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繕われることのないドレス

 生きることには、疾うに疲れてしまっていた。

 いつからだっただろう。誰に何を言われても、何をされても――それでも、涙ひとつ流せなくなってしまったのは。


「……また、なのね」


 ひっそりと溜息をつき、リリアは足元に横たわるドレスをゆっくりと拾い上げる。

 引き裂かれた袖、泥水を吸って汚れた胸元のレース。フリルのあしらわれた裾には、刃物で乱雑に切った痕が残っている。


(本当に、酷いことをするわ……)


 見るも無惨な姿となったドレスを抱きかかえ、リリアはそっと目を伏せる。

 それは、母の形見だった。ただ一着だけ残された、大切な宝物。とても華やかで、美しかったそれは、けれど今や、無残な布切れへと変わり果てている。


 いったい誰がこんなことを――なんて、考えるまでもなかった。

 リリアはもう一度溜息をつき、薪割り用の台に腰掛ける。真昼の春陽がたっぷりと降り注ぐ裏庭は、とてもあたたかい。けれど、リリアの胸を吹き抜けてゆく風は、とても乾いて冷たかった。


 仕立て屋に出しても、もうどうにもならないだろう。そう分かっていても、大切な母の形見を捨てることなど出来るはずもない。

 繕えるだけ繕おう。そう思いながら、ドレスの残骸を抱えて屋敷へ戻ったリリアを、嘲笑の滲んだ声が呼び止める。


「あら、とっても素敵なドレスね」


 思わぬ遭遇に、リリアはまごつく。使用人だけが利用する扉の傍で、まさか彼女――異母妹のカトリーヌと出くわしてしまうだなんて。

 カトリーヌは流行りのドレスに身を包み、優雅な笑みを湛えて立っていた。まるでリリアの行く手を阻むように。面白い玩具を逃したくないのだろうことは、容易に見て取れた。


「……おかえりなさい」


 彼女は朝から恋人と出かけていたので、つい油断してしまった。けれどそう後悔したところで、見つかった後ではもう遅い。

 ならばせめて、この場から早々に逃げ出そう。気に障ることさえ言わなければ、からかい甲斐がないと飽いてくれるに違いない。そうする為の術は、これまで嫌というほど憶えさせられてきた。耐えることには、もう慣れている。


「まあ、ありがとう。素敵な時間を過ごせて、とても幸せだったわ。……裏庭にいたお姉様とは違ってね」


 そう言いながら、カトリーヌはちらりと、リリアの腕に抱えられたドレスを一瞥する。愛らしいかんばせを、とても愉しそうに歪ませて。

 詰ったところで無駄だと分かっている。この屋敷のどこにも、リリアの味方はひとりもいない。使用人どころか、唯一の肉親である父ですら。誰もがカトリーヌを庇い、そしてリリアを責めることだろう。可愛い妹を虐めて楽しいのか、と。


「そう。それなら良かったわ」


 それ以上は何も言わず、リリアはただ静かに微笑する。何も感じていないわけでは、決してない。けれどこの場を遣り過すには、ほんの僅かも感情をこぼすことのないように“仮面”をかぶるしかないのだ。


 いつもであれば、これで終わりだった。彼女はリリアの反応を見て、それを愉しんでいる。しかし、何の手応えもなければ、嘲り甲斐はない。だから、彼女の望む反応と真逆のことをすれば、殆ど飽いてくれていた。

 けれど今日のカトリーヌは、リリアを逃さない。


「また繕うの? ご苦労なことね。でも、そのままでもいいんじゃないかしら」


 くすくすと、カトリーヌは愉しそうに嗤う。まるで天使のように愛らしい顔に浮かぶそれは、無垢の皮を被った悪意そのものだった。


「だって、お姉様の()()()()なら、何を着ても美しくなるでしょう?」


 ああ、やっぱり――。諦めの滲んだ溜息を胸の中で密かにこぼし、リリアはそっと目を伏せる。


 果たして何が彼女の癇に障ったのだろう。誰の目にも留まらぬよう、一日の殆どを部屋にこもって過ごしていたし、食事だって別々に摂るようにしていた。夜会にも参加しなかったし、最近カトリーヌが熱を上げているという公爵家の嫡男にだって一度も会ってはいないというのに。


 そう考えているリリアを、カトリーヌは嫌な笑みを浮かべたままじっと見ていた。何かを期待するように。

 もちろんそれが何であるのか、分かっている。だから口を開くことはせず、リリアはただ静かに、足元に視線を落としていた。


「……ふぅん。何も言わないつもりなのね」


 やがて飽いたのか、カトリーヌは退屈そうに肩を竦めた。


「ほんと、つまらない人」


 それだけを言い残し、カトリーヌはひらりとスカートの裾を翻す。

 優雅な歩みで去ってゆく後ろ姿を、しかしリリアは見送ることはしなかった。


(……もう、慣れているわ)


 足音が聞こえなくなるまで顔を上げることはせず、リリアはじっと靴先の汚れを見つめていた。

 もう随分と昔に買ってもらった、流行遅れのモスグリーンの靴は、何度も手入れを重ねたせいで、すっかり色褪せてしまっている。


 しばらくそのまま立ち尽くしていたが、リリアはひとつ溜息をつくと、母の形見であるドレスをそっと抱き直した。

 使い慣れた裏口から廊下へ出ると、幸いにも人の姿は見当たらない。

 春の暖かな陽射しが差し込む中、彼女は足早に歩き出し、屋敷の最奥にある薄暗い階段を静かに上る。――いつも通り、誰にも気づかれないように。


 部屋に入って扉を閉めた瞬間、漸くリリアの身体から、ふっと力が抜けていった。


「お母様のドレス、どうにかなるかしら……」


 窓辺に置かれた机に歩み寄り、大事に抱き締めていたドレスの残骸を広げる。

 何度見ても、ぼろぼろになってしまった姿に、心がひどく痛む。ドレスを“物”だと言ってしまえば確かにそうだが、しかしリリアには、記憶にない母を感じられる唯一の寄す処だった。


「なんとしても治したいのだけれど」


 嘗て母が着ていたのだろう、華やかで美しい、淡いラベンダー色のドレス。このドレスを密かに渡してくれた乳母は、母の最も愛したドレスだった、と言っていた。それを知っているからこそ、出来うる限りのことをしたい。


 もちろん針子の経験などないので、針を持つ手はお世辞にも器用とは言えないけれど。それでも、もう一度この手で、あの美しさを取り戻したかった。

 小さく息を吸い、リリアはドレスのやわらかな布地をそっと撫でる。どこか遠い記憶を探るように。


(このドレスを纏ったお母様は、どんなふうに笑っていたのかしら)


 屋敷には、母の肖像画は一枚も残っていない。故に、想像する母の姿はいつもぼんやりとしていて、定かでなかった。

 それでもその姿はいつも、リリアの胸の奥で微かに光を灯してくれる。とてもやさしい、あたたかな光を。リリアにとって、でもそれだけで十分だった。


 このドレスだけは、なんとしても守りたい――。

 そう思いながら、古びた裁縫箱の中から色味の近い糸を選んでいる時だった。唐突にドアがノックされ、リリアは容赦なく現実に引き戻される。


「は、はい――」


 返事をし終えるより先に、ドアは勝手に開かれた。立っていたのは後妻のイザベルで、彼女は気味悪がるような目で室内を見回すと、すぐに扇子で口元を覆った。まるで、この空気さえ汚らわしいとでも言うように。


「まぁ……相変わらず陰気な部屋ね」


 そう言って、イザベルは忌々しげに眉根を寄せた。


「侯爵様が、あなたをお呼びよ。早くしてちょうだい」

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