母の面影
イザベルに連れられて執務室に着くと、そこには既に異母妹のカトリーヌと、フローレット侯爵である父、フレデリク・フローレットの姿があった。
イザベルの数歩後ろをおずおずとついてゆくようにして入室したリリアを、フレデリクはデスクに肘をつき、神妙な面持ちで見据えていた。侮蔑の滲んだ、陰険な目で。
けれど、今日のそれは――なんだか、いつもと少しだけ違って見えた。
何かあったのだろう。 そう思わせるだけの、重苦しい空気が室内に満ちている。
きっと、いい話ではない。
直感的にそう思いながら、リリアはいつものように扉の傍で足を止めた。ソファに腰掛けるカトリーヌやイザベルから離れた場所に。まるで侍女が控えるようにして。
「……ご用でしょうか、侯爵様」
この家でフレデリクを“お父様”と呼べるのは、異母妹のカトリーヌだけだった。フローレット侯爵家の長女であり、フレデリクと血の繋がりも確かにあるリリアは、しかしその権利を持たない。
お前など、私の娘ではない――そう言われたあの日から、リリアは家族の一員ではなくなったのだ。
フレデリクはリリアを一瞥し、机の上の書類に目を落としたまま、低い声で言い放つ。
「──王太子との婚姻が決まった」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
もしかしたら聞き間違いかもしれない。そう思おうとしたけれど、意に反して、頭はその言葉を理解してしまう。否定のしようがないほど、はっきりと。
「……私、が……ですか?」
リリアの声は、か細く震えていた。
「この結婚は家のためだ。お前に選択肢はない」
フレデリクが王家と繋がりを持ちたいと考えるのは、至極当然のことだろう。侯爵家でありながら、先の戦争で抱えた莫大な借金と、新規航路開拓に伴う貿易赤字により、フローレット家は今や火の車なのだから。没落寸前――貴族たちの間でそう囁かれていることは、滅多に外へ出ないリリアでも知っている。そんな現状を打開するのに、王家との繋がりはこの上ない方法だ。
しかし何故、愛娘であるカトリーヌではないのだろう。彼にとっては自慢の“一人娘”だというのに。
突然のことに戸惑うリリアをよそに、フレデリクは顔も上げず、まるで事務連絡でもしているかのように淡々と続けた。
「正式な布告は近日中に届く。それまでに、礼儀作法やふるまいの復習でもしておけ。王太子妃が無様では困るからな」
言っていることを理解は出来ても、それを呑み込めるのかといえば、そうではない。
訊きたいことはたくさんあった。何故カトリーヌではないのか。何故“婚約”ではなく“婚姻”なのか。喉に支えている疑問のひとつでもまろび出れば、きっと、堰を切ったように色んな問いかけが溢れ出てくるだろう。
けれどなにを訊いても無駄であることは、もう分かっていた。リリアはそっと目を伏せ、臙脂の絨毯を見るともなく見つめる。
「お姉様でも、王太子妃になれるのですね。やはり“そのお顔”を気に入られたのかしら」
ふふっ、と、嘲りの滲んだ笑い声が聞こえた。リリアは返す言葉もなく、ただ俯いたまま立ち尽くす。
「でも、随分お目が低いのね、王太子殿下って。お姉様なんて、お顔以外に何の取り柄もないのに」
言葉の最後の方はもう、嫌悪を隠そうともしない声だった。王太子妃に選ばれたのが、“落ちこぼれの異母姉”だったことを、彼女はまだ受け入れられていないのだろう。
けれどそれは、リリアもまた同じことだった。器用でもない、要領良くもない。淑女に必要な才があるわけでもなく、ましてや――国を救う“異能”があるわけでもない。そんな自分が王太子妃に選ばれたことが、リリアには不思議でたまらなかった。
けれど、もし――。ゆるゆると顔を上げ、書類に視線を落としたままのフレデリクのかんばせを見遣りながら、リリアは思う。けれどもし、ほんの少しでも父が期待してくれたのなら。
「まあ、いいじゃないの。どうせ愛されはしないのだから。“お飾り”にはぴったりよ」
イザベルの嘲笑など、今のリリアにはなんともなかった。胸に差し込んだ一縷の望みが、刺々しい視線も言葉も、全て跳ね除けてくれる。
落ちこぼれ、役立たず、邪魔者――そう言われ続けてきたリリアにとって、これはまたとないチャンスだった。愛のない結婚でもいい。それでも、この身によってフローレット家と王家を繋ぐことが出来るのなら。そうすることで家の役に立てるのなら。
もしかしたら父は、認めてくれるかもしれない。娘であることを。侯爵家の一員であることを。そして、“リリア・フローレット”というひとりの人間を。
(馬鹿よね……今まで散々、酷いことを言われてきたのに)
胸の中でひっそりと自嘲をこぼしながら、リリアはフレデリクの後ろに設えられた窓へ視線を移す。
光の粒を撒き散らす枝葉が、心地よさそうにさわさわと揺れている。春の穏やかな風に包まれながら。
(たとえ心が報われなくても……)
この身を捧げ、役目を果たすことで、漸くフローレット家の人間として認められるのならば。
(私はそれでも構わないわ)
***
退出を許されて自室へ戻ると、机の上に広げられたままのドレスが目に留まった。母が生前最も大切にしていた、淡いラベンダー色のドレス。
リリアの実母――エレナ・フローレットは、彼女を産んですぐに亡くなった。
故にリリアは、母であるエレナの顔を知らない。肖像画は全て捨てられ、エレナが生きていた頃にいた使用人は、執事長や乳母を含めみな解雇されてしまっている。
この家で唯一エレナの顔を知るのは、夫であったフレデリクと、そして後妻のイザベルだけ。もちろん二人は、先妻であるエレナの話をすることは滅多にない。
ただ時々、何かに取り憑かれたように顔を歪め、イザベルは軽蔑のこもった口調でこぼすことがある。――まるであの女の生き写しね、と。リリアの顔を、憎悪の滲んだ瞳で睨め付けながら。
まるであの女の生き写しね。
入口の脇に立て掛けた姿見の前に立ち、リリアはそこに映る自分の顔をじっと見つめる。
色素の薄い肌、おっとりとした目、青色の瞳、ふっくらとした淡い唇――。
母の記憶はまるでない。けれどこの顔を見る度、心の中の“母の面影”が、少しだけ輪郭を持つ気がする。そうなればなるほど、リリアは考えてしまう。よく似ているこの顔で、母はいったいどんな表情を浮かべていたのだろう、と。
(お母様の笑顔は、とても綺麗だったのでしょうね)
母と似ていることは、とても嬉しかった。二度と会うことの出来ない大切な存在を身近に感じることが出来るから。美しかろうとそうでなかろうと、そんなものは関係ない。母に似ている――ただそれだけがリリアにとっては重要で、そして誇りだった。
しかしそんな“容姿”を、フレデリクはただの“政治の駒”としか思っていない。才能も何もないリリアに残された、唯一の“価値”。美しい顔はいつか家の役に立つ――そうやって、リリアは幼い頃からずっと“道具”のように扱われてきた。
美貌だけが価値。それ以外は出来損ない。
――お前がこの家で無駄に生きていた年月にも、漸く意味が出来たな。
執務室を出る前に投げつけられたフレデリクの言葉を思い出し、リリアはそっと自嘲を浮かべながら、鏡に映る自身の顔に指先を触れさせる。
母に似ていることは、嬉しい。
けれど、美しくなりたかったわけではない。
それよりも、カトリーヌのような才能がほしかった。人前で堂々と振る舞える賢さや、誰にでも気に入られる愛嬌。或いは、父が誇るような異能の力を持っていたなら。
(……そうすれば、少しは違っていたのかしら)