでいながら、少しもその現実味を感じられないネイビーブルーの瞳。恭しく一礼をする彼女の、僅かに睫毛の影が落ちた目元を見ながら、まるで造り物のようだ、とリリアは思う。精巧に造られたビスクドール。


「それでは、妃殿下。ごきげんよう。またお会い出来るのを楽しみにしておりますわ」


 摘んでいたドレスの裾から指先を離すと、彼女はすっと背筋を伸ばした上品な歩みで、階段へと続く廊下を軽やかに進んでゆく。貴婦人然とした、流れるような所作で。一切の淀みなく、一度も振り返ることもなく。ひんやりとした廊下に靴音が響く度、まるで濡れたように美しい黒髪の先がふわりと揺れる。その後姿を、リリアはただ茫然と見送ることしか出来なかった。彼女の身につけていた、花のような、或いは砂糖菓子のような、あの甘やかな残り香に包まれながら。


「さっきのは気にしなくていいよ。ただの戯言だから」


 ほっそりとした後ろ姿が曲がり角の奥に消えて漸く、ユリウスはやれやれと肩を竦めながら、扉からゆっくりと身を離した。踵を返した大きな背中で、細く編み込まれたラベンダーグレイの毛先が小さく揺れる。


「なんでそう言い切れるんですか。もしかしたら、ってことも……」


 すかさず問いかけたテオの声には、微かな緊張と、言いようのない不安が滲んでいた。こわばった表情のまま、彼はちらりとリリアに視線を送り、すぐにまたユリウスを見つめ直す。薄く日に灼けた健康的な色の喉仏が、こくり、と上下し、その微かな動きによって、鼻先に漂う甘やかな香りがほんの少しだけ震えたような気がした。


「何でって言われてもねえ」


 ユリウスは、部屋の中央に置かれたテーブルの上から紙の束を片手で掴み上げると、その端で、とんと右肩を軽く叩きながら振り返った。いつもと変わらぬ、掴みどころのない微笑を湛えて。


「――だってあいつ、“男”だよ」


 あまりにもあっさりと、まるで何でもないことのように自然と放たれたその言葉に、リリアとテオは、ぴたりと動きを止めた。沈黙が、三人の間にすうっと落ちる。


 ユリウスが何と言ったのか。何を言われたのか。すぐに理解することはとても出来なかった。出来るはずがなかった。あの白磁のように滑らかな肌を、くっきりとした目を、夜空を溶かし込んだような瞳を、真っ赤に染められた薄い唇を思い出せば思い出すほど。何もかもが、どんどん分からなくなってゆく。美しく着こなされたバッスルスタイルのドレス、胸元で輝く蝶のブローチ。濡れたように艷やかな黒髪、やわらかそうな白い耳朶につけられた赤いピアス――。


「お、お、おとっ……!?」


 微かに震えた素っ頓狂な声に弾かれ、リリアはまるで息を揃えたみたいに、テオとふたりで、彼女――彼の消えた廊下の先へと顔を振り向ける。そこには、窓から差し込む陽光に照らされた壁や床板があるだけで、黒髪の揺れる華奢な後ろ姿はもうどこにもない。けれどもまだそこに、あのすっと伸びた背中があるような気がして、リリアは思わず息を呑む。それだけ衝撃的で、印象的だったのだ。深青色の瞳も、鮮やかな赤色をした唇も、その全てが。


「……そういう趣味なんですか、あれ」

「趣味っていうか、まあ、それは否定しないけど。でも、今は“そういう設定”ってだけ」


 掴んでいた紙の束を、デスクの上にまるで放るようにして置き、ユリウスはテーブルを挟むようにして置かれた臙脂色のソファにどさりを腰を下ろす。

 そんな彼の、にやりと上げられた口角を見つめながら、ああ――とリリアは納得する。“そういう設定”というのは、つまり、彼は諜報を生業としている人間なのだろう。何らかの仕事の為に女性に扮して、与えられた役を演じているだけ。そしてそれをユリウスが知っているということは、彼に仕事を依頼したのは他でもないユリウス本人だ、ということまでが、すとんとお腹の底に落ちてゆく。少しも支えることなく。一度理解してしまえば、それを呑み込むのは意外と容易なことだった。


「あいつに気に入られないようにしときなよ。僕よりよほど変人だから」


 真面目ともからかいともつかない、いつもの飄々とした口ぶりで言いながら、ユリウスはテーブルの上に置きっぱなしにされていたカップをのんびりと持ち上げる。その横顔にじろりと目を据えたまま、すっと顔を寄せてきたテオが、口元に手を添え、控えめな声でぽつりと呟く。


「……変人って自覚、あったんですね」


 驚き半分、呆れ半分といった声に、リリアは一瞬目を瞠り、それからくすくすと笑った。ユリウスほど洞察に長けた人間なら、自分自身のことくらい、誰よりも正確に把握していることだろう。善くも悪くも、恐らくはとても冷静に。


「とりあえず、お茶でも淹れてきてくれる? いつまでもそこに突っ立ってないでさあ」


 どこまでも軽く、肩の力の抜けたような声でそう言いながら、ユリウスは長い脚をゆったりと組み替える。そうしながら、彼の目は早々にテオから離れていた。まるで“もう君の出番は終わり”とでも言うように。

 それでもテオは、最後にリリアをちらりと振り返り、小さく頭を下げてからその場を足早に去っていった。リリアの連れてきた侍女とともに。


 彼がいなくなると、廊下はひどく静かになった。ルイスのように威厳があるわけでも、“女装の彼”のように存在感があるわけでもないけれど。それでも、場を明るく賑やかにする何かが彼にはあるのだろう、と、リリアはふっと口元を綻ばせながら思う。兄貴分たちに可愛がられているのもよく分かる。


「……さて」


 室内から聞こえてきたその声音には、先程までの軽口とはまるで違う響きがあった。どこかやさしくも冷たくもあるその静けさに、リリアは自然と背筋を正す。こちらを真っ直ぐに見据えるオッドアイは、窓から差し込む陽光を浴びて、淡く輝いているように見えた。


「そろそろ本題に入ろうか」

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